調査員、着任
財務局の調査員二名がロッテンブルク侯爵領の境を越えたのは、第二回枢密院審議から五日後のことだった。
審議には、やはり誰も来なかった。
様式第二一九号、「履行能力確認調査開始通知」はその前日に発送されている。調査員の名は台帳に記録され、出発の記録があり、到着予定日の記録がある。本家国において、調査は手続きの上で既に始まっていた。
二名の調査員は財務局の上席書記官、クルト・アーベルと、同じく書記官のマティアス・ツィーグラーだった。クルトは四十代半ば、二十年以上台帳と向き合ってきた男で、感情的な起伏がほとんどない。マティアスは二十代後半、入局七年目で、台帳の精度については局内で評判が高かった。
どちらも、武器を持っていなかった。財務局の調査員は台帳と羽根ペンで武装している。
*
ロッテンブルク侯爵城の正門で、二名を出迎えたのは家宰ハンス・グリュンだった。
六十近い、がっしりした体格の男だった。表情は穏やかだったが、後ろに兵が四名いた。
「よくいらっしゃいました。ご苦労なことです」
クルトが様式第二一九号の写しを差し出した。
「財務局書記官、クルト・アーベルと申します。条約義務履行能力の確認調査のために参りました。調査期間は規定の七日間です。当主クラウス・フォン・ロッテンブルク侯爵へのご面会をお願いしたい」
グリュンが書類を受け取った。受け取った、という事実が生まれた。
「侯爵は体調不良です。面会は難しい」
「規定上、調査員は当主への面会を要求する権限を持ちます。様式第二一九号の第三項をご確認ください」
グリュンが書類の第三項を見た。見た、という事実が生まれた。
しばらく間があった。
「明日の朝であれば」
「明日の朝で結構です。それまでの間に、上納台帳の閲覧をお願いしたい。こちらも様式第二一九号の第二項に規定がございます」
グリュンの表情が、初めてわずかに動いた。
「……案内しましょう」
*
台帳室に通されて一刻も経たないうちに、扉が開いた。
若い男が入ってきた。二十代半ば、背が高く、顎の線が鋭い。ロッテンブルク侯爵家の家紋が入った上着を着ていた。
「財務局の方々ですね」
クルトが顔を上げた。
「はい。書記官のクルト・アーベルです」
「ルードヴィヒ・フォン・ロッテンブルクです。父の代理として対応します」
「当主の代理として、というご趣旨でしょうか」
「そうです」
クルトは台帳に視線を戻しながら言った。
「調査の相手方は当主本人でございます。代理を認める規定は調査手続きにございませんが、資料の閲覧補助という形でご同席いただくことは可能です」
ルードヴィヒが少し顎を上げた。
「調査員は何を調べていますか」
「上納台帳です。先月末分以降の記録を確認しております」
「それ以外は」
「現時点ではございません」
ルードヴィヒが台帳を横から覗き込んだ。クルトは動じなかった。マティアスが羽根ペンを走らせる音だけが続いた。
「調査の結果次第で、中央はどう動きますか」
「それは私の判断する事項ではございません」
「では誰の判断ですか」
「財務局長、および枢密院の審議によります」
ルードヴィヒがしばらく黙っていた。それから、やや声を落として言った。
「父は、もう判断できる状態にない。あなた方はそれを知っていますか」
クルトが羽根ペンを止めた。一瞬だけ、顔を上げた。
「私は台帳の確認に参っております」
「聞いているのかと聞いています」
「調査の対象外の事項についてのお話は、記録に含めることができません」
ルードヴィヒが一歩、前に出た。
「父の状態を中央に伝えてくれれば、正当な継承手続きを踏む用意はある。そのための協力を」
「それは」
クルトが台帳を閉じた。
「私の職務の範囲外でございます。ルードヴィヒ様がそのような申し出をされたことは、私の調査記録には含まれません。なぜなら、調査記録に含めるべき事項ではないからです」
「ということは」
「今の会話は、記録されません」
ルードヴィヒが口を閉じた。台帳室の中に、羽根ペンの音だけが戻ってきた。マティアスはずっと書き続けていた。
*
翌朝。
クルトとマティアスは、案内されて当主の私室の前に立った。
扉を開けたのはグリュンだった。
部屋の中央に椅子があった。椅子に、老いた男が座っていた。
白髪。右半身がわずかに傾いでいる。目は開いているが、焦点が定まらない。口元が微かに動いているように見えたが、言葉は出ていなかった。グリュンが傍らに立ち、背中に手を添えた。
クルトが一礼した。
「クラウス・フォン・ロッテンブルク侯爵にお目にかかれます光栄に存じます。財務局書記官、クルト・アーベルでございます。条約義務の履行能力確認調査のご説明に参りました」
クラウスが、首をわずかに動かした。
反応と言えば反応だった。
グリュンが静かに言った。
「侯爵はご面会を了承されました」
クルトは一拍、間を置いた。
「ありがとうございます。一点のみ確認させてください。上納の件につき、侯爵よりご指示を頂戴できますでしょうか」
グリュンが侯爵の耳元で何かをささやいた。クラウスの右手が、膝の上でわずかに動いた。
「侯爵は『対処する』とおっしゃっています」
クルトがマティアスを見た。マティアスがそれを書いた。
「承知しました。ご面会、誠にありがとうございました」
廊下に出た瞬間、扉が閉まった。
二人はしばらく無言で歩いた。階段を下りながら、マティアスが小さく言った。
「書記官、あれは」
「私には当主が面会に応じたと記録されました」
「ですが」
「私には当主の言葉として『対処する』という発言が記録されました」
マティアスがペンを持ったまま止まった。
「記録として、それは有効ですか」
クルトが歩みを止めずに答えた。
「それを判断するのは私の職務ではありません」
*
調査三日目。
台帳室で上納記録を照合していたクルトのもとに、グリュンが現れた。
「一点、申し上げたい」
「どうぞ」
「調査員は台帳の確認以外の目的で当城に滞在することはできない、という理解でよろしいですか」
クルトが書類から顔を上げた。
「規定上はその通りです」
「では、台帳の確認が完了した時点で、調査は終了となりますか」
「台帳の確認が完了し、調査記録が作成された時点で、この調査の現地段階は終了します」
グリュンが腕を組んだ。
「台帳はいつ確認が完了しますか」
「規定の七日以内に完了します」
「三日目に完了することは」
「台帳の状態によります」
グリュンが少し間を置いた。
「台帳を全て開示します。お急ぎであれば、本日中に全て」
マティアスが小さくペンを持ち直した。
クルトは台帳の上で視線を動かしながら言った。
「台帳の閲覧は規定の手順に従って進めます。七日間、丁寧に確認させていただきます」
「しかし」
「急ぐ理由がございません。規定の期間内に、規定通りに完了します」
グリュンが返答に詰まった。
台帳室が沈黙した。
*
六日目の夜。
クルトが調査記録の草稿を手に持ち、マティアスに言った。
「明日、記録を完成させる。内容を確認しておけ」
マティアスが草稿を読んだ。
「書記官」
「何だ」
「当主への面会の記録の部分ですが」
「書いた通りだ」
「面会は成立したと記録されています。ですが、『対処する』という言葉の真正性については」
「真正性の確認は私の職務ではない」
「では」
「記録には、起きたことを書く。起きたことの意味を判断するのは、この記録を受け取った者の職務だ」
マティアスがしばらく草稿を見ていた。
「この記録を読んだ者は、何を考えるでしょうか」
「それは読んだ者が考えることだ。私が考えることではない」
クルトが草稿を受け取って、机の上に置いた。
「一点だけ付け加える。調査期間中、ルードヴィヒ・フォン・ロッテンブルク殿より調査記録に含めることのできない申し出があったことを、帰還後に口頭で局長に報告する。これも記録には含まれない」
「含まれない報告、というものがあるのですか」
「ない。だから報告する」
マティアスは少し考えてから、頷いた。
*
七日目、調査員二名は正門からロッテンブルク侯爵城を出た。
グリュンが見送った。ルードヴィヒは姿を見せなかった。
二名が境を越えた時、マティアスが言った。
「書記官。我々は七日間で何を発見しましたか」
クルトが前を向いたまま答えた。
「当主に面会した。対処するという言葉を得た。台帳の記録を確認した。上納の遅延は事実として記録した。以上だ」
「それだけですか」
「記録されたことが、存在することだ」
しばらく、街道の石畳を踏む音だけが続いた。
「記録されなかったことは」
「存在しない」
マティアスが少し間を置いた。
「では我々は、非常に多くのものを発見しなかったことになりますね」
クルトが初めて、ほんの少し口の端を動かした。
「優秀な書記官は、何を書かないかを知っている」
二人は王都に向けて歩き続けた。
*
クルトの調査記録がフェリックス・ヴォルフの机に届いたのは、二人が帰着した翌朝だった。
フェリックスは読んだ。全文を、三度。
それからエリザベータを呼ぶよう、マリアンネに伝えた。
エリザベータが来た時、フェリックスは記録を机の上に置いたまま言った。
「調査記録をお持ちしました。当主への面会は成立しています。当主は『対処する』と発言しました。台帳上の不備が複数確認されました。調査員は七日間、規定通りに業務を遂行しました」
「以上ですか」
「以上が記録です」
エリザベータは記録を手に取った。
「記録にないことは」
フェリックスが一拍置いた。
「調査員クルト・アーベルより、口頭の報告があります。記録外の申し出が調査中にあったとのことです」
「内容は」
「継承手続きへの協力を求めるものだったそうです」
「誰からの申し出か、記録にはありますか」
「ありません」
エリザベータは調査記録を置いた。
「分かりました。フェリックス局長、この記録を枢密院に提出してください」
「記録外の件は」
「記録にないことは存在しません」
フェリックスが一礼した。退室する前に、一度だけ振り返った。
「殿下。次の枢密院審議で、この記録はどう読まれますか」
エリザベータは少し考えた。
「当主は面会に応じた。対処すると言った。しかし何も変わっていない。それだけが、記録から読めることです」
「それだけから、枢密院は何ができますか」
「当主の言葉に基づいて、次の様式を要求できます」
「どのような」
「具体的な履行計画書。様式第二二〇号です。当主の署名入りで、期日を明記したものを」
フェリックスが目を細めた。
「当主が署名できる状態でなければ」
「様式第二二〇号が届かなければ、届かなかったという記録が残ります」
「そして」
「記録が積み上がります」
フェリックスが、何も言わずに一礼した。
扉が閉まった後、マリアンネがいつもの位置で言った。
「ずいぶんゆっくりですね」
「急ぐ理由がありません」
「ロッテンブルク侯爵領の民は」
エリザベータは次の書類を手に取った。
「グリュンとルードヴィヒが争っている間も、定期市は動いています。エッカルト侯爵領経由の穀物は首都に届いています。今のところ、民の生活を直接脅かす事態にはなっていない」
「今のところ、ですね」
「そうです」
エリザベータが書類に目を落とした。
「様式第二二〇号の到着を待ちます。届かなければ、次の様式があります」
「届き続けなければ」
「記録が、条款よりも厚くなります」
窓の外で、午後の光が中庭に落ちていた。
「様式にない感情」
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王女が出てこないので別エピソードですが、お時間あるときにでも




