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誰も来なかった【3話】


召喚状への返答は、期日の三日前に届いた。

様式第四〇二号。「出席不能届」だった。

署名はハンス・グリュン、家宰。理由欄には「当主体調不良につき代理出席を要請する」と記載されていた。代理出席者の名は、ルードヴィヒ・フォン・ロッテンブルクと書かれていた。

枢密院事務局が確認したのは一点だけだった。召喚状の名宛人はクラウス・フォン・ロッテンブルク侯爵本人である。代理出席を認める規定は存在しない。

様式第四〇三号、「出席不能届不受理通知」が翌日ロッテンブルク侯爵領に向けて発送された。

審議当日。

枢密院の議場に、ロッテンブルク侯爵領からの出席者はなかった。

審議の記録は翌朝エリザベータの机に届いた。

五行だった。

「ロッテンブルク侯爵領当主、召喚に不応。条約義務未履行の確認、継続審議とする。次回審議において当主の出席が確認されない場合、条款外措置の検討に移行する」

条款外措置。二百年近く、誰も書かなかった文字だった。

マリアンネが茶を置いて、記録を一度だけ見た。

「条款外措置というのは、具体的に何でしょうか」

「規定されていません」

「規定されていないということは」

「何でもできる、ということと、何もできない、ということの両方を意味します」

マリアンネは特に何も言わなかった。

カロリーネ・フォン・エッカルトから連絡が来たのは、審議の三日後だった。

前回と同じ方法だった。様式のない書状。侯爵家の紋章の封蝋。マリアンネの手で直接届いた。

文面はさらに短かった。

「前回と同じ場所で」

散策路の水盤の前に、カロリーネはいた。今回は旅装ではなく、諸侯としての正装に近い格好だった。それ自体が何かを意味している、とエリザベータは思った。

「お時間をいただきます」

「いいえ。続きをうかがえますか」

カロリーネが少し息を整えた。

「クラウス侯爵は生きています」

「それは」

「確かです。ただし、起き上がることができない。脳の発作だと領境の商人から聞いています。二か月近く前に倒れた。右半身が動かず、言葉もほとんど出ない状態だそうです」

エリザベータは黙っていた。

「問題は、クラウス侯爵がそれを認めないことです」

「認めない」

「倒れた翌日から、侯爵は『回復中』という立場を崩していません。書類への署名は、家宰グリュンが手を添えて取っているという話です。判断はできない状態で、形だけ当主の体裁を保っている」

三通の書状のうち、クラウス本人の署名があったもの。あれが、その状態で取られた署名だった。

「ルードヴィヒは」

「嫡男は、父親の状態を早くから把握していました。早すぎたことが問題で」

カロリーネが少し間を置いた。

「倒れた翌週に、ルードヴィヒが家宰グリュンを執務室から締め出したそうです。父の意識が戻らない間に自分が実権を取ろうとした。グリュンはそれを拒否して、倒れた当主を盾に『委任を受けた正当な代理人』として動き続けている」

「クラウス侯爵の意思は」

「確認できる状態にない。グリュンはそれを承知の上で、署名だけ取っている。ルードヴィヒはそれを無効だと主張している。二者の間で、領内の実務が完全に止まっています」

エリザベータは水盤を見た。今日は風がなく、水面は動いていなかった。

「財務局への三通の書状は」

「両者がそれぞれ『自分が正当な代理人だ』という実績を作ろうとして、個別に送ったものだと思います。グリュンが委任状つきで送り、ルードヴィヒが代理として送った。クラウス侯爵のものは、グリュンが署名を取った」

三通の構造が、ようやく一本に繋がった。

「カロリーネ侯爵、この情報はどこから」

「南部の定期市を仕切っている商人と、長い付き合いがあります。ロッテンブルク領の穀物はエッカルト領経由で首都に入ります。その流れが止まれば私の領への影響も出ます」

「商人の話ですね」

「様式はありません」

二人は少しの間、何も言わなかった。

中央が公式に持っている情報は、台帳の記録と、三通の書状と、召喚状への不応だけだった。クラウス侯爵が倒れたことも、領内が二分していることも、中央のどの文書にも書かれていない。

「中央にとって、これは存在しない情報です」

エリザベータが言った。

「はい」

「ただし、存在しない情報があることを、私は知っています」

カロリーネが少し考えてから頷いた。

「それで、殿下はどうなさいますか」

エリザベータは水盤から目を上げた。

「二つだけ確認させてください」

「はい」

「クラウス侯爵は、自分の名前を書ける状態にありますか」

カロリーネが少し間を置いた。

「商人の話では、手を添えられれば書けるそうです。判断はできない」

「判断はできないが、署名の形は作れる」

「そう聞いています」

「もう一点。ルードヴィヒとグリュン、どちらが領内の兵を持っていますか」

カロリーネが初めて、明らかに意外そうな顔をした。

「……グリュンです。兵の指揮権は家宰が管理しています。ルードヴィヒは文書上の代理を主張していますが、実力的には家宰側が上です」

「分かりました」

エリザベータは踵を返した。帰り道の砂利を踏みながら、背後のカロリーネに声だけ向けた。

「ありがとうございます。次は正式な手続きをします」

「正式な手続きで、どこまでできますか」

「存在しない情報は使えません。ただ」

一瞬だけ立ち止まった。

「知っていることと、できることは別の話ですが、知っていることは知っていることです」

カロリーネが何か言おうとした気配があったが、エリザベータはもう歩き始めていた。

その夜、エリザベータはフェリックスとゲルハルトを呼んだ。

いつもと同じ、執務室での打ち合わせだった。記録官が同席し、議事録が作られる。

「枢密院の次回審議までに、確認しておきたい規定があります」

「どのような」

「ロッテンブルク条款の原文です。特に、当主が義務を果たせない状態にある場合について、条款に規定があるかどうか」

ゲルハルトが即答した。

「ありません。条款制定時、そのような事態は想定されていませんでした」

「想定されていないということは、条款の適用外です」

「そうなります」

「当主が義務を果たせない状態にあることを、中央が確認する手続きはありますか」

今度は少し間があった。

「当主の健康状態の確認を中央が行う規定は存在しません。ただし、条約義務の履行能力の確認であれば、別の話になります」

「別の話」

「条約義務の履行能力の確認は、財務局の所管です。上納の継続的な不履行が確認された場合、財務局は履行能力確認調査を申請できます。これはロッテンブルク条款の自治権の範囲外になります」

フェリックスが静かに言った。

「申請は、私の局からできます」

「申請すれば」

「中央の調査員が、ロッテンブルク侯爵領に入る根拠ができます」

調査員。財務局の官吏が、条款によらず、領内に入ることができる。

エリザベータは記録官が羽根ペンを走らせる音を聞きながら言った。

「申請の準備をしてください。ただし、申請は枢密院の次回審議の結果を確認してからです」

「召喚に応じなければ」

「次の審議でも誰も来なければ、申請します」

フェリックスとゲルハルトが同時に頷いた。

記録官がページをめくった。

誰も来ない、という予測をエリザベータが持っている理由は、この部屋の記録に書かれていない。

書かれていないことは存在しない。

ただし、起きることは起きる。

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