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貧乏男爵家の調査官日誌  作者: 林はるる


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恋心の経年劣化


 婚約者のウリスが、学院の中庭の東屋で、女性たちに囲まれているのを、マルガリータは二階の窓から眺めていた。華やかなウリスは女性たちの憧れの的で、その社交的な性格と相まって、いつもお相手のいない女性たちの理想の恋人役を担っている。今も彼がなにか冗談を言ったのだろう。場がわっと盛り上がったのがわかる。


 ウリスのエスコートは完璧らしい。デートスポットの選び方も、おしゃべりも完璧で、贈り物も……。生憎、婚約者のマルガリータはそれが事実か知らない。どれも見たことがないからだ。


「どうせあいつは俺の事が好きなんだから、なにをしたって大丈夫さ」


 ウリスが陰で、マルガリータについて言った言葉だ。マルガリータがウリスのことを好きなのは、本当だ。恋い焦がれて、婚約までこぎ着けた。今だって、こんな扱いをされても黙っている。だがそれでいいのか、もうわからなくなってきていた。


◇◇◇◇◇◇



 マドサ子爵家の長女マルガリータは、近接地のウベーロ男爵家三男ウリスのことが好きだった。こんな田舎では見かけない線の細さから、彼は地元の少女たちに人気があったが、なによりも優しい性格だった。おしゃべりが苦手なマルガリータを、人の輪に誘ってくれる。庭に生えていたシロツメクサを摘んでくれたときは、初めて男の子から花をもらい、嬉しかったものだ。


 だから子どもたちの定期交流が楽しみだったし、地域の集まりにも積極的に参加するようになった。不器用で引っ込み思案だったマルガリータが、それでも表に出るようになったのは、間違いなくウリスのおかげだ。だが人前ではうまくできず、失敗続きだったマルガリータは、時には諦めようとしたこともある。特に教会の出し物の、星の子の踊りを頑張って練習し披露した時に、緊張のあまり上手く踊れず、子爵令嬢という立場だったにもかかわらず、上位三名がもらえるスイートピーの花冠をもらえなかった。悲しくて、悲しくて、うまくできない自分に悲しくて、もうがんばるのをやめようかと。だが帰りの馬車で、ウリスがシロツメクサの花冠を頭にかぶせてくれた。嬉しい気持ちより、驚きの気持ちが勝ったマルガリータはこう聞いた。


「どうして?」

「だってマルガリータは、ずっとがんばっていたから。冠をもらえて当然だよ」


 ウリスは自分のことを、見ていてくれていたのだ。そう思うととても嬉しくて、お嫁さんになるならこの人しかいないと、幼きマルガリータは心に決めていた。


 ウリスへの恋心に気が付いた親が、婚約を検討しだした時にはときめきを抑えられなかった。そして検討し終わった後、両親にはこう告げられる。


「率直な話、マドサ子爵家に婿に来るには、ウリス君はちょっと能力が足りない」と。

「……どういうことですか。お父様。ウリスは同世代ではそれなりに優秀と聞きました」


「マルガリータ。それは男爵家の三男としての評価だ。我が子爵家の婿になるには足りないのだよ」

「それはつまり、婚約は難しいと?」

「ああ」


 父親は黙って、娘の次の言葉を待つ。ウリスに夢中になっていたマルガリータは、これを機会になんとか婚約を結ぼうとした。


「それなら……それなら、その分は、私がフォローします。ウリスの分も私が働きます」


 そう言われた父親は内心、がっかりした。厳しいことを言うと、マルガリータは家のための政略結婚を、私利私欲のために結ぼうとし、家が飛躍する機会を潰そうとしたからだ。だが同時に、結婚にそこまで厳格なことを求める気もなかった。娘が子爵家の力を、ウリスに尽くしたいと言うなら、娘の代の子爵家はそうすればいい。それが娘の能力の限界なのだろうと、そんな風に思ったからだ。


 この件では娘とよく話し合い、婚約締結はぎりぎりまで伸そうと画策したが、二人が十三歳になり、王都の学院に入学する時期になると、ウリスを他の家に取られることを恐れたマルガリータが、強く後押しし婚約が締結された。


 そして二人は婚約者同士として、学院に通うようになる。


 学院の中等科は全寮制で、男女別学だが、合同の行事が多く、知り合う機会は多い。そんな中で華やかで優しいウリスはすぐ人気者になり、男女区別なく人に囲まれるようになってしまった。自分の魅力に気が付いた彼は、あっという間に女好きの軽い男に変身した。マルガリータは戸惑い、なんとか戻そうとしたが、本質が変ったわけではないため、どうにも手の打ちようがない。人気者になったウリスは、婚約者のことを見下すようになる。元々、好意を隠さなかったマルガリータと、それをただ受け入れていたウリスには、はっきりとした力関係があった。マルガリータが尽くして、ウリスはそれを享受するという。


◇◇◇◇◇◇



 十六歳になり、高等科に入学したマルガリータは、ウリスの分と合わせて、八本のレポートを書いていた。優しいが辛辣な所もあるマルガリータの父親は、子爵令嬢としての本分を疎かにしようものなら、きつい皮肉まじりの手紙を送ってくる。絶対に成績を下げるわけにはいかなかった。同じように婿養子になるウリスの成績も、下げるわけにもいかない。そう思うと、きつい作業だった。


 提出物を頼まれるようになったのは、中等科に入ってすぐで、その時のご褒美は定例のお茶会への出席だった。つまり出席が義務の婚約者同士のお茶会に、条件をつけてきたわけだ。その範囲はあっという間に広がり、ウリスが父親から与えられた課題や、学校行事の準備、彼とお友達のための旅行や遊びの準備まで、なんでも加わるようになった。最初の頃は、それでも「頼むよ」と一言あったものだ。だがそんなものは、すぐに「やって当たり前」になり、お礼を言われたこともなければ、茶会にだって出てきたことはない。


 こんな作業、馬鹿みたいだ。こんな自分、馬鹿みたいだ。なにもかもが、馬鹿みたいだ。


 マルガリータは何度も考え、悩んだ。だがウリスのことをどうやっても好きなのだ。こんな風に扱われても、気持ちを変えることができない。もう苦しくて頼み事を断りたいと、ずっと思っている。勇気を出さなければいけないと、思っている。でも…………嫌われたらどうしようと、ずっとそればかり考えてしまう。


 渡り廊下を歩いていたマルガリータは、正面の教室でいちゃいちゃしている、ウリスと愛人のカミラを見つけた。この時間帯は西日が反射するため、見えていないと錯覚したのだろう。それを見て心の中に、「結婚してもらうのだから、我慢しなければならない」という思いが浮かんだ。必死に作業し、好きなだけ女性と付き合う時間をウリスには工面してやって、そうやって尽くし頼み込んで結婚してもらう。それがマルガリータの幸せなのだ。


◇◇◇◇◇◇



 会議室に入ると、ソンテス伯爵家の次男ソフロニーオと、ラムレイ男爵家長男ジュリウスが話していた。もうすぐバザーが開かれるが、その警備態勢を確認する会にウリスの代理で出席した。


「あれ、これだけですか。他の方は」

「昨年と同じでいいだろうと言って、座りもせず帰って行ったよ」

「確かに、変更しなくても良いことは良いのだが……」


 困ったような顔をしている。


「……あのう、私は気になります。昨年と同じでいいかどうかを、確認させてください」

「良い提案だ」

「その通りだ」


 ソフロニーオと、ジュリウスはうんうんと頷くと、マルガリータを加えて確認を始めた。ソフロニーオは騎士を目指しているそうで、こういった作業は得意だそうだ。ジュリウスはそもそもこういった仕事が専門とのことで、作業はすぐに済み、思ったよりも時間が余ったので、他の作業を少し進めることにする。そうやって何度か一緒に作業している内に、親しくなっていった。二人とも気さくで落ち着いていて、話していて、どこかほっとするところがあった。


 だから何回目かの会合に向かおうとして、午後、図書館の椅子から立ち上がった時、少しうきうきとしていたのだ。


「どうせあいつは俺の事が好きなんだから、なにをしたって大丈夫さ」

「ひどすぎない? その言い方。もっと優しくしたら」


 すぐ近くでウリスとカミラの声が聞こえ、ぎょっとして固まっていると、二人が少し離れた本棚の向こうにいるのに気が付いた。くすくすと笑い合って、こちらには気が付いていないようだ。


 ……自分で言う分にはいい。自分が馬鹿だと……わかっているから。だが相手から言われるのは、きつかった。こんなにつらいことが、あるのかと。自分の心が握りつぶされる激しい痛みをはっきりと感じ、息ができない。


 のろのろと歩き出し胸を押さえながら、マルガリータは図書館の外に出る。自分でもどこを歩いているのか、意識していなかった。まるで幽霊のようにふらついていたが、助けを求めるように会合場所に向かう。中に入ると挨拶はされたと思う。返す余裕はなく、椅子に座るとただぼんやりとしていた。なにも見えず、なにも聞こえなかった。


「…………寒い」


 夕方を過ぎ、辺りが暗くなると、本格的に気温が下がってきた。足元からぴりぴりとした冷えが上ってきて、無意識に自分を抱きしめて、二の腕をさする。何度もその動作をする内に、肩に上着が掛けられていることに気が付く。その上着をたぐり寄せようとして、そもそも誰のだろうと顔を上げた時、大きな紙袋を抱えたジュリウスとソフロニーオが部屋に入ってくる。そしてすぐ近くに、同級生だったシェリーが座っていた。


「良かった。気が付いたんだね。様子がおかしかったから心配したよ」


 寒いだろうにシャツだけのソフロニーオが、ほっとしたように話しかけてきた。戸惑っていると騎士の詰め所に連れて行かれ、なぜか軽食を取ることになった。真っ暗な校舎に、詰め所だけは煌々と灯りがつき、広い部屋のあちらこちらで騎士が談笑しながら待機している。マルガリータ以外の三人には、見知った場所らしく慣れた感じで入っていった。


「……そんなこと言われたの……」


 お淑やかな外見に似合わず、がつがつとミートパイを平らげていたシェリーは、話を聞いて絶句していた。隣に座っているジュリウスは、チェリーパイを食べながら眉間にしわが寄っていて、その正面に座っているソフロニーオは、ウサギのパイを食べながらなにやら考え込んでいる。


「私が……悪いの。本当のことだし……そう、本当のことだから」


 最初は無理矢理、口に押し込まれたサツマイモのパイを食べて、少し元気なったマルガリータは、いつものとおり自分を我慢させて、事態を乗り切ろうとした。なぜかまわりにいる、騎士という名の大人たちは、差し入れのパイを食べながら無言だ。


「「うーん」」


 ジュリウスとシェリーはうめき声を上げ黙っていた。二人はこう言う時、ずばずばと物を言ってしまう所があるが、今のマルガリータには酷だろうと判断したからだ。それにこの手の問題は、本人がどうにかしようと思わない限り、外野は手を出しにくいものだ。だが目の前にいるマルガリータは、なにかきっかけさえあれば、この泥沼から抜け出せそうにも見えた。


「駄目だ。俺には耐えられない。なあ、マルガリータ嬢。そんな関係で結婚して、子どもはどうなるんだ? 父親に愛してもらえるのか」


 ソフロニーオがそのものずばりを聞くと、騎士たちが手で口を覆った。


「それは、わからないけど、……さすがに子どもは、愛してくれるはずよ」


 この場でそう考えているのは、マルガリータだけのようだ。


「俺にはとてもそうは思えない。でも君の言うとおり子どもは可愛がったとしよう。だが母親である君は? もし……大事にされなかったら、子どもはそれを見せつけられて育つんだよ」


「じゃあどうすればいいのですか」


 本当のことを言われ、嘘をつかされ、不安に思っていることを指摘されたことに、むっとする。感情的になっているのがわかり、マルガリータは手で口を押さえた。


「君の結婚は将来、生まれる子どもの幸福を犠牲にして成り立つんだ。でも子どもより自分の幸せを優先する人間が、本当の意味で幸せになれるとは思えない」


 きつい言葉をはいたソフロニーオを、ジュリウスが小声で叱った。


「言い過ぎだ」


 怪訝な顔をした後、マルガリータは少し口を開けたまま固まってしまった。言われたことを何度も反芻し、持っていたパイがテーブルに落ちるのにも気が付かない。


 自分は世界で一番不幸だと思っている。好きな人に手ひどく扱われ、その愛人や取り巻きとの仲の良さを見せつけられ、過重労働の日々。そんな不憫な人間の、たった一つの願い事が結婚だ。なにもかもを諦めて、尽くしたのだから、ほんのささいな願いくらい叶っても良いはずだ。


 だって……可哀想な自分がこれだけやってやったのだから。


 自分の健気な願いが、どうしてこんなに傲慢に聞こえるのか、マルガリータはいぶかしんだ。


 先ほど「子どもは愛してくれるはず」と希望的観測を述べた。正直に言おう。「結婚さえできるのなら、生まれる子どもの事なんてどうでもいい」と。自分の本心を見たマルガリータは、こんな人間だから愛されないのだと絶望した。


 ソフロニーオとシェリーは、黙っているのを我慢できなくなったらしく、軽く質問を始めた。


「彼の仕事は断れないのかい? マルガリータ嬢」

「そうね。好きだってのはわかったわ。でも、どうして、そんなに言いなりなの?」


 答えなんて決まっている。それなのに、口にすることができなかった。何度も言おうとして、口を開こうとすると、感情が高まって、今にも取り乱してしまいそうだ。そんなマルガリータを見て、最後に取っておいた杏のパイを、ジュリウスは味わいながら、手助けするように小声で言った。


「『嫌われたくない』から」


 マルガリータの目に涙がじんわりと広がった。


「そうです……」

「え? でも」


 なにかを言いかけたソフロニーオの口を、後ろにいた騎士も、正面にいたジュリウスもふさぐ。


 王都に来た十三歳のあの時、ウリスは自分に好意を向けてくれていた。だから頼み事をされた時に、断って「嫌われたくない」と思った。だが彼の行動はどんどん増長し、彼の感情も変化していった。それなのに、ずっと「嫌われたくない」という言い訳を使っていた。その言い訳さえ使えば、例えウリスがどうあろうと、マルガリータは恋する乙女のままだ。


 もう……愛されていないというのに。


 薄皮をはいでいくように、自分の心の奥底に眠っているものを、掘り起こしていき、一番見たくなかった真実を見たが、どういうわけか、あまり衝撃を受けなかった。まるで水が染み渡っていくように、すんなりと受け入れることができる。マルガリータはもう疲れ切っていて、目をそらす体力が残っていなかったのだ。


 ジュリウスは負担を減らす提案をした。


「マルガリータ殿。君が頼みを引き受けようと、引き受けまいと、彼の……好感度は変らない。だから無理をしな……」


「私、婚約を解消します」


「「え!」」


「そうね」


 あまりにも突然の宣言に、ジュリウスも、ソフロニーオも、その場にいた騎士たち全員も驚いていたが、シェリーは一人、納得していた。瞳に生気を取り戻したマルガリータに笑いかける。


「女って一度、心を決めたら、もう振り向かないものよ」


◇◇◇◇◇◇



 報告を受けた父親のマドサ子爵は、時間はかかったものの娘が目を覚ましてくれて、ほっとしていた。そして子爵から連絡を受けた、ウリスの父親、ウベーロ男爵は真っ青になっていた。ウリスの悪い噂は田舎の領地にまで届いていて、どうにか改心させようと男爵は何度も説教をしている。手紙でも対面でも。だがその度に、ウリスはこういうのだ。


「どうせあいつは俺の事が好きなんだから、なにをしたって大丈夫さ」と。


 田舎の男爵家の三男なんて、まともな婿入り先はない。それなのにこの辺りで、大きなマドサ子爵家の婿に選ばれたのだ。平身低頭して尽くすべきだろう。それなのに恵まれた幸運を理解していないのだ。率直な話、ウベーロ男爵は、マルガリータの態度もどうかと思っていた。息子の素行をどうにかしようと、厳しく説教したし、人の道理も説いたし、感情に訴えて恥を知れと罵ったことまである。最初の内はウリスも多少の反省をして、王都に戻っていく。だがすぐに奴隷のように尽くすマルガリータの存在で、元に戻ってしまう。その繰り返しだ。よくよく考えた末、婚約を解消する話が出たのは、二人にとって良かったのかもしれないと感じた。


 王都でマルガリータは、ウリスと正式に連絡を取ろうと手を尽くしていた。だがお忙しいご主人様が、奴隷に時間を割くわけもなく、マドサ子爵とウベーロ男爵が先に到着してしまった。


「申し訳ありません。まずは二人で話し合いたかったのですが……」


 話し合ったからといって、お互いの関係が変るとは思っていない。だがけじめとして、せめて自分の気持ちを伝えたかった。しかしそれすらも、できないようで、三人で方針を話し合うことにした。それというのも、この婚約は政略結婚ではなく、マドサ子爵家の長女マルガリータ主導の恋愛結婚であり、婚約の締結はマルガリータとウリス両名の署名のみで成り立っている。そのため解消には両家ではなく二人の署名が必要だが、不利になるウリスが署名するとも思えなかった。


「マルガリータ。どちらにせよ、その気にさせる必要があるだろう」

「そうだな。マルガリータ殿。息子を呼び出すから、そこで署名をさせるように仕向けてくれ」

「はい。お手数をおかけします。ウベーロ卿」


◇◇◇◇◇◇



 女の子に囲まれ談笑していたウリスは、せっかくの楽しい時間を侍従に呼び出され、不愉快な気分で応接室に入った。するとそこにマルガリータがいたので、馬鹿馬鹿しいときびすを返そうとする。しかしその場にいた侍従や護衛に無理矢理、椅子に座らされた。家令が場を取り仕切るように物々しく告げる。


「マドサ子爵令嬢マルガリータ様より、若様との婚約関係について、見直しをしたいとの申し出がありましたので、場を設けさせて頂きました」

「……」


 ほとほと面倒くさそうに、ウリスは大きなため息をついた。マルガリータのほうを見もしない。


「ウリス……。今まではあなたからの頼み事を、黙って引き受けてきたけれども、もうそれは終わりにしたいの。私も本格的に忙しくなって時間が割けないし。それにお父様から指示される領地の仕事は、本来、あなたがやらないといけないはずよ。学校の提出物や、行事の委員などもそう。他のことも。だからもう引き受けないわ」


 そう言われても、ウリスはなにも言わなかった。なぜならこのまま黙っていれば、どうせマルガリータがやってくれることを、知っていたからだ。そう、どうせこう続けるだろう。


『ウリス、わかって』

『本当に忙しいの。それに領地の仕事もあるしくたくたで』

『本当はいけないことなのよ』


 そんな風に言って、一生懸命、ウリスに理解してもらえるよう言葉を尽くして説得し、ウリスに承諾してもらえるよう時間をかけて頭を下げる。対応は簡単だ。ウリスは理解せず、承諾もしなければいい。そうすれば『どうしてわかってくれないの』などと、寝言をほざいて、またやってくれる。


 そう思って座っていたが、マルガリータは手元のハンカチを見たまま、それ以上、一言も発しなかった。気まずい沈黙が落ちる。なんだかウリスは喉が渇き、辺りを見回したが、お茶も出てこなければ、水差しも見当たらなかった。気が利かない家令や侍従は、なぜか目も合わさない。ウリスは合図に咳払いをした。しかし誰も動こうとしなかった。一人だけマルガリータが話し始める。


「わかってもらえたようだから、今日の話を婚約の条項に追加したいの。書類はここに……」

「俺に黙って、なに勝手に話を進めているんだ」


 奴隷のくせに勝手なことを始めたマルガリータを、ウリスは躾のために怒鳴りつけた。


「申し訳ないけど、本当に負担なの。今日の話を飲んでもらえないのなら、この婚約の条件を変えることも考えているわ。そうでないと、とても体が……」


 マルガリータは軽く首を振り、疲れていることをウリスに伝えようとした。だがウリスのことを好きなら、それぐらいのことは我慢するべきだ。相手に尽くす心が足りないのではないか。


「おい。お前がそんな生意気なことを言うのなら、こっちにだって考えがある。そんなに嫌なら、婚約を解消してやってもいいんだぞ」

「……そんな」


 マルガリータの顔色が変ったのを見て、腹を立てていたウリスは、急に上機嫌になり、にやつき始めた。


「女なんていくらでもいるんだ。カミラに乗り換えたっていい。今、部屋で待たせている女どもの中から、選んだっていい。わざわざお前みたいな、田舎者で我慢してやっているんだ。それ相応の見返りは当然だろう。この身の程知らずが」


 ここまで言えば、すぐに折れて、縋り付いてくるだろうとウリスは安易に考えていた。だが今日のマルガリータは、どこか様子がおかしい。なにかを決心したように、ただ黙って座っている。奴隷が自分の思いどおりにならず、いらついたウリスは、なにか次の手を打とうと、自分の前に置かれた書類の束に目を走らせた。その中にとっておきの書類を見つけ、にやにやしながら持ち上げる。マルガリータも気が付いたのだろう。真っ青になってハンカチを持ったまま、胸に手を当てた。


「婚約解消用の合意書だ。これに署名してやろうか」

「待って、それに署名したら終わりなのよ。本当にいいの?」


 ウリスはまるで当てつけるように、ゆっくりと署名すると、乾かしついでにその書類をひらひらと振った。


「黙って俺の言うとおりにすればいいんだよ。そうでないとお前にもこの書類に署名させるからな」


 そう言ってウリスは立ち上がると、しくしくと泣き出してしまったマルガリータを置いて、部屋を出て行った。


 残されたマルガリータは、もう二年以上もまともに話していなかったウリスの言葉遣いが、まるで凶器のように鋭いことに驚いていた。確かに不当に扱われてはいたが、あんな言い方をされたことは、さすがに今までなかったからだ。


 ウリスのことを好きだった。優しい所も、穏やかな所も、そしてちょっと軽率で、考えなしで、なんにでも飛びつく所も、いい加減なところだって……。だがふっきれた目で見ると、あんな人間性が疑われる人間に、自分の人生を預けようとしていたことに気が付きぞっとした。


 そうやって冷静になって初めて、自分の結婚が領民の生活を左右することに思い至り、どれだけまわりが見えていなかったのか気が付く。頭ではわかっていた。自分がなんとかすればいいと。努力すればいいのだと言い訳していた。まるで雲が晴れるように頭の中が明瞭になっていく。自分には高貴な義務があり、為すべき事があったはずだ。遅すぎたが、一からやり直さないといけない。


◇◇◇◇◇◇



 マルガリータは、ウリスと婚約を解消し、ソフロニーオと婚約をすることになった。思ったことを気軽に口にしてしまう彼が、婿養子に気軽に立候補したのが、きっかけだった。


「本当に彼でいいの? 気を遣えないというか……」

「本当にこんな軽率な男でいいのかい。マルガリータ殿。気遣いが……」

「失敬な。私は普段は、そこまで気遣いできないわけではない。そうだろう。マルガリータ嬢」


 シェリーとジュリウス、ソフロニーオに囲まれ、マルガリータは困ったように頷いた。


「私みたいな性格には、はっきりと物を言って下さる方のほうが、いいかなと思いまして。あの時の言葉はききました。それに……」


 マルガリータの目が暗い色を帯びる。


「それに?」


「今度のことは私にも責任があると、父に叱られました。人一人を際限なく甘やかすとどうなるのか、少しは考えろと。そういったことは度量のある人間がするもので、私にはそんな器はないと」


 ジュリウスたちは黙っていたが、子爵の言葉は一理あるだろう。


「でも、それなら。ソフロニーオ先輩のことは甘やかさないの?」


 シェリーの言葉に、マルガリータは微笑んだ。


「それが……、その、父の言葉を借りると……。『あれだけ我が道を行く性格だと、お前ごときが多少なにかしたところで、影響を受けないだろう。ある意味、頼もしいな』と」


 協調性がないと言われたソフロニーオはむっとした。


「そんなことはない。私だって、少しは……」


 心当たりがあるのだろう。黙ってしまった。


 ソンテス伯爵の次男ソフロニーオは、婿入り先を探していた。それが駄目だった場合を考えて、騎士の道も目指している。そんな身の上だったから、学院ではある意味、有名なウリスのことが、不思議で仕方がなかった。なぜ婿養子の分際で……と。だからマルガリータが婚約を解消すると聞いて、真っ先に立候補したのだ。その場の全員に叱られた。軽いと。もっと信頼を得てからにしろと。せめて花と贈り物、指輪を用意しろと。だがずっと婚約者のご機嫌を伺っていたマルガリータは、その場その場で思ったことをはっきりと口にする、裏表のないソフロニーオの言葉が心地よかった。


「とにかく反省しました」

「そんなに反省しなくてもいいと思うわ」


 少し沈んだ顔をしているマルガリータを、シェリーは励ますように言った。


「だって好きな人に尽くすのって、当たり前のことじゃない? なんでもしてあげたくなるものでしょう。受け取った相手がそれをどうするかは、相手の問題よ」

「そうだな。シェリー。マルガリータ殿がなにをしようと、ウリス殿が自分を律すれば良かっただけの話だ」

「ありがとうございます」


 三人を見ていたソフロニーオがぽつりと言った。


「マルガリータ嬢はさぁ。加減を知らないようだ。好きな相手には、体を壊すほど尽くすし、必要以上に反省するし。何事もほどほどが一番だよ」


「……気をつけます」


「今言ったじゃないか。人生なんていい加減でいいんだよ」


「……わかりました」


「なんだか肩の力が抜けてないなあ。そうだ、少し体操してみないか。頭も体もすっきりするぞ」


 ジュリウスは、まるで違う二人を見ていて、案外いい組み合わせかもしれないと思った。しっかりして頼りになるが、細かいことを気にして悲観的なマルガリータと、よく言えば大らかで悩みがないが、悪く言えば大雑把で深く考えないソフロニーオは、足して二で割れば丁度良いように思えたからだ。


◇◇◇◇◇◇



 騎士の詰め所で、迷惑をかけたお詫びにと、マルガリータがパイを差し入れしていると、その姿を見たウリスが駆け込んできた。


「どういうことだ。婚約解消だなんて」


「ウベーロ卿から説明があったと思います。このままでは婚約が継続できないという私の訴えを、あなたが無視し、さらに婚約解消の同意書に署名されましたので、解消の運びとなりました」


 淡々と説明したマルガリータを、ウリスは人目のある所で、ためらいなく殴りつけようとした。当然、その場にいたソフロニーオがマルガリータを守るように抱き寄せ、シェリーがウリスの左手をひねると、痛みからかがんだウリスをジュリウスが右から押さえつける。


「よくも勝手なことをしてくれたな。今すぐ戻せ」

「お断りします。婚約は双方の合意でするもの。もう私には継続する意志はありません」


「なんだと。お前、俺の事が好きなんじゃないのか」

「確かに、今でも好きな気持ちは残っています。いずれ消えるでしょうが」


「だったら、なぜ、俺の言うことを聞けないんだ」


「私たち、ずっと勘違いしていたんですよ。好きだからと言って、別に奴隷になる必要はないということを。仮に私が今でもあなたのことを大好きだったとしても、言うことを聞く必要なんてなかったんです」


 自分の不利を悟り始めたウリスは、なんとかしなければならないと思った。だが目の前にいるのが奴隷ではないと気が付いた所で、今さらどうしたらいいのか、思いつかない。


「……騙したのか。あの時、応接室で、わざと俺に署名させたのか。この卑怯者」

「騙したというか。ただ単に」


 なんと言ったらいいものか、マルガリータは言葉を選んだ。


「あなたは、私があなたのことを好きだと思っているから、なにをしても大丈夫と調子に乗っていましたね。私もあなたがそう考えているのを知っていたので、あなたは予想通りの行動を取るだろうと計算していただけです」


 口ぶりとは違って、ウリスは少し泣きそうな目で、マルガリータを見た。


「今なら許してやってもいいぞ。頭を下げるのなら、出戻りを許して……」

「私たち、もう。赤の他人なんです」


 誰よりも親しい身近な存在であるマルガリータから、赤の他人と言われたのはウリスには大分堪えた。それを誤魔化すように足早に部屋の外に出る。


 歩いていると女の子が寄ってくるものだが、今日は誰も来なかった。その一人にウリスから声をかけると、さっと目をそらされる。二人目もそうだ。不審に思いながら愛人のカミラを訪ねると、うんざりした顔でこう言われた。


「もう近寄らないで欲しい」と。


「どうしてだ?」


「そんなの当たり前でしょう。あんたが名のある子爵家の婿養子になるから、愛人志望の女の子が群がっていたんじゃない。マルガリータ様は、こっちが恐縮するくらい優しいお方だから、愛人ごと受け入れてくれただろうし。あのさあ、マルガリータ様の婿じゃないあんたは用なしなの。価値がないのよ」


 カミラは大きくため息をついた。


「あたし何度も言ったよね。あたしだけじゃなく、他の愛人志望の子も言ってたでしょ。マルガリータ様にもっと優しくしろって。大事にしろって。あんな良い子いないって。それなのに、あんたって毎回『どうせあいつは俺の事が好きなんだから、なにをしたって大丈夫さ』って。そんなわけないじゃん」


「……」


「あんたみたいなクズを好きになってくれたんだよ。なんでもっと大事にしなかったの。どうしてなにをしたって大丈夫なんて……、そんな馬鹿なことを考えたの」


 そう言われて、なぜそう考えたのか、今となってはウリスにもわからなかった。


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