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貧乏男爵家の調査官日誌  作者: 林はるる


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君のためを思って


「姉さんが、駆け落ちした……?」

「男友だちのスラーフ様とだそうです」

「よりにもよって結婚式の一週間前に……」


 ふらふらとその場にあった椅子に、ティセリーナは座り込んだ。知らせを持って駆けつけた侍女が、あわてて冷たい水を持ってくる。


 姉のノリーンが駆け落ちしたと聞いたのは、彼女の結婚式の一週間前だ。姉には仲の良い男友だちの、スラーフがいるのだが、今回の結婚相手の悪い噂を恐れて、二人で駆け落ちしたそうだ。百歩譲って駆け落ちするのはまだいい。だがそれならいくらでも機会はあったはずなのに、なぜ一週間を切ったところで決行したのだろう。おそらく、あまり物事を深く考えないノリーンは、嫌だ嫌だと言いながら、結婚式までなにもせずに過ごしてしまったのだろう。そしていざ時期が迫ってくると、怖くなり、なにも考えず逃げ出したのだろう。


 こうなったら次に行われることは一つ、花嫁の交換だ。


 かわりに結婚させられるであろうティセリーナは、荷物をまとめるよう指示を出し、寝る間も惜しんで身支度を整えた。しかしなんの連絡もなく、中途半端な状態でいると、式当日に父親にまるで誘拐されるように式場に連れて行かれたのだ。この時の内心は阿鼻叫喚といっていい。例えどんな理由であろうと結婚式であり、人前で特別なドレスを着て、ヴァージンロードを歩く。花嫁は何ヶ月も前から髪や肌の調子を整え挑む。これがどれだけ女性にとって不本意なことなのか、父親にはわからないようだった。


「お前も知っての通り、ノリーンが駆け落ちした。そのため代わりの花嫁を、差し出さねばならない。こんな不本意な結果になってしまった私の気持ちは、お前にはわからないだろう。だがお前にとっては朗報だ。お相手はグドリャン辺境伯の、アヴァンダン将軍閣下だ。女にとっては夢のような相手だ。このような縁談を娘に用意できたことだけは、父親として誇りに思っている」


 その癖、こんな風に恩着せがましく言われた。グドリャン辺境伯領では、代々跡継ぎが将軍職を務める。つまり結婚相手は若き英雄、アヴァンダンであることを喜べと言いたいらしい。その後の父親の話で、相手側から無理に花嫁を用意しなくてもいいとの、提案があったことを知らされ、愕然とするしかなかった。お互いに結婚を望んでいないのに、父親がティセリーナのためになるだろうと強行したらしい。


 ぶかぶかの重いウェディングドレスを、すでにずきずきと痛み出した左手で鷲づかみにして、ヴァージンロードを歩く。なんの情緒もなく、不安しかない式だ。待っていたアヴァンダンは、厳つくて怖いという噂とは違って、端整な顔立ちをした優しそうな人だった。どこか悄然としていて、向こうの方が不安そうな顔をしている。怒っていたらどうしようとそれだけが心配だったが、ベールをめくった時、目の前にいた将軍は、頬をぽっと染め、まるで胸をどぎまぎとさせているかのようだ。そんな彼を見て、もしかしたらこの結婚はうまくいくのではないかと、胸に淡い期待を抱いたが、それは無駄だった。


◇◇◇◇◇◇



 嫁いだティセリーナは、街中の貿易商で働いていた。夫とは一年以上会っていない。今、どこにいるのかすら知らない。そしてそのことを、どうでもいいと思っている自分がいた。


 結婚式の後、遅れて辺境伯領に着くと、出迎えたアヴァンダンはこう言った。


「君にとっても不本意な結婚だろうから、無理はしなくていい」


 ティセリーナはそうは考えない。不本意でも結婚したのだから、距離を縮めたいと思う。


「閣下」

「アヴァンダンでいい」


「アヴァンダン様。姉の件は申し訳ありません。ですが結婚した以上、お互いに歩み寄りたいと考えています」

「気持ちはありがたいが、君に無理をさせたくない。それに……来月から、前線に詰めなくてはならない。一年は帰れないだろう。その間、自由にしてくれ。君のお父上とは離縁の話を進めておくから」


 まるで話を聞きたくないとばかりに、アヴァンダンは足早に去って行った。茫然としたティセリーナに、少し年上の女性と若い女性が話しかけてくる。


「初めまして。私はアヴァンダンの叔母ノルリャーナ。あなたのお世話をさせていただくわ。こちらは参謀チュルコーフの娘ソフィヤ嬢。同い年だから侍女兼話し相手にどうぞと、アヴァンダンから」

「こんにちは。ティセリーナ様」

「よろしくお願いします」


 ティセリーナは二人に挨拶をした。


「今のを聞く限り、アヴァンダンはあなたとは結婚する気はないのね。それなら大切にお預かりしている娘さんを、いつでもご実家に戻せるよう準備しておくわ」

「ですが、私は……」

「ごめんなさい。私に言われても。後であの子に手紙が何かで、直接、伝えてくれる?」


 そう言うとノルリャーナは立ち去り、にこやかな笑みを浮かべたソフィヤだけが残される。最初の内は、話し相手という使用人相手に、情報を引き出そうと努力した。だが次第に彼女の父親はアヴァンダンの腹心であり、将軍と娘の縁談を望んでいることがわかると、諦めの境地になった。将軍への思慕を、ソフィヤははっきりと表明しており、その敵を妻の隣に配置したのは彼なのだ。


 そこで駄目元で父親に仲裁してくれるよう手紙を書いた所、この結婚はティセリーナのためのものなのだから、婿殿とよく話合うようにと返事が来た。何度も状況を説明する手紙を送ったが、駄目だった。


 同時にアヴァンダンにも何通も手紙を送る。きちんと話し合いたいと。だが、その姿を見たソフィヤが、意味ありげにくすりと笑ったのだ。ピンと来た。出した手紙は始末されていると。


 叔母のノルリャーナに相談すると、彼女は驚きつつも、代わりに手紙を届けてくれることになった。彼女の仕事ぶりは、丁寧で信用している。だがそれでも彼からの返事は、来なかった。そのことに確信を持てるまで、しばらく待って、そして結論を出した。


 仮にアヴァンダンが目の前にいたとしても、話をする気がないのなら無駄なのだと。そこで今後どうするかを考え始めた。


 一年後、アヴァンダンが戻ってきたら、強制的に実家に戻されてしまうらしい。だが父親は世間体が悪いからと、引き取りを拒否するに違いない。行き場がなくなってしまう前に、作ろうと思ったのだ。幸いグドリャン辺境伯領は、大きな貿易港を持っている。持参金を使って、将軍閣下の妻という立場を利用して、貿易商として参入し、そして大きく反発をくらった。


「どういうおつもりですか。大人しくしていればいいものを、商売を始めるなんて」


 目の前でソフィヤがカンカンに怒って、机を叩いている。彼女の実家はこの港で一番大きなテイラー商会と、太いパイプがある。はっきり言うと癒着だ。参謀のチュルコーフが既得権益をがっつりと握りこんで、市場を占めているため、ここでは競争原理が働かない。そのことを苦々しく思っているものが多い所に、将軍の妻ティセリーナの参入だ。軍の上層部からも、大手を振って後押しするものは多く、今、業界はがたがたになっていた。


「大人しくって……。将軍の妻として?」


 そう言うと彼女は一瞬、反論しようとして黙り込んだ。『あなたは将軍の妻なんかじゃありません』ぐらいは言いたいだろう。だがいくらソフィヤが許せなくても、形式上は妻だった。


「だって将軍の妻として、することがないのだから。商売を始めただけよ。少しでもすることがあれば、やってあげても……」


 また、ぐっと唇を噛むのが見えた。現在、少しだけある将軍の妻としての仕事は、すべて彼女がしゃしゃり出て行っている。それを絶対に渡したくないのだろう。


「は、恥ずかしくないんですか。人前に出て商売なんかして」

「将軍の妻として?」


 悔しそうに黙り込む姿を見て、少し溜飲を下げていた。どんな風に責めようとも、結局の所、「将軍の妻として」の本分を正すしかない。そしてソフィヤはそれを絶対に認めたくないのだから、最初から勝負にはならない。


 チュルコーフの娘ソフィヤは、辺境伯領では絶対的な権力があり、アヴァンダンですら手のひらの上で転がしている。だがなんでも自分の思いどおりになってきたため、子どもっぽい所があり、感情表現が露骨だった。


 放っておいて、将軍の妻であり、ギレット伯爵の次女である地位を使って、商売を軌道に乗せた。この政略結婚には、そもそもそういったことも予定に含まれていたからだ。ところがそんな所へ、駆け落ちした姉が二人でやってきたのだ。正義の味方面して。


◇◇◇◇◇◇



「私のことを助けに来た?」

「そうよ。あたしのせいでごめんなさい。無理矢理、悪魔みたいなアヴァンダン将軍と結婚させられたのね」

「すまない。僕たちのせいで。鬼のようにひどい男なんだろう」


 ノリーンとスラーフが無責任な噂を信じているのを見て、発信源はソフィヤだろうという見当が付いた。アヴァンダンの風貌や人柄について悪い噂を流すことで、結婚できにくくする。結果的にノリーンはそれに引っかかったわけだから、上手く行ったとも言える。商会に来た二人とお茶を飲みながら近況を語り合ったが、大きな誤解があるようだ。


「心配しなくていいわ。自分で何とかするから」

「もう、いつもそう。それやめて」


「なんのこと……?」

「ティセリーナってば、困ったことになると、いつも自分一人でなんとかしようとして。私たち家族でしょう。相談して」


「……だから、大丈夫だって……」


 急に頭が重くなり上手く喋れなくなった。


 そして気が付くと船の上で、目に差し込む朝の光が、水面にきらめいて反射している。その時間になってもまったく起きない姉とスラーフを、叩き起こし話を聞いた。


「どうしてそんなに怒るの? ひどい男から助けてあげたのに」

「だから何度も言ったでしょ。私は結婚は嫌ではなかったし、アヴァンダン様もひどい人では…………。とにかく。逃げ出す気はまったくないって。それでなければ、商売なんてしていないわ」

「……」


 ノリーンの目が泳いだ。ようやく理解したらしく、自分たちのやったことが、かなりまずかったとわかったらしい。なんとか誤魔化そうと言い訳している。


 次女だったため、まだ当たりが弱かったティセリーナと比べて、父親の初めての子どもだったノリーンは、『お前のためを思って』という父の教育の犠牲者だった。つまりは自分の頭でなにかを考えるということをしない。その方が生きるのが楽だったのだろう。そこに妹として共感してしまうため、どうしても姉のことが憎めなかった。そんな時、これから向かう目的地について、スラーフが楽しそうに話し出した。


「ねえ、それよりも到着したらなにする? ここのところ退屈していたから、三人でゲームでもしない?」


 助けに来たと言っている二人の、あまりにも軽い反応を見て、本心では、どうでもいいのだという事がよく感じられた。要するに暇だったのだろう。腹も立たなかった。こういう人たちであるということを、良くわかっていたからだ。


 真面目なティセリーナは、下船したらグドリャン辺境伯領に戻るつもりだ。だがその前に一つだけ疑問があった。曲がりなりにも自分は将軍の妻だ。ちょっとした出来心で、誘拐なんてできるはずもない。ならば一体なぜ。


◇◇◇◇◇◇



「離縁したいだと……。今までそんなこと、一言も言わなかったではないか」


 離縁を希望する、ティセリーナからの手紙を読んだアヴァンダンは、なぜかショックを受け、その場に立ち尽くしていた。昨日、前線から戻った彼は、どこかいそいそと妻の部屋に向かい、そこに残されていた書き置きを読んだ。そこには、強制された結婚に耐えられず、離縁したい旨が書かれていたのだ。


「お可哀想なアヴァンダン様。こんな紙切れ一つでひどいわ。そんなに離縁したいのなら、こちらから捨ててやりましょう」

「しかし……」


 言葉を失ったアヴァンダンを、先ほどからソフィヤとその父チュルコーフが焚きつけている。それをしばらく見ていた叔母ノルリャーナと、グドリャン辺境伯夫妻がおもむろに口を開いた。


「あなたはどうしたいの?」

「アヴァンダン。お前はどうしたいのだ」


「…………私は、ティセリーナの思うとおりに、させてやりたいです。姉に振り回されて気の毒な彼女がこの結婚を望むなら……。続けたいと。この結婚を続けたいと、彼女はずっと手紙に書いてきています」


「そんなの社交辞令でしょう」


 鼻息荒く言い切ったソフィヤに、アヴァンダンはたじろいだ。


「だってティセリーナ……様からの手紙は、どうせ一月に一通もあればいいところでしょう。アヴァンダン様の事なんて、本心ではどうでもいいんです」


 本当のことを言われたアヴァンダンは、それ以上なにも言えない。だが従う気持ちにもなれず、ティセリーナの帰りを待った。だが十日目に、今夜も街中の仕事場に泊まるようだという連絡をソフィヤから受け、渋々離縁の手続きに入ったのだ。グドリャン辺境伯領は紛争地帯のため、離婚という制度は生きていて、手続きも容易だ。


 ティセリーナの幸せを願って離婚したアヴァンダンは、手続きが終わった後も未練たらしく彼女の帰りを待った。家族や使用人たちにも、彼女が帰ったら、何時でもいいから取り次ぐように命令する。すると中には気の早い者もいて、彼女の仕事場に直接、顔を出しに行った。その一人が叔母のノルリャーナだ。


「……三週間も前から行方不明?」

「はい、何度もその件でそちらに問い合わせをしたのに、なしのつぶてで」

「たいへん。そんな。将軍の妻が……」


 三週間前に姉夫婦の訪問を受けた後、ティセリーナは行方不明になった。彼女が飲んでいたお茶から芥子の匂いがしたため、すぐにグドリャン辺境伯の館に知らせたが、反応がなかったという。改めて調べた所、行方不明の報はソフィヤが止めていたことがわかった。その上、参謀チュルコーフの妨害により、そもそも将軍の妻に護衛がついていなかったことがわかったのだ。


 手紙をソフィヤが始末していたことを、ノルリャーナは、きちんとアヴァンダンに伝えている。だからソフィヤやその父親のチュルコーフの妨害を、把握していると思っていた。当然、手を打っているはずだと考えていたし、態勢が変らないのは理由があるのだろうと考えていた。


 だがその報告は、ティセリーナの嫉妬からの嘘だと、ソフィヤたちが吹き込んでいた。彼女に想いがあったアヴァンダンは、嫉妬されているという点にのみ注目し、その嘘を信じ込んだ。簡単に嘘を信じてしまった背景として、このままの状態を続けるには、事態を進展させてしまう妻からの手紙を、むしろ受け取りたくないという本心があったからだ。つまりは自分の思うようにしたいという気持ちが、現実の妻と交流を図ることよりも強かったのだ。


 グドリャン辺境伯領では、将軍職は慣例的に跡継ぎが担う。それはもちろん役職に見合う教育は受けるが、どうしたって経験不足は否めない。それを補うために将軍職の周囲はお歴々が固めているが、その要である参謀チュルコーフは私腹をこやす頭しかなかった。将軍職を常に多忙にさせ、チュルコーフたちを頼るようにさせ、情報を制限し、必要な教育を疎かにする。そんなことが二代続いている。


 グドリャン辺境伯領の物資が、チュルコーフに握られていることに危機感を覚えた辺境伯が、ギレット伯爵家との縁談を組み、まずはそれを解消しようとした。そのことは息子によく言い聞かせてあったはずなのだが、チュルコーフのほうが一枚上手で、踊らされた将軍が、離縁の手続きをしてしまう。


 不幸中の幸いは、船旅から戻った後も、ティセリーナの手により、チュルコーフ派と対立する商会が据え置かれ、ギレット伯爵家という独立した資本が、辺境伯領に投入されることになったことだ。


◇◇◇◇◇◇



「へー、離婚が成立したのですか」


 二ヶ月かけて帰宅したティセリーナは、安堵したような表情を浮かべ、焦ったアヴァンダンが迫った。


「すまない。ソフィヤ親子に騙されて、こんな結果になってしまった。君のためを思ってしたことなのに」

「……」


 含みのある表情になった彼女の前で、ソフィヤが涙目で反論した。


「どうしてこの女をかばうのですか。この女の姉は噂を信じて、結婚式を逃げ出すし。この女はこの土地のことなど、なにも勉強せずにやってきて、将軍の妻として幅をきかせているんですよ」


 アヴァンダンが、ソフィヤを睨んだ。


「ティセリーナに比べたら、自分の方が相応しいと?」

「そうです」


 今やソフィヤの目からは、悔し涙が溢れていた。


「……君は、ティセリーナはこの結婚を嫌がっていると言ったな。女の勘でわかると。他にも色々言ったが全部嘘なのだろう。彼女の手紙も始末していたし、偽の手紙で離縁まで促した。おまけに警備まで解除して、危うく死なせる所だったんだぞ。なにからなにまで嘘ばかりで、そんな女のどこが将軍の妻に相応しいんだ」


 わっと泣き出したソフィヤは、いたたまれず部屋から飛び出していった。しばらくして気を取り直したアヴァンダンは、ティセリーナにおずおずと笑いかけた。


「いろいろと済まなかった。君が望むのならやり直そう。そうだ、結婚式も改めてしよう。ご家族も呼んで。この地に立派な商会を作ったと聞いた。君は優秀でグドリャンの地にも、将軍の妻にも相応しい。まずは私の帰任を祝う会を開こう。それからウェディングドレスの採寸だ。いや、デザインを起こす所からか。そうだ、新婚旅行はどこがいい? あまり長くは行けないが、できるかぎり希望に添おう。子どもは何人産んでもいいぞ。みんなグドリャンの子どもだ。ああ、そうは言っても、男の子が生まれるまでは頑張ってもらわないとな。出来れば二人、本当は三人欲しい所だが。それと」


 アヴァンダンが話している間、ティセリーナは冷め切った目で彼を見ていた。彼の言葉が切れるのを待っているが、いつまで経っても切れなさそうだ。それを見ていたグドリャン辺境伯夫妻や、叔母のノルリャーナ、取り巻く重鎮たちや使用人が、段々落ち着かなくなってきた。


「アヴァンダン様」

「それから……なんだ?」

「私たち合わないと思います。せっかく離婚したのですから。このままにしましょう」


 この結婚は政略結婚ではあるが、グドリャン辺境伯側はつねに消極的だった。ギレット伯爵家側もティセリーナのためというお題目を唱えている以上、彼女の意志一つで解消できるものだ。それに最大の目的である商会は完成したのだから。


「突然どうしたのだ。それに共に暮らしていないのだから、合わないかどうかは、わからないではないか。試しもしないで」

「もう充分に試しました」

「なにを言う。それに再婚は君のためでもある。離婚歴は傷になるだろうし、ご実家にも戻らないように言われているのだろう。商会だってこのまま続けられるし。全部、君のためを思って言っているんだぞ」


 そこへ使用人が客の来訪を告げにやってきた。


「奥方……ティセリーナ嬢のご実家、ギレット伯爵家の方々がお着きです」

「奥方と呼べ。私は離縁など認めないからな」


 行方不明の知らせを受けてやってきた、ギレット伯爵家の面々が到着したようだ。出迎えるために、アヴァンダンは早足で去って行く。そしてそれを見送ったティセリーナは、一年以上妻をやっていたおかげで、不本意ながら彼の行動理由がわかってしまった。彼にとって不利な会話を、あれ以上続けたくなかったのだ。


 その場を離れ、ソフィヤに指示された通りの、いつもの裏口から外に出て、街で一番大きな酒場に向かう。人の話を聞かない家族と夫と、これ以上一緒にいたくなかった。


◇◇◇◇◇◇



 酒場のカウンターに、カコーンという景気の良い音が響いた。ティセリーナの持っている錫製のマグの底が、カウンターにたたき付けられる音だ。


「一言聞け」

「そうね」


 酒場で占い師をしているマトリョーナが、グドリャンでよく見る長い煙管片手に相づちを打つ。


「たった一言でいい。君はどうしたいのって」

「ほんとね」


「たったそれだけのことが、なんでできないの! ねえ、なんで? どうして?」

「まったくね」


 絡み酒をしているが、実は酔っ払っていない。彼女は酒に強く、酔わないからだ。つまりは純粋な怒りで、馴染みのマトリョーナに、ねちねちと絡んでいた。


「それとねえ、人の話を聞かないのもなんでなの。同じことなんども言っているのに、まったく覚えていないのはどうして。私の意見を全部無視して、なんでもかんでも勝手に進めて、挙げ句の果てに『君のためを思って』って……」


 ぐいとマグを傾けると、また力強くカウンターにたたき付けた。


「『お前の意見なんかどうでもいい、俺の好きにやる』って言われた方が、まだましだわ!」


 店内に響き渡るほど絶叫した。今の時間帯は、ちょうど食事時に訪れる人々と、これからじっくり酒を味わおうとする人々で、ごった返ししていて、すき間もないほどだ。大きな紛争が一息つき、休戦協定が結ばれた所で、アヴァンダンたちと一緒に、前線に出張っていた王都の騎士団員たちが、帰任する前に一服していた。四時間近く続いているくだを巻く姿を、おもしろそうに見物している。


 マトリョーナとは、この地に来てからの付き合いで、何度も愚痴を聞いてもらっている。率直に言って彼女がいなかったら、とっくの昔におかしくなっていただろう。


「それで、ようやく帰ってきた旦那がそんななのね」

「そんななのよ」


 またしても景気の良い音が響く。


「まあ、もう関係ないわ。離婚したんだから。自由になったのよ! 乾杯!」

「乾杯!」


 勢いよくマトリョーナのマグに、自分のマグをたたき付けた。流れで中身は飛び散るし、自分の指も痛かったが気にしない。自由になったのだ。


「あれ? でも……」

「言わないで」

「夫がいない女性が、どうやって商売を続けるの?」


 がっくりと、ティセリーナはうなだれた。グドリャン辺境伯領は、紛争地帯のため、離婚や、女性の事業経営に寛容な地域だ。だが独身女性が今後の事業を展開しようとすると、今まで使っていたノルリャーナから紹介された代理人は、さすがに使えない。そのためには、再婚し、夫を代理人にするのが一番の解決方法だ。


「確かにそうね。私が再婚するのが近道よ」


「どんな男性がいいか、希望はありますか?」


「そんなの決まっているわ。私の意見を聞いてくれるのなら、誰でもいいわ。他になにもいらない」


「ちょっと、ティセリーナ!」


 マトリョーナに強く肩をつかまれて顔を上げると、いつの間にかすぐ側に、背の高い騎士団員が立っていた。ぱっと思い出せないが、見たことのある顔だ。一瞬で店内は静まりかえり、お仲間たちが彼を止めようとして、変な姿勢のまま固まっている。


「さっきからずっとあなたに見蕩れていました。お願いです。誰でもいいのなら、私を選んで頂けませんか」


「…………仮に私たちが結婚したとして、新居はどこにするおつもり?」


「普段は、王都の騎士団本部に詰めています。ですから、できれば王都に新居を構えたいです。ですがあなたに希望があれば、そちらに合わせます。どこか希望はありますか?」


 自分が満面の笑顔になるのがわかった。そして意識する前に、返事を叫んでいた。


「あなたと結婚したいわ」


 レディクスという名の騎士団員は真面目そうな顔を、くしゃっとほころばせると、ティセリーナの前にひざまずいて、改めて求婚した。後ろでマトリョーナが、止めようかどうしようか悩んでいる。店内の多くの人がハッピーエンドに拍手を送ったが、レディクスの仲間たちは、気の毒そうな目をしていた。それというのも彼は実直な所が、若い女性に人気で、なにも酒場で何時間もくだを巻く女性を選ばなくても……と思ったからだ。


 その場にいた騎士団長のダロンは、先ほどから団員の酒のおかわりやつまみなどを、レディクス一人がカウンターまでまめにかえに行き、その度にティセリーナの目に止まるよう、計算しながら行動しているのを興味深く見守っていた。いつもは冷静な男が、めずらしく余裕のない野性味を帯びた瞳をしていると思ったら、電光石火の早業で女を手に入れたのを見て、男として痛快な気分だった。


◇◇◇◇◇◇



 翌日、街の教会で、レディクスと結婚式を挙げようとした所、無駄に顔が売れているティセリーナのせいで、実家のギレット伯爵家、グドリャン辺境伯家の面々が駆けつけてしまった。


「早まるなティセリーナ。君は混乱しているんだ。自棄になってそんな結婚をするな。後悔するぞ」


 アヴァンダンが叫び、他の人間も同じことを抗議する。


「そうだ。恵まれた結婚を整えてやったのに。どうせアヴァンダン閣下と喧嘩でもしてすねているのだろう。考え直せ」


 ティセリーナの父親が怒鳴る後ろで、ソフィヤがにやにやとしている。なにが嬉しいというのだろう。今のアヴァンダンの憎しみは彼女に向かっているというのに。その後ろで姉のノリーンが、スラーフに訴えている。


「ティセリーナったら。自棄を起こしているのよ。再婚なんて口でそう言っているだけだわ」


 大勢で押しかけ、結婚を止めようとするが、顔なじみの騎士団長ダロンと司祭に阻まれ、近づくことができない。アヴァンダンが焦って、怒鳴った。


「誰でもいいというのなら、だったら俺でもいいではないか。君のためを思って身を引いたのに。誰よりも君を思っているのに」


 そして最初の結婚式で、一目見て好きになったことや、その後も手紙を楽しみにしていたが、離縁につながるのが怖くて、返事が出せなかったなどの思いを語った。話が進まないと思ったらしいダロンは、ティセリーナに張りのある声で聞いた。


「ティセリーナ殿は、どなたを愛していて、結婚したいのですか?」

「レディクスです」


 アヴァンダンたちは、一斉に否定した。


「口で再婚したいと言っているだけだ」

「自棄を起こして、当てつけているだけだろう」

「すねているだけよ」


 呆れて見ていた司祭の顔に、だんだん軽蔑の色が混ざってくる。ダロンも呆れて、ティセリーナに聞いた。


「……いつもこうなのかい?」

「はい。私の意見はまったく聞き入れてもらえません」


「苦労したんだね。ティセリーナ」

「あなたがいるから。もう平気よ。レディクス」


 感慨深げにレディクスが言った。


「つまりティセリーナはずっと、軽率で幼稚で話を聞く価値もないと、見下されてきたんだね。この人たちに。可哀想に」


 それがあまりにもしみじみとした物言いだったので、その場が一瞬、静かになった。ダロンは前線で共に活動し、有能で、そんな姿を見せなかったアヴァンダンに苦言を呈した。


「自分の嫁さんだった女性を、まともに話を聞かないほど見下すとは。恥ずかしくないのか」

「誤解だ。私はティセリーナのためを思って行動している」


 ティセリーナは大きなため息をついた。


「ええ、アヴァンダン閣下は、私に結婚したいかどうかも、結婚を続けるかどうかも、一度も聞いてきたことありません。おそらく私が自分の考えを持っているということが、理解できないのでしょう」


「誤解だ。それなら君の考えを聞かせてくれ」

「私は、レディクスと結婚したいのです」


 アヴァンダンは奥歯を食いしばり、じっとこらえた。


「君の考えはそうなのかもしれん。だが私たちの間には誤解があって……」


 まだなにか言いつのるアヴァンダンや、家族を無視して、二人で司祭の前に立った。グドリャン辺境伯領では、結婚歴のある女性の成人年齢は十六歳。もう自分だけの意志で婚姻できる。


「この結婚に異議のある者は申し出よ。なければ沈黙せよ」


 司祭がそう告げると、アヴァンダンたちが一斉に手を挙げた。


「……ただしティセリーナの内面は主の領分だ。他人の考えを決めつけて代弁するなど、己は全知全能の神にでもなったつもりか。恥を知りたまえ」


 ここまでの騒動で、相当腹に据えかねたのだろう。司祭は今までにない、厳しい言葉を投げかけるとにらみつけた。三人はそれでもなにかを言おうとしたが、渋々手を下げる。


 式が終わった後、二人は喜びのあまり飛び出してしまったので知らなかったが、目撃したマトリョーナによると、それを見送ったアヴァンダンは、絶望的な表情をしていたという。慰めてあげようと寄り添ったソフィヤがうっとりと見上げたが、なにか見てはいけないものを見てしまったかのように、汗をだらだらとかき始め、まるで逃げるように後ずさる彼女を、一歩一歩追い詰め彼は囁いた。


「絶対に許さない」と。


 その後、グドリャン辺境伯領では、チュルコーフ一派、排斥運動が始まった。チュルコーフとソフィヤは、敵に回した相手が悪かった。彼らには金も権力も武力も物資も、なにもかもがある。だが妻を奪われた主君が、死なば諸共と潰しにかかってきたのだ。もともと反感を買っていたチュルコーフたちが、どこまでもつのかが見物だ。


◇◇◇◇◇◇



 ダロンの采配で、王都に帰還する騎士団一行に馬車が一台追加された。


「ねえ。レディクス。私のどこが良かったの?」

「私には姉が五人いて」


「五人!」

「まあ、大抵の女性は尻込みするんだ」


「それはそうね」

「はっきりと意見を言った君を見て、この人なら大丈夫そうだって思った」


「……本当にそれが理由?」

「……実は私には母親が一人いて」


 その一言でティセリーナにはピンと来た。


「あ、わかった。お母様の口癖が『あなたのためを思って』なんじゃない?」

「どうしてわかったんだ……」


「私の愚痴を聞いて共感してしまったとか」

「その通りだ。だから君の気持ち、すごくよくわかるよ。酒場で何度も頷いてしまった。あの時、この人とならやって行けそうと思った」


「………………それだけ?」

「なぜ?」


「だってあなた、変に汗をかいているし、それに、気が付いていないの? さっきから目が泳いでいるじゃない」


 諦めたレディクスは到頭話し出した。ティセリーナのことを、もう二年も前から好きだったことを。いつも騎士団で警備についていてくれたことを思いだし、酒場で妙に安心感を覚えた理由に思い当たる。


「よく合同訓練の手伝いに来ていただろう。身分が釣り合わないから、せめてもう少し出世したら申し込もうと思っていたら、電撃結婚されて、あの時は絶望した。でも諦めきれなくて……。未練がましいけど、今回の任務でもし君の姿が拝めたら……幸せそうなら、諦めようと思っていたんだ。そうしたら最後の夜に、君が目の前にいて、しかも離婚したと聞いて、居ても立ってもいられず……」


 黙ってしまったティセリーナを見て、レディクスはあわてた。


「ごめん。こんな話、情けないと思っただろう。いつまでもつけ回して……やっぱり、気持ち悪い……よな」


 自嘲気味に笑うと、不安そうに伺ってきた。


 今までの人生で、自分はまるで透明人間のようだと感じていた。存在はするが、誰からも意見も話も聞かれない日々。だがずっと前から、見ていてくれた人はいたのだと知り、なんだか心が温かくなった。レディクスの両手をぎゅっと握る。


「嬉しい。好きになった人からは、なにをされても嬉しいわ」


 そう言って、にっこりと笑った。


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