通訳
作品中のディリックという登場人物の初出は、「優しい断絶」です
この国に亡命してきたのは、妻と子のためだった。だがどうしたことだろう。このままでは全員が死ぬか、奴隷になるしかない運命が、シルヴェステルたちを待っていた。
◇◇◇◇◇◇
祖国が分割されたのは五年前だ。
その時、軍で働いていて、シルヴェステルはそれなりの階級だった。生活に余裕はあったし、妻も二人の子も笑顔で、確かに政治的には様々な問題を抱えていたが、それなりに幸せだった。だが突然、自分の国がなくなり、同じ場所にいるのに、外国人になり、言葉も変わり、神様まで変ったのだ。
段々、生活は苦しくなり、このままではと悩んだ末に、亡命することになった。
そしてアルビオン国へ、移動中の馬車の中。
「すまない。もう一度言ってくれ。イヴォナ」
「妊娠したみたい」
「もう一度」
「妊娠したみたい」
「もう一度……」
「妊娠したって言ってんでしょ。うっ」
大きな声を出した後、イヴォナはすぐに口を押さえる。顔色が悪い。パニックを起こしたシルヴェステルは、馬車の中で思い切り立ち上がり、頭を強かにぶつけた。両手でぶつけたところを押さえながら。うめき声を上げる。
「どういうことだ。このご時世に妊娠なんて絶対に避けようって、二人で気をつけていたじゃないか。ましてや今は亡命の途中だ。これからの生活だって」
「……あの時は大丈夫だと……」
後悔にまみれた顔をして、ぐったりとしてしまった妻を、馬車に横たえるとシルヴェステルは汗をだらだらと流しながら、ここ数ヶ月のことを思い返していた。そんな余裕は今はまったくないのに。心当たりがあるとすれば、亡命の手はずが整い、浮かれて二人で深酒してしまったことが。
五年間も祖国を持たない外国人として、息を潜めて暮らしていたのだ。かなり浮かれてしまった。まさかあの時……。果てしなく落ち込み、ぐったりと横たわっている妻を眺めた。これから二人で仕事を見つけて、馬車馬のように働かなければならないのに。いやそれ以前に、まず二人の子どもを連れて、海を渡らなければならない。
その後、イヴォナを担ぐように子どもを連れて、海を渡り、苦労して目的の国に入国し、親戚を訪ねた。
「失踪? それはどうしてデスカ」
外国語訛りのあるシルヴェステルを、隣人は胡散臭そうに見た。
「あんたんとこの国さあ。滅んじまったんだろう? それで何人も移民が押し寄せてきて、なんかトラブルになったらしいよ。引っ越しちまってさ」
「行き先は……」
「知らないねえ」
近くの噴水広場で、シルヴェステルはしばらく茫然としていた。しかし途方に暮れている暇すらない。立ち上がろうとした瞬間、青年がすり抜けざまに懐に手を入れてこようとし、それを反射的に身をよじり、手で弾く。
「なんだ。起きてんじゃねえか」
「止めてクダサイ」
「本気で掏る気はねえよ。こんなところで外国人がぼんやりして、危ねえなって」
そう言って、あっけらかんと見上げる青年に悪気はないようだ。ものすごく似合わない髭を生やしている。
「軍隊に入隊したいのデスが、どこに行けば良いデスカ」
「旧市街抜けて……」
親切に道案内もしてもらえたが、そこでも移民が大量に押し寄せた関係で、外国人の受け入れを一時停止していると教えられる。再開はわからないと。
他に選択肢もなく、港の外国人向けホテルでシルヴェステルは働き始めることになった。
◇◇◇◇◇◇
亡命費用で思ったよりも出費がかさみ、妻のイヴォナと子ども二人を安宿に泊まらせ、一人で朝から晩まで働いても、どうにも状況は良くなかった。
つわりが重いらしく、ほとんど食事が取れないまま、どんどん体重だけが減少してゆき、誰が見てもイヴォナは重篤な状態だ。そのため医者に診せるが、病気ではないためどうにもならないと、栄養剤を打たれるだけ。おまけにそれがかなりの出費だ。本心ではまめに打って欲しくても、今の収入ではなんともならない。
なんでもいいから食べて欲しくて、好きそうなものを、無理な出費で買っても、全く食べてくれない。その癖、嫌いだったはずの、チキンスープをがぶ飲みするようになった。がりがりに痩せて、それなのに腹ばっかり目立ってきたのを見ると、このままイヴォナが……と不安になってしまい、最近では夢にまで見るようになったほどだ。
仕事が終わり、ばたばたと閉まりかけの市場で、食材を買い込んだシルヴェステルは、家族が泊まっている安宿に向かう。下町の小さな噴水の前に、息子のリシャルドと、娘のアリツィアが、つらそうな顔で佇んでいた。二人は父親を見ると安心したように笑い、足に飛びついてくる。体によじ登ろうとして、笑い声を上げている。
ひとしきりはしゃいでいたが、「母さんのところに行こう」と声をかけると、リシャルドは一瞬泣きそうになったのを、ぐっと我慢し、「僕はいい」と首を横に振った。小さいアリツィアも、目に涙を浮かべている。
この時、二人の気持ちがわかった。母親を見るのがつらい……いや、怖いのだ。もしかしたら、そう思うと居ても立ってもいられない。
なにも言えなくなり、ふらふらと安宿に入ると、いつも人を値踏みするような顔しかしない主人が、まるで気の毒な人を見るかのような複雑な表情をしていた。
「まいど……」
その横でイヴォナと同室の、街娼が立って煙管を吸っていたが、シルヴェステルの顔を見て舌打ちする。
「あんたさあ。奥さん、どうにかしてやんなよ。このままじゃあ、やばいよ」
こんな安宿の主人や、そこを使う街娼は他人に同情なんかしない。そんな余裕ないからだ。その二人がこんな風に声をかけてきたと言うことは、こんな底辺の人間から見てもイヴォナはもう限界なのだ。
とにかく手厚く看病してやりたい。だが金が。
助けを求めるようにシルヴェステルが主人を見ると、さっと目をそらされた。
「この辺りに、お金を借りられる所はアリマセンカ」
「…………正規と、モグリがいる」
普通に考えれば、正規は利率も低いがその分、外国人には敷居が高いだろう。モグリは簡単な分、利息は天井知らず。そんな思いが顔に出ていたのだろう。
「いや、ここらの金貸しはピンキリで。良心的な所もあるぞ。まずはモグリから声をかけてみたらどうだ。気に入られれば貸してくれるかもしれん」
「気に入られれば? モグリだったら、普通、誰にでも貸すのではアリマセンカ」
「とにかく行ってみろ」
イヴォナになんとかスープを飲ませたシルヴェステルは、その足で子どもと三人、近くの教会で祈りを捧げる。魂までは悪魔に捧げる気はない。だがその身を捧げないと、妻を助けることはできないだろう。
(神よ。罪深い私をお許し下さい。ですがこの子らに罪はありません。どうかリシャルドとアリツィア、そしてイヴォナに慈悲を)
頭を上げたシルヴェステルの目に、まだ祈りを捧げているリシャルドとアリツィアの姿が入った。母親のために深い祈りを捧げているのだろう。鼻がつんとし、目尻に涙が浮かぶ。この子らのためにも自分は思い切った手段を取らないといけない。だが……もしそうなったら、その時、取り残されたこの子らはどうなるのだろう。
◇◇◇◇◇◇
モグリの金貸しディリックに会いに行くと、現れたのは以前、財布を掏るふりをした青年だった。似合わない髭は、伸びたおかげかマシにはなっているが、やはり似合わない。
なんでもスラム街の連中すら、手が出せないほどの黒幕がついており、絶対に回収できる客相手に金貸しをしているとの噂だ。回収できない相手からの借金の申し込みには、その筋を通して、「仕事」を紹介するそうだが、どういうわけか紹介された連中は、次々にスラム街から姿を消してしまうらしい。
本心ではそんな人間に関わり合いになりたくはなかったが、選んでいる余裕はない。心残りはその「仕事」を紹介された後、報酬が妻子にきちんとわたるのかどうかだ。自分は消されたとしても、それだけは確かめたかった。
開口一番、最も気になっていた点を口にしてしまう。
「その髭、似合っていませんヨ」
「どいつもこいつもうるせーな。金貸しは生やすもんなんだよ」
警戒していたよりも気さくな人間に見え、ディリックは相談しやすかった。しかしシルヴェステルは知っている。悪い奴ほど親切に見せるということを。
「へー、あんた、大変な思いをしてこの国に来たんだな」
「それで、妻のためにお金を貸して頂きたいのデス」
「貸せって言われても。そう簡単には」
「妻が危ないのデス。なんでもします。どんな汚い仕事でも。奴隷にされても、闇の世界に落とされても構いません」
シルヴェステルの両手に捕まっていた、リシャルドとアリツィアが泣きそうになった。
『お父さん。ドレイになるの?』
『そんなの駄目』
『……大丈夫だ。心配するな』
無理をして笑顔を作り、二人をなだめた。だが二人とも、なにかをするつもりなのが、子ども特有の鋭い勘でわかってしまったのだろう。アリツィアがぽろぽろ泣き出してしまう。聞いたことのない外国語で話す三人を、ディリックは物珍しそうに見ている。
「そう無茶を言われてもな。俺はトウシ……投資で金貸ししているだけだし。まあ役に立つ人材なら、いっそ……。でも俺、軍人のことはよくわからないから、直接、仕事を紹介するよ」
「仕事を紹介」
ごくりとつばを飲み込んだ。体はびっしょりと汗をかいているのに、頭の芯は冷え切って、氷で冷やされているかのようだ。今までは必死に子どもたちの前で笑顔を作っていたが、シルヴェステルはもう駄目そうだった。
ディリックの案内で、とある雑貨屋を案内される。中はちょっと高級なお品物が並んだ、庶民には一見して敷居の高い小売店だが、問題なのはそこにいた人物だ。
見たところ平民が身につけそうな物ではあるが、完璧に手入れされ塵一つついていない服に、使い込まれているが磨き上げられたブーツ。そしてなによりも艶やかな絹のような髪に、完璧に整えられた肌と手。
安い服を着たからといって、身分をごまかせるものではない。この人物が何者かはわからないが、相当な地位にいるのは間違いない。それも街の顔役や、マフィアの首領などではない。もっと上の権力者すら従う、警察よりも上の……。
底知れない闇の世界に、自分が今まさに足を踏み入れようとしていることがわかる。イヴォナも子どもたちも、こんな世界に近づけさせたくない。
そう思っていると、店内で何かの指示を受けたらしい青年が、ふらりと表に出てきた。こちらも質素な身なりだが、立ち居振る舞いからして軍人上がりのようだ。店の前のディリックを見て、気軽に声をかけてくる。
「久しぶりだな。ディリック」
「お久。ジュリウス」
「ソーヤは元気か」
世間話が始まり、それを側で聞いていたシルヴェステルは、どんな仕事に落とされるのか息を潜めて待っていた。ディリックが話す身の上話を聞いたジュリウスは、気の毒そうな顔になり、早速こう言う。
「それは大変ではないか。すぐにその気の毒な女性を保護しないと」
ぞっとしたシルヴェステルはすぐに断った。
「結構デス。金を貸して欲しいだけです。俺はなんでもしますから、どうか妻には手を出さないでクダサイ」
母親のことが話題に出たことがわかったのだろう。リシャルドたちが不安そうに何度も、父親とジュリウスを交互に見る。
「……だが、一刻を争うのだろう? 今すぐ病院へ運ばないと」
病院という単語を聞いて、なにを想像したのだろう。ぞっとしたシルヴェステルは思わず子どもを抱えて、一歩下がった。
「なにを企んでいるのか知りませんが、そんな恐ろしいことはやめてクダサイ。妻にはなんの罪もありません。お願いですから手を出さないで下さい。俺が、俺が犠牲になりますから」
「その二人が君の子どもか? ずいぶん痩せていて気の毒だ。まずは私の家で食事でも」
「こんな小さな子どもにまで手を出すのデスカ。いくらなんでもあなたに慈悲の心はないのですか」
リシャルドとアリツィアは、父親が慌てて、つい大きな声を出した様子に怯え、両足にしがみつき、終いには泣き出してしまう。
「俺はなんでもします。ですから妻と子には」
埒があかないとディリックが割って入ってきた。
「なあ、ジュリウス。こいつ外国語しゃべれるんだ。前にそういう奴がいると便利だって話をしてたな」
「ああ、シルヴェステル殿は何カ国語話せるのだ」
自分の能力を披露すれば、妻子に危険が及ばないかもしれないと思ったシルヴェステルは、必死にアピールした。
「ピアスト国軍に七年。ルーシ軍外国人部隊に五年いました。階級はどちらも軍曹デス。他に母方のプロシア語、仕事の関係で、ガリア語の読み書きもできます」
「では合わせて五カ国語使えるのか」
ジュリウスの目が期待に輝いた。
「所属が軍なら身元はしっかりしているし、仕事もすぐに見つかるだろう。それよりも奥方の保護を……」
話題が戻った途端、シルヴェステルがさっと身構えたのを見たディリックが、「面倒くせえ」と小さく呟いて立ち上がった。突然、芝居がかった口調で怒鳴る。
「おい、シルヴェスなんとか。いいから聞け!」
そういってシルヴェステルを人差し指で指さした。彼は反射的に気をつけの構えをとり、かかとを鳴らす。
「あんたの嫁さん、身ごもってんなら、乳母として使えるだろう。この国では乳母は富裕層に引っ張りだこなんだよ。金になるからさっさと寄越しな」
「妻になにを」
『やめて、お母さんになにもしないで』
『ひどいことしないで』
恐怖におののいたシルヴェステルたちを、ディリックは「黙れ!」と一括する。
「なにもしねーよ。乳母は体が資本なんだから、手厚く治療して大事にするさ。下にも置かずにな。そうでなきゃ金にならないだろう。腹の子なんてどうでもいいが、乳母のご機嫌とるために、面倒見てやってもいい。どっちみち俺らの労働力になるんだから。それとその子ども二人」
「子どもには手を出さないでクダサイ」
『お父さん』
ディリックが指を指すと、二人とも涙目になりシルヴェステルの足にしがみついた。
「さっきから見てれば、親と同じように外国語わかるんだろう。だったら利用価値あるじゃないか。子どもは素直で扱いやすいからな。その上、手に入りにくい貴重な人材なら、逃げないように優しくしてやるさ。それとあんた」
最後にシルヴェステルを指さした。
「あんたは人質だ。一番使えなさそうだし、あんたみたいな厄介者に払う金はない。叔父貴に預けるから死に物狂いで働け。これで嫁さんも子どもも簡単に逃げられねえな。ホケンってやつだ」
叔父貴と名指しされ、ジュリウスは成り行きを茫然としたまま、見守っていた。
内心では働きに応じた高給を払うつもりであるし、妻子も手厚く保護するつもりだったのに、なぜか極悪非道な人物のように扱われ戸惑うばかりだ。
だがそれ以上に驚いたのが、乱暴な演説を聞いて、シルヴェステルが心の底から安心したような顔になったことだ。今では子ども二人と抱き合って喜んでいる。
「ディリック様。ありがとうございマス。妻の面倒を見て下さって」
「よし。それじゃあ、荷車を手配して、嫁さん迎えにいこうぜ」
「……」
イヴォナを迎えに行く家族が、明るい笑い声を立てている後ろ姿を見ながら、うなだれてとぼとぼ歩くジュリウスに、ディリックが声をかけてくる。
「まあ、なんだ。俺らみたいに底辺を生きているとさ、いい言葉を囁かれても、嘘だとしか思えないんだよ。だからあれぐらいの罵倒が、丁度良いっていうか。その、元気出せよ」
軽くぽんと肩を叩かれ、ジュリウスは腑に落ちない。
「なんだか、空しいな……。私も少し、ああいうのを練習した方がいいのだろうか」
「無理無理」
間髪入れずに否定されて終わった。
◇◇◇◇◇◇
その後、ジュリウスの手配で入院したイヴォナは、回復にひどく時間がかかったものの、無事に出産にこぎ着け、その頃には生活も安定したシルヴェステル一家の元、母子ともに穏やかに暮らしている。




