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貧乏男爵家の調査官日誌  作者: 林はるる


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血は水よりも濃し


 敵対しているリフキン男爵家と、政略結婚をしなければならないと聞かされたルパートの顔には、はっきりと運が悪かったという文字が浮かんでいる。距離を取れない隣接地で、派閥も対立している。近い距離にいるほど、仲が悪かったりするものだ。


 だが仕方がない。

 上手くやるしかない。


 そう思って、相手方の令嬢チェイニーと会った瞬間、そんな考えは吹き飛んでいた。線が細そうな女性で、ちょっと力をいれれば、折れてしまいそうなほど華奢だ。後で知ったが性格は暗い方で、寡黙。だがだからこそ、なんとか工夫して笑わせた時の、笑顔が忘れられず、会いに通うのを止められないほど、ルパートは夢中になった。



 結婚してすぐ長男のマクシムが生まれ、立て続けに次の子どもたちが生まれる。チェイニーは積極的に嫁ぎ先のヘニング子爵家を手伝い、リフキン男爵家との仲を取り持った。男爵は気性の荒い所があり、娘が間を取り持つことで、ようやく子爵家との関係に改善が見られるようになったところだ。家庭も円満で、ルパートは幸せだった。


 子どもたちが過ごす部屋に、ルパートが顔を出すと、今日も長男のマクシムがビスケットを食べている。


「あい、まーま」

「あらあら」


 自分の大好きなビスケットを、マクシムが母親に分け与えたのを見て、ルパートはなんだか胸が温かくなった。そこへたくさんのイチゴが運ばれてくる。


「どうしたのだ。このイチゴは」

「奥様が特別に注文されたものです」


 大好きなイチゴを見て飛びつき、葉っぱごと食べるマクシムを、慈しみを浮かべた笑みで見つめるチェイニーは奥ゆかしく、それはルパートの記憶に残る光景となった。



◇◇◇◇◇◇



 そんなチェイニーだったが、一時期長く沈んでいたことがある。元々、沈みがちだったため、いつしかそれが普通の状態だと、受け止めてしまっているところがあった。だが実家に帰りがちになり、一度だけ確かめたことがある。


「なにかあったのかい?」

「……いいえ」


 平素の通り特になにも言わず、そこで話は終わりになってしまった。当時、とても忙しく、ルパートは仕事から手が放せない時期が、数年続いた。チェイニーはその間、しょっちゅう実家に行き、子どもたちの面倒はおろそかだ。だが生来、真面目な彼女には、なにか理由があるのだろうとまわりは受け止めていた。


 そしてチェイニーの兄で、リフキン男爵家の跡継ぎチャドウィクの、妻ヘレナの訃報が入ったのだ。自分たちと年が変らない若い女性の死という意味で、ルパートは一瞬、動揺した。そして実家通いの理由は、これだったのかと合点がいく。


 葬儀に出向くと、妻はひどく落ち込み、傷心の兄の側にいたいからという理由で、戻ってきたのは半年ほどたったあとだ。本心では子どもたちのために言いたいこともあったが、妻を信用してルパートはじっと待つことにした。


 その後、ようやく戻ってきたチェイニーに子どもたちがはしゃぎ、ヘニング子爵家はやっと日常を取り戻したのだ。



 そんな時、ヘニング子爵である父親から、リフキン男爵家の吸収合併について内密に話があった。もともとリフキン男爵は粗暴な所があり、孤立している。おまけにチャドウィクの妻が亡くなった後、再婚する気配が見えない。このまま孤立させれば、労せず貴族家が手に入る。いい案だった。


「実は最初からそれが狙いの政略結婚だ」


 父親の言葉にルパートは驚いた。


「まさかヘレナ殿の死は」


「さすがにそこまではしない。だが機会も逃さないだけだ。いいか、よくマクシムを教育するんだ。リフキン男爵家を継ぐのはマクシムなのだから」


 その時、ほとんど顔を合わせたことのない、乱暴なリフキン男爵のことはすぐに頭に浮かんだ。だが何度も顔を合わせ、ヘレナの葬儀でも長く一緒にいたにもかかわらず、影の薄い跡継ぎについて思い出すことができず、ルパートの頭の中では、チャドウィクは「妻の兄」という記号や数字として処理されていった。



◇◇◇◇◇◇



「まぶしい」


 思わず口からもれた言葉だった。

 すっかり太陽の位置は低くなり、それでいて夕方なのにまだまだ地平線に落ちそうにない。そのまぶしさは、攻撃でもされているように感じるほどだ。


 ジュリウスは日差しを避けるためだけに、貴族街に遠回りをし始める。ブラック号はいつもと違う道を、不思議そうにしながら歩き始めた。貴族街は塀が高い場所が多く、ほっと一息つけそうだ。しかし人気はまるでなく、なんの物音もしない。なんだか時が止まったようだった。


 リフキン男爵殺人事件の、目撃者メリッサを助けたのは、そんな時だった。


 目の端をなにかが、ちょこまかと動くのに気がつき、それが女性で、背の高い裏木戸を中から危なっかしく乗り越えて、生い茂っているツタにつかまり、外に出ようとしているのがわかった。ブラック号はとっくに気がついていたのだろう。興味深そうに首を向けている。


 心配したジュリウスは、ブラック号の足を早め、その場に向かう。すると裏木戸が乱暴に開き、男が飛び出てきた。仕立ての良い立派な服を着た侍従らしき男は、鋭い細剣を構えると、情け容赦なく、悲鳴を上げた女性を殺そうとする。


「なにをしている。やめろ」


 男は声をかけてもまったくひるまず。ジュリウスは懐からナイフを出し、渾身の力で投げた。前腕に刺さったせいで、たまらず細剣を取り落としたが、諦めが悪く左手で剣を拾ってまで殺そうとする。すかさず抜いた剣で、男の細剣をたたき落とし、勢いのまま切っ先を相手の喉元に突きつける。


 男は後ずさった姿勢で、心底悔しそうに唸ると、剣を突きつけられているにもかかわらず、すたすたと歩き出して、裏木戸の中に入っていった。ジュリウスはそれを驚きながら見ていたあと、女性に声をかける。


「危ない所でしたね」

「助けて下さい。きっと奴らの仲間が来ます」


 女性の名前はメリッサといい、事情があって追われているという。それ以外の話をなにもしないため、ひとまずブラック号に乗せて、連れて帰ることにした。


 ラムレイ男爵家に着いたメリッサは、一大決心を述べるように、ジュリウスにお願いした。


「命を助けて頂いてありがとうございます。それで厚かましいですが、一つお願いがあります。私に武器の使い方を教えて頂けないでしょうか」


「……武器ですか。半年くらい頂けたら」


「一週間くらいで」


「一週間では無理です」


「なぜですか」


「仮に小型ナイフの使い方を教えたとしますよね。ですが、私ならそのナイフを一瞬で奪えます。結局敵の力になってしまうのなら、意味がないからです」


 メリッサはそこでしばらく考え込んでしまったようだ。その目の前でジュリウスの妹シェリーが、小型ナイフをペン回しのように回している。


「シェリーさんは武器が使えるのですか?」


「その子はまったく使えません。いやはや、お恥ずかしい限りで」

「そいつはまったく使い物にならないぞ」


 祖父のゲイアスと、父親のオルダスが、シェリーをこき下ろした。だがメリッサの目には、ナイフを自在に操っているように見えるようだ。


「なるほど。ジュリウスさんの天然は遺伝なんですね」


「え?」


「シェリーさん。私に戦い方を教えて頂けませんか。私のように戦えない人間が、そのままで戦う方法です」


「なにやら奥が深い……」


 ゲイアスが妙な感心をしている。


「それってつまり……、田舎から出てきて、美容にもファッションにもくわしくない女の子が、一週間で、王都でやっていけるようになる。そんな秘訣を考えればいいということかしら」


 わかりやすい例えを出されて、メリッサは目に見えて安堵した。


「そうです。そんな方法ありますか?」


「考え方を変えたらどうかしら。縄抜けを練習したり、逃げることに徹したり、暗器の訓練をしたり。そのままでもできることはあるわ」


「なるほど、暗器か」


 急にジュリウスが話に入ってきた。


「暗器とはなんですか?」


「世の中には、人を暗殺する専門家がいて、彼らの武器を暗器と呼びます。物によっては簡単に使えます。例えば毒など」


「なるほど。そのう……私は理由があって、どうしても詳しい事情を話したくないのです。だからと言って、殺されたくもありません。誰が敵味方かわからない中、せめて戦えるようになれたらと思ったのです」


「助かるためにですよね。この家に逃げ込んだ時点で、目的は達成したも同然です。まずは、あなたの事件が解決する目処が立つのを、静観してはいかがでしょう」



◇◇◇◇◇◇



「メリッサが出てきたのは、ヘニング子爵家の裏木戸だね。問い合わせてみたが、心当たりはないと言われたよ」


 リックから事件の調査結果を聞かされ、ジュリウスは難しい顔になった。


「目の前で女性を襲っていたのにですか」


「ああ、ジュリウス君の言った人相風体の男は、ヘニング子爵家の侍従だ。だが彼はその日、その時間帯は外出していたそうだ。証人もいる」


「ふうむ」


 ヘニング子爵家はしらを切り通すつもりのようだ。


「メリッサさんは、子爵家の使用人だったのですか」

「いいや。そんな女は雇っていないとさ」


「とすると」

「私はこういう謎を考えるのが好きなんだよ」


 リックは嬉しそうに書類を眺めている。


「メリッサはどこから来たのかな……。ジュリウス君が戦った侍従はフリヌと言って、長く仕えている。二十年近くだそうだ。チェイニー子爵夫人が嫁いで来た時に、ついてきたそうなんだ。ご実家のリフキン男爵家から。そうなると腹心と言っていい。だとすると、ジュリウス君に目撃されても、襲撃をやめなかった理由は想像がつく。忠義心が篤いからだ」


 ジュリウスはあの時のことを思い浮かべた。怪我をしても襲撃を続けたフリヌ。捕まることをいとわないように見えた。


「夫人のご実家が怪しいと、にらんでいるのですか?」

「たどれるものはなんでもたどるよ。そろそろ来る頃かな」


 部屋にバロネスが入ってきた。


「チェイニー子爵夫人のご実家、リフキン男爵家のご当主ゴダード卿がお亡くなりに。死因は強盗に襲われ刺殺です」


「強盗は?」


「捕まっていません。特に怪しい点はないそうです」


「ふむふむ」


「喪主はご長男のチャドウィク様です」


 そう聞かされたリックは、「最も利益を得る人物か」とつぶやいた。


「ジュリウス君。メリッサを急ぎここへ連れてくるように。待ってあげられる時間は過ぎたようだ」



◇◇◇◇◇◇



 リフキン男爵家の当主ゴダードは感情的な人物で、時には暴力をふるう男だった。


 そのため使用人が居着かない。だがその分、給金は高かったので、メリッサのように金のためなら、暴力を流せる性格のものが、少人数で回している。


 ゴダードの暴力は、息子チャドウィクや娘チェイニーにも及んでおり、二人はいつもじっと耐えてきた。チャドウィクの妻ヘレナは脆い性質で、彼は必死にかばっていたが、こんな環境を生き抜ける女性ではなかった。段々弱っていったと思ったら、なんてことのない風邪で、ある日、ぽっくりといってしまったのだ。


 チェイニーは、なんだか空しくて仕方がなかった。ヘレナがほんの少しだけでも神経が太かったら。そう、ゴダードのように。ヘレナの死に気落ちしたチャドウィクは、幽霊のように影が薄くなってしまった。いるかいないかわからない。彼の人生はなんなのだろう。


 そんなある日、チャドウィクの再婚についての話し合いで一悶着起こった。


 ヘレナの死から立ち直れていない彼は、父親のゴダードがいる限り、どうやったって再婚する気になれない。父親に対する長年ため込んだ怒りと共に、妻になにもしてやれなかった、どうしようもない自分への無力感で一杯だったからだ。それなのにゴダードは縁談を持ってきて、無理に再婚させようとした。その時、こう言ったのだ。


「あんな弱い女をつかまされて、まったく外れも良い所だ。その分、早く死んでくれたのだけは儲けものだったな」


 その場に詰めていたチェイニーを始めとする重鎮たちは、あまりにも心ない発言に、さっと顔色が変った。


 その時、この話し合いが始まってずっと、無気力なままだったチャドウィクがゆらりと立ち上がり、初めて父親に詰め寄ったのだ。


「あんたがヘレナを殺したんだ。あんたが。この人殺しめ」


 そう何度も泣き叫ぶチャドウィクを、ゴダードは鼻で笑い、指を指す息子の手を、馬鹿にしたように振り払った。チャドウィクはなおも言いつのろうとしたが、滅多に声を出さない彼が、急に声を出したからだろう。白鳥のように醜い声になり、とうとう声が出なくなってしまった。口だけぱくぱくさせる息子を、ゴダードは笑いものにしている。


 詰ってやりたいのに声が出ず、その分、感情が限界まで高まったチャドウィクは、目の前に飾ってあった剣をつかむと、刃を水平にして、力一杯突き刺した。息子を馬鹿にすることに気を取られていたゴダードは抵抗できず、まるで砂袋が倒れるかのように、大きな音を立てて倒れる。


 話し合いが行われていた部屋の重鎮たちは、誰も止めようとしなかった。ゴダードはそうされるだけのことをやってきていたし、まさかチャドウィクという人間の心の中に、これだけの激情が眠っていたなど、誰も想像しなかったからだ。


 その時、部屋の入り口に立ち尽くしている使用人のメリッサに、チェイニーたちは気が付いた。リフキン家を長く支えてくれた使用人の一人だ。だが兄のことを目撃された以上。


「フリヌ」

「はい。奥様」


 チェイニーに声をかけられ、すぐに目的を察した侍従のフリヌは、とにかく捕らえようとした。しかしチェイニーの長男マクシムが、逃げ出したメリッサを捕らえ、連れて行ってしまう。


「あの子は、なにを」


「奥様。この状況、ヘニング子爵家による乗っ取りに、限りなく有利ではありませんか」


「なんてこと」



◇◇◇◇◇◇



 あわてたチェイニーとフリヌが、ヘニング子爵家に戻ると、地下牢にメリッサが閉じ込められていた。彼女によると案の定、子爵家のために、リフキン男爵家で起きた事件の証言をしろと、マクシムに命令されたという。


 証言をする気はないとメリッサは言った。チャドウィクの気持ちがわかるからと。

 だがそういう問題ではない。兄を守るためには、メリッサの存在自体が危険なのだから。


「フリヌ。ずっと尽くしてくれたあなたを、最後にこんな風に使い捨てることになるなんて。……ごめんなさい」


「気になさらないで下さい。奥様。お二人のために死ねて本望です」


 リフキン男爵夫人は早くに亡くなり、男爵は粗暴で頼りにならない。小さかったチャドウィクと妹のチェイニーを、親代わりとして育ててきたのがフリヌだ。チャドウィクから敵方に嫁ぐ妹を頼むと言われ、身を捧げるつもりできた以上、こういった最期も覚悟していた。


「メリッサ。ごめんなさい。お兄様にも、ヘレナにも長く仕えてくれたあなたを……」


 もう望みはないのだと悟ったメリッサは、歯をガチガチと鳴らしながら言った。


「チェイニー様。せめて金を。私の家族が生きていけるだけの、金をはずんで下さい」


「約束するわ」


 見ていられず、そう言ってチェイニーはそこから足早に立ち去る。


 牢の鍵を開け、腰の細剣をフリヌは抜くと、ゆっくりと中に足を踏み入れた。がたがたと震える体をメリッサはなんとか起こし、少しでも離れようとする。その時、構えようと、剣先をただ軽く振った。


 だが武器に慣れていないメリッサは、激しいパニックを起こし、両手と両足を同時に動かし、もんどりうって派手に転がり、フリヌにぶつかりそうになった後、偶然にも牢の外に出た。転がった時に扉の格子に足が引っかかり、閉まると共に、地面に体をしたたかに打ち付け、その痛みにメリッサはしばらく動けなかった。


 素人の予測できない動きに、フリヌは口をぽかんと開けている。中に閉じ込められた彼が、大声で人を呼んでいる間、ひねってしびれている足で逃げ出し、そしてジュリウスに助けられたのだ。



◇◇◇◇◇◇



 説得により重い口を開いたメリッサが明かした、リフキン男爵殺人事件は、長男による当主殺害として処理された。だが長年の重圧によるものとして減刑され、チャドウィクは刑務所ではなく病院に収容されることとなった。


 爵位はチェイニーの息子、マクシムが継いだ。男爵の横暴で孤立したリフキン家の面々には、もう維持できる力は残っていなかったからだ。


 ヘニング子爵家では静かに動揺が広がっていた。


「母上。どうして私たちを裏切ったのですか」


 マクシムは耐えかねて、父ルパートと話していた、母チェイニーの心ない行いを責めた。


「簡単にリフキン男爵家が、手に入る機会だったのです」


「別に裏切ってはおりません」


「裏切ったではないですか」


「よせ、マクシム。チェイニーにそんな言い方をするな」


 見かねたルパートが、マクシムを止めに入った。


「…………不思議なものですね。自分の母親には、母親という人生しかないと、思い込んで。私にはリフキン男爵家の娘という立場も……そしてチャドウィク兄様の妹という立場もあります」


 安心して身を預けていた母親に、マクシムは裏切りを受けたような気分だった。それにリフキン男爵家は、手に入れるべき獲物であって、情けをかける相手ではない。


「私はリフキン男爵家の娘として、ここに嫁ぎ、夫のルパートと、ヘニング子爵家を、手中におさめろという命令を、父から受けてきました」


「なんてひどい。我々を裏切ったのですか」


「それほどのことでしょうか。嫁ぎ先で実家が力をふるえるように、尽力するのは嫁の務めではありませんか。むしろそれこそが政略結婚の真髄でしょう」


 隣で聞いているルパートは、今度のことで少し落ち込んでいるようだ。ずっと下を向いている。


「……」


 どこまでいっても姻戚関係というものを、知識として学ぶだけのマクシムには、ピンとこないようだった。


「あなたはまだ、母親が自分の一部だと思っているのではないかしら。多分結婚したらその感覚も薄れると思うけれども」


「どういうことですか」


「マクシム。私の好きな花や、好きな果物を知っている?」


「もちろんです。好きな花は水仙、果物はイチゴですよね。あとビスケットも。毎年、差し上げています」


「あなたは、今、あげたものを好き?」


「……はい。私の好物でもあります」


「私、それらのものは実は好きではないの」


「それは知りませんでした……。どうして教えて下さらなかったのですか」


 チェイニーは穏やかに笑った。


「どうでも良かったからよ。あなたが小さい頃、遊び部屋の前に水仙が咲いていたの。庭師が切ってくれてね。花をもらったあなたは、私にくれたわ。『あい、まーま』って。可愛かった。うふふ、今でも思い出せるわ。あなたは水仙が大好きで、大好きな私にあげたかったんですって。それからあなたは水仙を用意するようになって……」


「私が好きだった……」


 思いもかけないことを聞かされ、マクシムは茫然とした。


「困ったのがさくらんぼね。大好物だったから、毎年季節になると産地から取り寄せていたの。でもあなたが生まれて、万が一、実を種ごと丸呑みしたらと思うと怖くて、だから小さい内はあなたの好きなイチゴばかり用意したの。ところがなぜかイチゴが好物と勘違いされて。さくらんぼを取り寄せたくても、イチゴが大量に……。ああ、責めているわけではないの」


 言葉を失っているマクシムに、チェイニーはいつもと変わらず笑いかけた。


「あなたは私の好物を知らなかった。それは愛情がないからではなくて、子どもが親を、一人の人間だと見るのは、難しいことなのよ」


「……」


 次々と持ち出される話題に、今までの自分の世界が、ひっくり返るような気持ちにさせられたマクシムは、その指摘が正しいことに気が付いた。親は無条件で、味方でいてくれると信じている。だが政略結婚で嫁いできた以上、いやそうでなかったとしても、そんなことはあり得ない。


 粗暴なリフキン男爵は、祖父ではあるが関係のない人物だ。だから暴力を振るおうと、殺されようとどうでもいい。そんな男に振り回されているチャドウィク伯父は、情けない限りと思っていた。だがそんな父親でも、チャドウィクにとっては親だった。そしてチェイニーにとっても。


「私も、……チャドウィク兄様も一人の人間なの。お父様から、兄様はずっとかばってくれた。だから目撃者を消そうとした。兄様のためにせめてものことを……なにかをしてあげたかった……」


 影の薄い跡継ぎ。それがマクシムにとってのチャドウィクだ。


 チャドウィクが父親を殺した時、なにを考えていたか……。精神的に不安定な伯父が到頭やってしまったという驚きと共に、どこか滑稽な芝居を観ている気分だった。だから心に余裕があり、あんな状況でも、メリッサの確保に頭が回った。


 だが考えてみろ。目の前で頼りの兄が、実の父親をその手にかけたのを、チェイニーは見させられたのだ。


 まるでなにも起きなかったかのように、母親は落ち着いている。彼女にとってはそうなのだろう。おそらくここまで大きなできごとではなかったにせよ、似たような失敗をマクシムやルパートはやってきたに違いない。恥ずかしさに震えているマクシムの前で、ルパートがゆっくりと口を開く。


「すまなかった。私も君がリフキン男爵家の娘だというのを、忘れていたようだ。とくに君がチャドウィク殿のことを、大事に思っているのを軽んじてしまって、本当に申し訳ない。良かったら今度……君のお兄様が良かったら、お見舞いに」


 チェイニーはルパートの手を取って、優しく握りしめた。


「ありがとう。でも、いいの。兄を少し休ませてあげて。やっと解放されたばかりだから……」


 ルパートとマクシムは、チェイニーのその言葉に、チャドウィクがやっと休めた姿を、脳裏に思い浮かべる。だがどうしても彼の顔だけは、思い出すことができなかった。


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