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貧乏男爵家の調査官日誌  作者: 林はるる


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黄色い天使

家庭内で妻が夫に暴力を振るわれる話です


 毎年のように、咲きこぼれる元気なイエロージャスミンの花を、花瓶に刺そうとオトゥーリアは小さな枝ごと切っていた。そんな彼女の頭の上に、花がぽろぽろと落ちてくる。まるで天使が遊んでくれているようだ。愛らしい花を鼻の頭の上にのせたまま、つぶやく。


「いつも側にいてくれてありがとう」



◇◇◇◇◇◇



 それなりに幸せな人生を、オトゥーリアは送ってきた。


 でも今から考えると、その有り難みがわかっていなかったと懐かしく思う。家族に囲まれ、ただ穏やかで平穏な「普通」の日々。まさか失ってしまえば、二度と取り戻せないだなんて、知らなかったからだ。ましてや、その日々に戻りたいという切ない願いを殺して、まるで感覚を麻痺させるように、生き延びるために、暴力と暴言に自分を慣れさせようとする日が来るなんて。



 最初に夫のアロイスに殴られた理由は、朝の仕度で忙しなく動き回り、足音を立てたからだ。


 その時に突然、後ろから小突かれ、床に転がった。夫は騎士で、体を鍛えているため、小柄なオトゥーリアは、ちょっと力をいれられたくらいで、投げ出されてしまう。アロイスは居丈高に拳を振り回し、いかにオトゥーリアが悪いか、世間にとってどれだけ恥ずかしいことをしたか、責め立てた。


 その時、暴力により頭が完全に麻痺し、混乱しきったオトゥーリアは、その言葉を真に受け、以降、足音を立てないようになった。それはなんの意味もなく、次は、アロイスが小腹が空いているのに、なんの茶菓子も用意していなかったという理由で、暴力をふるわれた。


 そういったことを繰り返した。延々と。


 その度に、「自分の悪かった点」を反省する。夫に恐怖していたオトゥーリアは、彼に暴力を止めてくれるように、お願いすることなんてできない。でも自分が気をつけることならできる。つまり自分の努力で、いつかは暴力を止めさせることができるという、夢を見ていたのだ。


 だって誰が、直視したいだろう。この暴力は止まないという現実を。なんの理由もなく毎日殴られ、それが永遠に続くことを。


 だが二年も経ち、あらゆることに気をつけ、息を潜めるようにしていたオトゥーリアを、アロイスは慣れた手つきで殴り、床に転がした。


 その時、どう考えても、なんの「落ち度」もなかったオトゥーリアは、茫然として、その口から「……どうして?」という言葉をもらした。アロイスにもさすがに落ち度が思いつけなかったらしく、ちょっと決まり悪そうに、そして照れながら言った。


「あー、なんだ。そのう。なんかムカついたから?」


 そう言って立ち去ったアロイスの背中を見て、ずっと目をそらしていた現実を、ようやく正面から見据えた。


 アロイスは殴りたいから、殴っているのだと。


 それを理解させられたオトゥーリアは、窓際にしばらく座り込み、今日も花を落としているイエロージャスミンを眺めていた。



◇◇◇◇◇◇



 騎士団の若手団員アロイス・ハイニシュは人気者だ。


 華やかな外見で、いつも大勢の仲間に囲まれている騎士アロイスの、たった一つの欠点。彼の悪妻オトゥーリアの噂を知らない者はいなかった。


 なんでも彼にまとわりつき、実家の男爵家の力を使って無理矢理、婚約を結んだにもかかわらず、結婚したら愛人を作って遊び放題。彼女の存在によって引き裂かれた、最愛ベティとの悲恋は有名で、多くの人から同情を誘っていた。


 騎士は出張や長期任務が多いため、その妻たちで結成される婦人会の結束は強い。出席するよう、何度もオトゥーリアに注意しているが、アロイスによると無視されるという。傍若無人で夫も、妻の集まりも見下すその姿勢に、代わりにベティを参加させてはどうかという意見が出るほどだ。


 さすがに婦人会に正妻ではない、いわゆる愛人を参加させるのは筋が通らない。だが可憐なベティに共感する者は多く、世の中はそれくらいオトゥーリアに風当たりが強かった。


「とにかくなにもしないんだ。お茶すらいれたことがない。俺の身の回りの世話なんて、しようとも思わないんだろう。いつも家にいなくて、……小遣いが欲しい時にだけ、戻ってくるんだ」


 酒の席でそうこぼすアロイスを、同僚たちが慰める。




 その晩、自宅に戻った彼は、二階の表階段から転がり落ち、半身を麻痺した状態で翌日の早朝に発見された。



◇◇◇◇◇◇



「だから犯人はオトゥーリアの奴です。あいつが階段から突き落としたんです」

「動機は?」

「そんなの……」


 ジュリウスの質問に、アロイスは言葉に詰まった。疚しいことがある人間の顔をしている。


「もう一度最初から話して下さい」

「だから……自宅に戻って、部屋で着替えて、お茶を飲んだんです。そうしたらオトゥーリアの奴に、呼んでいる人がいるって言われて……」


「どなたですか」

「…………ベティです」


「ああ、あなたの愛人だとか」

「愛人じゃありません」


「ではなんですか」

「……」


「それで」


「とにかくベティが呼んでいると言うから、また服を着て外出しようとしたんです。でもその時、なぜかうまく動けなくて。絶対オトゥーリアがお茶になにか、仕込んだに決まっています。それで表階段を降りようとしたら、奴に突き飛ばされて。これは殺人です。あいつを逮捕して下さい」


 体をうまく動かせないアロイスは、寝台に横になったまま、怒りと苛立ちを募らせている。ジュリウスはこう言った。


「もう一度最初から話して下さい」


 アロイスに聞いた後は使用人。その後は話を聞いて駆けつけた同僚たちに聞く。オトゥーリアからは話を聞けなかった。高熱を出して寝込んでいるからだ。だが大体の事情はわかった。アロイスのもとに駆けつけた同僚たち、使用人たちの揃っている前で、彼から話を聞けば、一発だった。


「昨晩は自宅に戻り、いつものように奥様に介添えしてもらい、着替えたのですね」

「……」


 アロイスは急に黙ってしまった。


「どうしましたアロイス殿。先ほど、ご自分でそう仰っておられましたよね」

「……」


「アロイス殿」

「……はい」


「その後、奥様がいれられたお茶を飲んでから、体がおかしくなったと」

「…………はい」


「奥様は、毎晩お茶をいれて下さったそうですね。今までそんな風に、体がおかしくなったことはありますか」

「……いいえ」


「階段で奥様に突き飛ばされたというのは本当ですか」

「本当です。それは本当の話です」


「『それは』とは、なにか嘘でもついていらっしゃるのですか」

「……」


「ところで奥様の体中にある痣。暴行の痕ですよね。どんな事情が?」


「……………………オトゥーリアには心の病気があって、そのう、そうだ。人に殴られる趣味があって。だから……あんな風で」


 アロイスの全身から、俺の責任ではない、なぜなら俺はいつもなんにも悪くないのだから、というメッセージが立ち上っている。


「……」


 ジュリウスが意味ありげな目で、アロイスをじっと見て、先を促すと、しどろもどろに、なにか言い始める。


「誰かに殴られたがるなんて、頭おかしいですよね。本当にあの女はおかしくて……」


 思いつきの嘘の証言を、ジュリウスに受け入れられたと思ったアロイスは、どうにか言い訳をしなければならない重圧から逃れることができ、解放感から調子にのって、いかにオトゥーリアがおかしな女かということを、まるでとっておきの話題を披露するかのように、満面の笑みで話し始めた。


 その異様な姿を、かなり長い間見ていたが、きりの良い所でこう聞いた。


「では夫人を殴っているのは、誰なのですか。事情を聞きたいので名前を……」

「そんなの知るか!」


 アロイスの怒声がその場に響く。


 彼は捜査官から後ろめたい点について質問され、同僚に見られながらという難しい状況で、その難問をクリアし、自分の巧みな嘘によって、美しく完璧な世界を新しく造り上げるという偉業を達成したのに、無粋な問いで世界を壊されてしまい、ジュリウスの道理を外れた失礼な態度に、義憤を感じていた。


「なんなんだ。あんたはさっきから。人の揚げ足ばっかり取りやがって。何様のつもりだ。偉そうに。あんたみたいな捜査官がいるから、捜査官の質が悪いと苦言が来るんだよ。そのせいで俺たち騎士だって、迷惑を被っているんだ。みんなに迷惑をかけて、少しは恥ずかしいと思わないのか。だいたい」


 まるで怒っている間だけは、ジュリウスからこれ以上、質問されなくて安心だとでも思っているかのように、延々と続けた。彼の同僚たちは、それを止めるでもなく、ただ茫然としている。なにやら顔色が悪いものが多い。ずっと視線をそらしていたジュリウスは、次にこう言った。


「夫人の体の傷は、体中にあり外出もできない。例え服を着ていたとしても隠せるものではありません。そうすると、傷をつけたのは、この家の人間ということになりますね。…………それと。あれだけのひどい状態。私にはとても夫人の希望による、制御された状態での暴力とは思えません」


 同僚の前で本当のことを言われたアロイスは、今度こそ怒り狂い、立ち去るジュリウスが、いかに人間として未熟で、思いやりに欠け、社会人として恥ずかしい態度であるか。それが世の中にどれだけの負担をかけているのかを、口角泡を飛ばして教えてやった。


 同僚たちは視線をそらせ、自分たちが信用していたものの正体が、気持ちの悪いものだったことを、知りたくないとまるで駄々をこねているようだ。それを認めてしまったら、自分が愚かで、騙されやすく、なんの罪もないオトゥーリアに、残忍な振る舞いをしてきたことと、正面から向き合わないといけないからだ。アロイスの親しい仲間たちは、だれにもそんな勇気がなく、適当に挨拶をすると、逃げ出すようにその場を後にした。そしてこのことを「男同士の秘密」にし黙っていた。



◇◇◇◇◇◇



 三日後、熱が下がったオトゥーリアは、結束が固い騎士団に護送された。圧力をかけて極刑に処してやろうと、特に若い騎士たちは血気にはやっている。


 この件に、なぜかアロイスと一番親しかった仲間たちは消極的で、急に無口になってしまったようだ。おまけに中堅や上層部の面々も、沈黙している。


 護送してきたジュリウスは、何度目かの確認をした。


「この先は、私ではお力になれません。今なら引き返せます。本当にいいのですか?」

「無力な私を導いて下さって感謝いたします。でも自分の力で戦いたいのです」


 まだ下がらない熱で赤い顔をしたオトゥーリアは、暑いのか襟ぐりが大きく開いた服に、厚手のショールを巻いていた。興味本位で駆けつけた、騎士団の大勢がつめかける大広間に通されると、さっそく手荒い洗礼を受ける。中にいた若者たちがなにか声を上げながら、オトゥーリアを捕まえて、人々の注目が集まる中心に乱暴に押し出したのだ。


 勢いでショールが脱げ、むき出しのデコルテが露わになった。


 長年の暴力により消えない痕となってしまった傷や、騎士団では訓練で見慣れた殴打の痕が、体中にすき間もないほど、色鮮やかに散っているのを見た人々は、つい先ほどまで見せていた好戦的な顔から、状況が理解できないという間抜けな顔つきになり、動くことが出来ないようだった。


 オトゥーリアは長年の暴力により、すっかり人前では話せなくなってしまっている。長い間の『訓練』により、今では殴られる方が気が楽だ。だからここではただ自分の体をさらけ出す。それがオトゥーリアの戦い方だ。誰かが悪意をこめて流した噂を、頭から信じ込み、なんの裏取りもせずに、吊し上げようとする行為が、どれだけ愚かで恥ずかしいことか、思い知らせてやりたい。無表情にその場に立ち尽くす彼女が、いかに怒っているのかは、初対面の人にまで伝わるほどだった。


 壇上にいた騎士団長のダロンは足早に降りてくると、ジュリウスの指に引っかかっているショールを受け取り、オトゥーリアに着せ、自分の上着も脱いでその上に重ねる。副団長も自らの手で椅子を持ってくると勧めた。ダロンはゆっくりと周囲を見回す。


「それで、お前たち。なにをしたいんだ」


 この件にかかわった騎士全員が、下を向いてしまった。


「なにか言う事があるのではないか。ハイニシュ夫人に」


 ぼそぼそ言うような謝罪の言葉がばらばらに聞こえ、それに対してダロンの、「みっともねえ」という吐き捨てるような声が響く。上層部がアロイスを始めとした、部下の不始末を詫びるように、オトゥーリアの元を訪れ謝罪をした。


 その後、ダロンは、アロイスの愛人ベティの方を向く。


「それで……ベティ殿はどうなさいますか」


 先ほどまではベティを守るように囲んでいた、婦人会のメンバーは、青くなって下を向いている。目に涙を一杯にためて、庇護欲をそそるように、ベティは騎士たちに訴えた。


「関係ありません。この女は悪女です。アロイス様に毒を飲ませ、階段から突き落とし、体を麻痺させたのです。死んでも足りないくらいの罰を望みます」


 美しい顔から生まれた、計算しつくされた演説は、彼女のために動かないといけないという空気を作り、人々の気持ちが盛り上がりそうになった。


「ハイニシュ夫人。夫人はどうなさいますか」


 裁かれる立場だと思っていたオトゥーリアは、ダロンに意見を聞かれて戸惑っていた。だが騎士団長の質問だ。答えねばならない。


「夫人の望み通りの罰を、アロイスに与えるつもりです」


「……わ、わたぁ、しの望みは、も、もう暴力にぃおびえなくていい日々を送れ、れば、それで……け、結構です。こ、こ、これ以上、なにもぉ……起こらないのであれば、それで……」


 周りをいたたまれなくさせた、そのどもった話し方は、ベティのために正義感を燃やしていた人々の頭に、冷や水を浴びせるほどの威力があった。


 彼女の傷、その話し方、特徴ある視線を誰とも合わさない用心深い癖。置かれていた環境は明らかだ。それなのに命さえ無事であればいい、そう思うまでに至った。ベティとは対照的な願いは、激しい戦場から生きて帰ってきた兵士の望みと変らず、彼女のくぐり抜けてきた、修羅場のすごさを逆に物語っている。


 場の流れが完全に変ったことに焦り、ベティはまわりに訴えた。


「どうしたのですか。皆さん。この女はアロイス様に毒を。それに階段から突き落として……」


 必死なベティに、ダロンは張りのある声で聞いた。


「どうして毒を飲ませたのですか」


 ベティは一瞬言葉に詰まり、目をそらした。


「なぜ階段から突き落としたのですか。ベティ殿」


 かっとなったベティは、きつく反論した。


「理由なんてどうでもいいでしょう。人を殺そうとしたのですよ」


「なにがあったのかね? ジュリウス殿」


 ダロンは、振り向いてジュリウスを手招いた。ジュリウスも大勢の人に伝わるよう、よく通る声で説明する。


「捜査の結果、ハイニシュ夫人は、夫の長年の暴力に耐えかね、階段から突き落としました。毒を使った痕跡は見つかっていません。おそらく酒の酔いが残っていたのを、勘違いしたのでしょう」


「そんなの嘘よ。酔っていたとしても、騎士のアロイス様を突き落とせるわけないじゃない」


 ベティは間髪いれず反論した。


「本当です。見つかりませんでした。ところで、ベティ殿。なぜ転がり落ちたアロイス殿が、朝まで放置されていたのかご存じですか」


「そんなの、この女が放っておいたからでしょう」


「使用人全員に聞きました。表階段は吹き抜けになっていますから、争う声、転がり落ちた音、悲鳴、助けを求める声。ほぼ全員が耳にしたそうです」


「…………え?」


「でも誰も助けに行かなかった。なぜだかわかりますか?」


「……」


「あの家ではそれが普通だったからです。悲鳴も、暴力の音も、なにもかも。私は彼らを咎めることが、できませんでした。なぜならそう『教育』したのは、主人のアロイス殿だからです。同じようにハイニシュ夫人も……」



◇◇◇◇◇◇



 オトゥーリアの実家ロット男爵家は、立て続けの災厄に見舞われていた。そのため、資金援助と引き換えに、代々騎士を輩出する武家としての名門ハイニシュ家に、貴族令嬢として嫁ぐことになった。血筋と家柄を買われたのだ。弟の学費にも困り、母親の薬代にもあえいでいる、ロット男爵家にとってはいい話だったはずだ。


 だが祖父ヨゼフが取り付けてきたその婚約が、気に入らなかったアロイスは徹底的に反発する。愛人ベティと離れず、それを正当化する建前として、オトゥーリアの悪評をばらまいた。


 アロイスは天才的に口が上手く、外面が良い。人の悪口が大好きで、放っておくとずっと話しているほどだ。特に、まわりから責任を求められるようなまずい場面では、あらかじめ台本でも準備してあったのかと思うほど、完璧な「言い訳」を、その場でまくしたてられる能力を持っていた。そんなアロイスと、周囲の同情を買うのが上手いベティに組まれたら、オトゥーリアなどなんの役にも立たないだろう。


 離縁しようにもハイニシュ家との縁が切れたら困る。経済的な援助が結婚の条件だからだ。その上、暴力を振るうのが快感になってしまったアロイスは、オトゥーリアを手放す気がなかった。


 追い詰められた彼女はこう考えた。


「このまま暴力を振るわれたら、自分はいつか壊れてしまう。でも離縁もできない。それならアロイスにもう、暴力を振るえない体になってもらおう。危険な行為だが、自分の身を守るためだから仕方がない」


 視野も思考も狭くなっていたオトゥーリアは、それを実行に移したのだ。



◇◇◇◇◇◇



「ベティ殿。あなたとアロイス殿の、『オトゥーリアは一生飼い殺しにしよう』という会話を、ハイニシュ夫人は聞いていました。つまり……」


「つまり……?」


「ハイニシュ夫人には、どこにも逃げ場がなかったのです。だったら身を守るために、反撃しても仕方がないではありませんか」


「おかしいわ。そんなの。だったら離婚すればいいじゃない。……あ」


「ええ。今、ご自分で仰いましたよね。離婚も許されなかったと。それでダロン卿」


「なんだ」


「アロイス殿の今後の処遇は」


「……ハイニシュ夫人の悪評は、騎士団が責任を持って対処する。ただ……ハイニシュ家は名門だ。このことを公にするのは難しい。……だが」


 ダロンはまわりに聞こえないように、そっと声を小さくした。ジュリウスと、オトゥーリアにだけ聞こえるようにする。


「その方が夫人にとっても、都合がいいのではないか」



◇◇◇◇◇◇



 後日、書類作業のためにもう一度訪れると、夫人の座っていた場所から、大きな窓の外にそれは見事な、つる性の植物が藤棚に広がっているのが見えた。可愛らしい黄色い花がたくさん咲きこぼれていて、それを切ったのだろう。無造作に暖炉の上の花瓶に生けてある。


「なんともはや、これは見事ですね。素晴らしい」

「この季節になると元気に咲いてくれて」


「元々、ハイニシュ家に生えていたものなのですか?」

「いいえ、生家にあったものを、恋しくて数枝持ってきたのですが、たった三年でこんなに大きくなってしまって」


 困っているような口ぶりだが、そんなところが愛しくてたまらないとばかりに、窓の外を眺めている。こんなに立派にするのには、なにか秘訣でもあるのかと尋ねるが、ただ水を与えているだけだという。そんな風に会話が盛り上がっているのに、不自然なほど、「良かったら少し持って行かれますか」の一言が、オトゥーリアの口からは出なかった。


 その理由をジュリウスは知っている。

 この花はある意味、便利で、そして危険なものだからだ。


「こんな風に大事にされて。まるで夫人はこの花を守っていらっしゃるようですね」

「逆ですわ」


 オトゥーリアは苦笑すると、落ちていた花を手のひらの上に置き、お守りのように握りしめた。


「私の側にいてくれて、ずっと心を慰めてくれて、……私を守ってくれているのです」


 今回の事件に関しては、明らかな殺意……おそらく死んでも構わないという判断の元、実行された事件であるからして、罪状をどうするかは、関係者全員が相当に迷った。だが常軌を逸した環境で、生き延びようとした結果なのだから、執行猶予が精々だろうとの結論になった。結果として、ハイニシュ家側の事情でもみ消された訳であるし。


 それにしてもベティの指摘の通りだ。仮に泥酔していたとしても騎士のアロイスを、オトゥーリアが突き落とすなんて難しい。それを助けるなにかを使わない限り。二階で寝ているアロイスにとっては、地獄のような生活であろうが、どうしても同情する気にはなれなかった。


 ジュリウスが心配しているのは、オトゥーリアのほうだ。


 暴力の脅威がなくなったのなら、生活は元に戻る。

 だが当然だが、戻らないものはたくさんある。彼女はもう二度と、夜中に安心して眠ることはできないし、誰かが手を振り上げたら、反射的に体をすくめるだろう。ちょっとした口論で相手がつい大声を出しただけで、身構えるだろうし、自分より体の大きな人に近づくこともできない。


 彼女は小柄だから、世の中の、ほぼ全員の近くには寄れないということだ。それが何十年も続く。そしてそのことを会った人全員に、一々説明して理解を求めることなどしないのだから、つねにびくびくして過ごさねばいけないわけだ。


 だってなんて説明したらいいのだろう。


「オトゥーリアには、暴力を振るわれる世界線が、『普通』になってしまったのです。いくら誰かが『もう大丈夫だよ』と言った所で、アロイスのような人間は、多くはないけれども、実際にいますよね」


 これに反論できる人間が、いるとは思えない。



 オトゥーリアの症状は、戦地から戻ってきた兵士によく見られるもので、これを癒やすのはとても難しい。

 だが彼女は立ち直る可能性があるだろうと、ジュリウスは感じている。


 異常な環境に自分の力で立ち向かい、一番の敵である、自らの無力感と、自分に対する怒りを最小限にできるよう、状況を打破した。やり遂げたという達成感は、それだけで回復の元となる自信につながる。



 そして今、自分が大事にしている花を守り、守られていると感じ、外の世界との繋がりを力に、微笑むオトゥーリアの表情には力があった。


 これならいつか心を持ち直すことも、あるかもしれないと感じたジュリウスは席を立つ。


 立ち去るジュリウスを、オトゥーリアはなにかを感謝するかのように、いつまでも見送っていた。


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