お説教
学院の廊下を歩いているローリーは、授業の課題で頭を一杯にしていたため、前から来る人影に気づかなかった。ローリーの婚約者オズワルドは、その腕に愛人のビジュをぶら下げたまま、わざわざ幅寄せをしてきたかと思うと、なんの加減もなくぶつかってきた。
弾き飛ばされ、少し後ろを歩いていたジュリウスに、まともにぶつかったローリーは、あわてて振り向いて謝る。ジュリウスは気にする様子もなく、構わないとでも言うような身振りをしている。それが見えていたはずなのに、オズワルドとビジュは、にやにやとした残忍な笑みを浮かべながら立ち去って行った。見ていた他の生徒たちは、気の毒そうな視線を寄越すが、同じように黙って去って行く。仕方がない。婚約者同士のいざこざに、口を挟めるわけもなかった。
ローリーは由緒正しい、アッカーソン伯爵家の一人娘で、跡継ぎという重要な立場だ。それなら縁談は降るようにあり、相手は選び放題のはずだ。オズワルドのような男は、お呼びではない。だが婚約者は、オズワルドだ。なぜそうなってしまったかというと、話は親の代まで遡る。
ローリーの父親ラダロは、同じく伯爵家の跡継ぎという立場だったにもかかわらず、極度に自己肯定感が低く、いつもおどおどしていた。そんなラダロを引っ張り回し、いいように使っていたのが、オズワルドの父親ローランド子爵だ。子爵は少し乱暴なところがあり、まわりから避けられていたが、友だちの少ないラダロには、その存在が有り難かったようだ。
子爵からするとラダロはただの使いっ走りの奴隷だったが、ラダロは親友と公言していた。そんなラダロの元に娘が生まれ、それも一人娘だったのだから、子爵が次にする事は決まっている。生まれたローリーを、自分の息子の奴隷にすることだ。ラダロにはこういえば簡単だった。「俺たち親友だろう」と。
もしローリーの母親が、これに反対するような性格だったら、なにか対策を打ったかもしれない。だが母親のモードナは、別の意味でこじらせていた。
婚約者のオズワルドが愛人を連れ歩いているのを、父親に報告したところ、ローリーはこう言われた。「男というものはそういうものだ。女はがたがた言わず、自分が本妻だとどんと構えていれば良い」と。娘から見ても社会的に未成熟な父親に、「男とは」「女とは」と説教をされて、たいへん空しい気持ちになったものだ。
おまけに同じ部屋にいた母親には、得意げにこう言われた。「あなたがなにかしたのではないの? だいたい……そんなことくらいで目を吊り上げて。もっと大人にならないと捨てられちゃうわよ」と。母親のモードナは、こんなことを本気で思っているわけではない。ただ、『娘』の母親によくいる、「娘が自分より幸せになるのが許せない」というタイプだ。
地位と財産しか取り柄のないラダロと、「不幸」な結婚をさせられたモードナは、華やかで美しいオズワルドと結婚するローリーの不幸を、心の底から願っていた。
その日、ローリーは学院の中を移動しており、次の授業のため足早に階段を登っていた。もう少しで登りかけるところで、さらに上から下りてきたオズワルドとビジュが、勢いよく踊り場を曲がってくる。ローリーの姿が目に入った二人の口元に、一瞬で嫌な笑みが浮かび、身構えたが遅かった。
自分の体に悪意のこもった強い力がかかり、堪えきれずに階段を踏み外し、転がり落ちるのを覚悟する。だがオズワルドたちと反対の方の二の腕を、力強くつかまれたと思うと、まるで引っ張り上げられるように、踊り場に立たされていることに気がついた。
オズワルドたちは大きく舌打ちすると、「運が良かったな」とチンピラのように言って、降りていく。離れた場所にいたはずのジュリウスが、助けてくれたことに気がつき彼の後を追う。見通しの良いところに立っている警護の人間の、すぐ近くまで歩き、立ち止まったジュリウスは、やっと振り向いた。
「怪我はなかったかい」
「助けてくれてありがとう。本当に命拾いしたわ」
「君も大変だね」
「……どうしようもないから」
「……」
ジュリウスが気の毒そうな表情をしたのを見て、ローリーはなんだか胸にこみ上げるものがあった。ただの同級生まで心配してくれる……それだけではなく、先ほどは危険な事が起るだろうと予知して、駆けつけてくれたのだろう。
世の中にはそんな風に優しい人が一杯いるのに、ローリーを直接囲んでいる人々は、全員がその不幸を願っている。これから先の事を思うと、頭がじんとしびれるように痛み、答えが返ってくるとは思わなかったが、助けを求めるように口から言葉がこぼれていた。
「……両親みたいに頑なな人の、考えを変えるにはどうしたらいいのかしら。皆、責任も義務もなにもかも押しつけてきて、誰も私の事を考えてくれないの」
「……」
「……」
当然返事はなく、ローリーは苦笑いを浮かべた。気持ちを切り替えるように背筋を伸す。
「さっきはありが……」
「人は痛い目に合わないと考えを変えない。だから強硬な主張を述べていた人が、自分が痛い目を見た途端に、ころりと意見を変えたりするものだ」
やるせなさそうにジュリウスは、ため息をつきつつ言った。
「……でも、よく父は『男は結婚したら変る。だから多少の浮気には目をつぶれ』というの。私にはとてもそうは思えないわ。だけどまだ起きていない、将来を持ち出されて、反論しようがないの」
「君自身に選択肢はなく、結婚はしなければならない。それならいずれ証明されるではないか。君の正しさが」
「いずれ……」
暗澹たる未来しか浮かばない道を、ローリーは両親に押しつけられ、自分の人生が終わってしまったかのようなつらい気持ちで一杯だった。だがジュリウスとの会話で、勝負をつけるのは未来でもいいことを知った。今、無理をしなくてもいいことに気がつき、気が楽になったのだ。
なにもわかっていない両親、そこにつけこむローランド子爵夫妻とオズワルド。加えてたくさんの敵に囲まれ、その環境でも努力を続けた。まずは婚約の解消。それが駄目なら婚約の条件の変更。だがまわりにどれだけ協力を仰いでも、駄目だった。
伯爵夫妻である両親に前後を挟まれ、跡継ぎの立場で逃げようがない。だからジュリウスの言葉を胸に、この婚約にかかわるあらゆることを『諦めた』のだ。そして黙って両親と、オズワルドに従った。そう、ローリーは自分の幸せを願ってくれない人々に、ただ奴隷のように従い、息を潜めていた。
◇◇◇◇◇◇
ローリーとは結婚したが、自分の好きな事しかしないオズワルドが、アッカーソン伯爵家に来る事はない。父親からずっと昔に与えられているマンションに、愛人のビジュと二人で住んでいる。一月に一度、オズワルドとの結婚生活を報告するように、父親に言われているので、毎回同じことを報告する。
「愛人のビジュ様と、マンションでお過ごしです」
すると父親は、「男とはそういうものだ」という説教を毎回始めるので、聞き流す事にしている。ついでに母親からは、「あなたに魅力が」が始まる。姑でもないのに、実の娘にここまでつらくあたるのはなんなのだろう。
だが生まれた時からこの両親に育てられているので、もう慣れていた。二人とも極度に自己肯定感が低く、そんな自信がない自分が、誰かにお説教ができる立場になったのが嬉しくてたまらないのだ。偉くなった気になれるのだろう。どうでもいいので受け流していたが、一年も経つ頃に態度ががらりと変った。使用人の報告によると、ビジュが妊娠したという。当然、オズワルドの子どもだ。
それを聞いた父親の第一声は、「でかした」だ。
馬鹿じゃなかろうか。
百歩譲ってラダロの気持ちを紐解いてやると、幼少の頃から可愛がっていた友人の息子に、子どもができて嬉しかったという事らしい。しかもまた、「男というものは」とお説教を始めた。
だがさすがに母親のモードナは首を傾げている。あまりにも遅すぎるが、そこでようやくこのままでは、次の跡継ぎが望めないと気がついたらしい。だが今までずっと娘を貶めることに躍起になっていたので、今さら持ち上げる事もできず、おろおろしている。
◇◇◇◇◇◇
オズワルドがビジュと結婚して三年…………ではなく、ローリーと結婚して三年が過ぎた頃、ようやく二人はアッカーソン伯爵家に住む事になった。放任主義のローランド子爵が、さすがにローリーに子どもができない理由、つまりは別居に激怒し、伯爵家に住むように叱責したからだ。
だがオズワルドが父親の言う事すら聞くわけもなく、とうとうマンションを解約し、強制的に引っ越しさせることになった。あの凶暴な子爵すら、手を焼くオズワルドを、伯爵家に招き入れるのは、ローリーは正直、嫌だ。だが妻として、上手くやっていかないといけない。これからが正念場だ。
「俺、朝は必ず新鮮なブドウがないと嫌だから。後、お茶は熱いのしか飲まない。ぬるい風呂も入らないからな」
ご主人様のオズワルドが命令し、奴隷のラダロがハイハイと頷いているのが、聞こえてくる。ビジュは二人の子どもを、使用人に抱えさせて部屋を見ている。丁度、良い時期だからと、子どもたちに本格的な教育を受けさせることになったそうだ。ラダロの頭の中では、親友の息子の面倒は自分が見ることになっていて、その愛人と子どもたちも含まれているようだ。
◇◇◇◇◇◇
現実がまったく見えていないアッカーソン伯爵と、それを諫められない伯爵夫人の元、ローリーとオズワルドとの結婚生活は、十年を過ぎていた。オズワルドは今や五人の子持ちだ。もちろんローリーは一人も生んでいない。
今日はオズワルドの実家、ローランド子爵家のお茶会に招かれていた。メインイベントは、姑と小姑による嫁いびりだ。外見が美しいオズワルドは、母親と姉二人、そして使用人たちに愛されている。一方、彼と結婚したローリーには、ちくちくと嫌みや皮肉が放たれていた。オズワルドと結婚したと言うだけで腹立たしく、嫁という存在にはなにをしてもいいと思っている姑たちの、嫁いびりは相当なものだ。おまけに子どもができないまま、十年が経過している。
姑たちは、今日も鬼の首を取ったようにローリーを責め立てた。その内、一人が「子どもの作り方を知らないのではないの」という、下品な発言をしたのがきっかけで、きわどい質問が浴びせられた。だから悲しそうな表情を浮かべて説明する。
「子どもの作り方なら、オズワルド様にきちんと教えて頂きました。神の前で夫婦になる事を誓った二人が、寝台で手をつないで横になったら子どもができると。私たちは毎月ちゃんと子作りをしています」
それまで賑やかだった部屋はしんと静まりかえり、嬉しそうに嫌みを繰り出していた、姑であるローランド子爵夫人も、小姑たちも、それを見ていた使用人たちも、唖然としたまま口がきけなかった。ローリーはそれを見て、不思議そうに首を傾げる。
「どうなさったのですか? お義母様」
「あなたそれって……」
オズワルドの姉の一人が、不用心に口を開きかけたのを、子爵夫人は扇で乱暴に押して黙らせた。段々とひどい顔色になった夫人は、ローリーを立たせて、部屋の外の護衛に渡す。
「ローリーを、どこか部屋で休ませてあげて」
そう言うと部屋の扉を閉め、真っ白な顔で、中にいた人々に告げた。
「今の会話は他言無用とします。もらした場合は、罰に処します。わかったわね」
人々は青い顔で頷いた。夫人は一番近くの椅子に、倒れ込むように座ると頭を抱えた。
「なんてこと……。伯爵家の跡継ぎに婿に入ったのに、その義務を十年も放棄していたなんて。取り返しがつかないわ。ローリーはもう二十九よ。どうしたら…………黙っているしかないの? でも、そんな、罪深い事……神よ」
たいていの姑は嫁が憎くて仕方がないが、普通は死んで欲しいとまでは思わないだろう。どこかにその姑なりの、限度があるものだ。ローリーに子どもが出来ない事は、嫁いびりの対象になるが、それが本人のせいでないならば、さすがに気の毒に感じる。彼女は妊娠しやすくなるお茶を取り寄せていたり、規則正しい生活や、体にいい体操をかかさず行っていた。
努力しても妊娠しないのはつらい。それは一人目の妊娠に時間がかかったり、二人目不妊で悩んだ姑も小姑も皆、理解できる。ローリーの置かれた状況があまりにも残酷で、その場にいた全員が沈黙していた。
すると扉が開き、ビジュを連れたオズワルドが入ってくる。
「帰ろうと思って。退屈だし」
愛する息子を見たローランド子爵夫人は、ローリーについた無慈悲な嘘を、この口で吐いたのかと思うと、心臓が早鐘を打つようにおかしくなり、なにも言えなくなってしまった。夫人はオズワルドのことを溺愛している。だが母親であるからして、息子の残忍で血も涙もない性質はよくわかっている。ローリーについた非情な嘘は、いかにもオズワルドが言いそうな事だ。誰もが自分に笑顔を向けるものと思っているオズワルドは、不思議そうに出て行った。
子爵夫人はその時、出て行ってくれて自分がほっとしている事に気がつき、今後、息子とどんな顔をして会えば良いのだろうと不安になった。
外に出され、一人になったローリーは、今日の話はどこまで広がるだろうと考えていた。どちらにせよ、もう二十九歳になる自分に、今から改めて子どもを生めとは言わないだろう。
そうするとアッカーソン伯爵家の遠縁を、養子に引きずり出す事になる。頭の中の候補リストには、男三人、女二人。この女二人に、今からわざわざオズワルドをあてがう可能性は、まずない。なにせどれだけアッカーソン伯爵と、ローランド子爵が騒いだところで、オズワルドは子どもを作らなかったという実績を、十年かけて残してしまったのだから。
なによりの証明はローリーの体だ。
◇◇◇◇◇◇
罪悪感に耐えかねたローランド子爵夫人の告白により、子爵は子どもができない真相を知ることとなる。性格だけでなく考え方まで乱暴な子爵は、子爵夫人と同じように、子どもができない原因をローリーだと決めつけ、きつい態度を取ってきた。だから子爵夫妻とローリーとの間には、わかりやすく距離ができてしまい、今さら謝罪や話し合いが持てる雰囲気ではない。
なによりも伯爵家を手に入れる機会だったにもかかわらず、自分の好き嫌いで子どもを作らなかった息子に、手をつけられないほど激怒した。だが子爵がアッカーソン伯爵と、その娘という二人の奴隷を幼少の頃からつけてやった結果、なにかを我慢するという考えがまったくないオズワルドは、義務による子作りの必要性を理解できず、放棄した。
アッカーソン伯爵も娘のローリーも、奴隷ではなく、せめて利用価値のある、貴重な人材だということを教えておけば、結果は違ったかもしれない。
◇◇◇◇◇◇
ここで兼ねてから想い合っていた、又従兄弟のニコラエと、ローリーは表だって手を組み、本格的に動き始めた。
親族たちの力添えの元、爵位を継ぎ、オズワルドと離婚し、養子を取って、家を本格的に建て直す事にしたのだ。
伯爵家の若い世代は、伯爵夫妻の、まるで家をローランド子爵家の、貢ぎ物に捧げるようなやり方に危機感を抱いていた。ローリーの結婚にだって、本当は反対だったが力及ばず……。しかし十年経ち、従兄弟などの親族たちが成長し、続々と力をつけてきた。今やその勢力は、無視できるものではない。
伯爵夫妻は、それぞれの思惑で、ローリーに結婚生活を続けさせようとしたが、田舎に引っ込んでいた、夫妻の両親を呼び出し、夫妻の裁量の結果、伯爵家がどんな体たらくを晒したのかを見せてやった。誠に意外な事に、伯爵も伯爵夫人も、人間関係はまるで駄目にもかかわらず、領地経営や家政は得意だ。机に向かってこつこつする作業は、二人とも得意だった。だから今まで欠点が目立たなかったが、オズワルドの件は、最初から不適格なのをわかっていたにもかかわらず、結婚を強行したという、明らかな失策だ。
自分自身の選択により伯爵夫妻は、その実権を手放す事になった。
◇◇◇◇◇◇
オズワルドとの離婚の手続きをするローリーに、父親は執拗に反対した。
「なあ、ローリー。離縁なんかしてはオズワルドが可哀想だろう」
「大丈夫です。お父様。オズワルドは愛しているビジュさんと、結婚したいそうです。だって男の人ってそういうものでしょう」
「だが伯爵家の婿ではなくなるんだよ。私は親友から彼を頼まれて」
「大丈夫です。お父様。オズワルドはビジュさんに、命を賭けたいのですって。だって男の人ってそういうものでしょう」
「だがそれでは生活が成り立たない。私は親友から……」
「大丈夫です。お父様。オズワルドは自分でなんでもしたいのです。だって男の人ってそういうものでしょう」
「だが……」
「大丈夫です。お父様。オズワルドはそういう人なのです。だって男の人ってそういうものでしょう。それに……」
ローリーは朗らかに言った。
「オズワルドのことは私のほうが、よーくわかっています。だって私は彼の妻なのですから」
「え……だが……」
「わたしは」と言いかけたラダロは、自分がオズワルドとはただの「同じ男」同士であり、「親友の息子」という間柄な「だけ」なことに気がつき、ローリーが十年かけて得た「妻」に比べて、「特別な関係」と言い張れなくなっていることに気がついた。ローリーは、戸惑っている父親を煙に巻き、両親を街中のマンションに追い出した。
◇◇◇◇◇◇
「そういうわけで、オズワルド。私たちは離婚します」
「はあ? それじゃあ、今後の生活どうするんだ」
「そうよ。私たちには子どももいるのよ。ローリー」
「私には関係ないので」
オズワルドとビジュは、なんの恥ずかしげもなく抗議している。
「ふざけるな。結婚したんだから、俺たちの面倒を見る義務があるだろう」
話の通じない一家を立ち退かせるのは、予想通り簡単にはいかなさそうだと感じた。
「あのですね。よく子どもの産めない女性が、離縁されたりするでしょう。それと同じで、私たちとの間には子どもが生まれなかったから、この場合は婿のあなたがここから去るのです」
オズワルドとビジュが、後ろめたそうな顔をした。二人は子作りの件で、自分たちにローリーが騙されたままだと思い込んでいた。まあ、そう思うように誘導したのも確かだ。そのことを、しょっちゅう、影であざ笑ってきたのに、今さら罪悪感を覚えたようだ。
「……子どもができないか、わからないじゃないか。もしかしたら、えーと、別の方法を試せばできるかもしれないぜ」
「無理です」
「試してみないとわからないじゃないか。ローリー」
「絶対にあり得ません。だって十年ですよ。ビジュさんには五人もいて、私はいない。十年間できなかったのに、あり得ないでしょう。そんなこと。神を欺くような、不正をしていたのでもない限り」
オズワルドとビジュは、さっと下を向いた。二人はこう見えて案外、信心深い。そこをちくちくと刺激すると、意外に思いどおりに動くのだ。手のひらの上で踊る二人を見て、ローリーは万が一にでも、口元がにやつかないよう、さりげなく手で押さえた。
「それではここに署名を」
「待って、ローリー。追い出されたら私と子どもたちは、どうしたらいいの。ローランド子爵家からは、絶縁されてしまったのよ」
そんなのは当たり前だ。伯爵家と縁をつなぐのが目的だったのに、なにもしていなかったのだから。なにがあっても奴隷伯爵が、面倒を見てくれると思ったのだろう。粘りそうな二人に、さりげなくもう一枚の書類をローリーは出した。
「年金を支給してあげてもいいですよ。すぐに離縁届に署名するのなら」
「これっぽっちかよ。これじゃあ、家も借りられないじゃないか」
額に文句をつけながらも、ちゃっかりと書類を確保する。ひどい不義理を働いて、離婚する相手からの、本来は貰えるはずもない年金の額に文句をつけるとは、その図々しさがうらやましいくらいだ。話を進めるために、最後にとっておきの情報を提示した。
「ここ伯爵家の居心地は悪いでしょう。離婚する以上、味方は一人もいませんからね。おまけにローランド子爵家からも絶縁されてしまった。……ところで、あなたの奴隷……いえ、元アッカーソン伯爵夫妻、今は街中の高級マンションに暮らしているんです。広くて、眺めが良くて、質の良い使用人がいます。そこの住所を教えて差し上げましょう。家賃光熱費食費からなにからなにまで無料で、きっとお小遣いまでむしり取れ……もらえますよ。それに……乳母もついています」
二人はただちに署名すると、風のように去って行った。
ローリーは、オズワルドもビジュも嫌いだ。ひどい目に遭って欲しいと思っている。だが二人にこの一件の責任があるとは、実は思っていない。たとえどんな理由があろうと、アッカーソン伯爵は、将来を考えてきちんとした婚約者を、用意する義務があった。伯爵夫人には、それを補佐する義務がある。夫妻が己の責任を果たしていれば、問題は起こらなかったはずだ。それを放棄した以上、二人にはけじめをつけてもらうつもりだ。
◇◇◇◇◇◇
自分の人生を、ローリーは粛々と立て直していったが……。
実力ですべてを取り戻したが、この騒動のせいで、たった一つだけ叶わなかった願いがある。それは自分の子どもを持つ事だ。そのことが少し、いや大分つらかったが…………。そう思っていたら、ほんの一年後に出産する事になった。
長かった忍耐生活も終わり、ずっと陰で支えてくれたニコラエと再婚することになり、ただそれだけの変化だと思い送る、打って変わった穏やかな日々。爵位は継いだものの、ただの年増女であり、中継ぎである自分の身には、なにも起こらないと頭から思い込んでいた。だから妊娠した時には信じられず、洗面器を抱えて吐きながら号泣してしまい、危うく窒息死するところだった。
ここまでくるにあたり、わかってはいたけれども、オズワルドとの結婚生活は大変だったし、いると便利なこともあるから、別に心身をすり減らしてまで、離縁手続きをしなくてもいいかと、投げやりに思ったこともある。同じように、現在の夫とは、今さら再婚なんてしなくてもとも思った。
子どもができた時は、この年齢で初産に挑むのかと思い、恐怖ばかり先に立ち眠れなかった事もある。なにより自分の人生は、時間の無駄だと感じられ、今後の人々のために使い捨てられる運命なのであり、しかし世襲とは「そういうもの」なのだから、耐えるしかない。そう自分で自分に言い聞かせ、歯を食いしばってじっと耐えてきた。
でも子どもが無事に生まれ、ぐったりしているローリーを差し置いて、やかましいくらいに元気に有り難くも泣き喚いているのを見た時、無駄だと思った一つ一つの事を、積み重ねてきて良かったと心の底から感じた。空しく思えた一歩一歩が、自分の人生を作ってきたのだと感じられたからだ。
オズワルドとビジュ、その子どもたちを、両親のマンションに送り出し、ローリーは清々とした気分で暮らしていた。
今になって思い出す、父親の「男とは」「女とは」という説教は、所詮はオズワルドの面倒を自分が見ないところから来ている。より正確には、オズワルドによって自分が痛い目を見ないから、というべきか。母親の説教も同じだ。だから四人に一緒に住んでもらい、お互いに面倒を見てもらう事にした。ローリーはそこから、いちぬけだ。馬鹿馬鹿しいことには、もう関わり合いになりたくない。
人に説教をするほど、オズワルドのようなクズを一族の一員にしようという、その考えに自信があるのでしょう? だったら見本を見せてもらおうではないか。
◇◇◇◇◇◇
マンションではラダロが一生懸命、オズワルドに道理を説いていた。
「オズワルド。お金の使い方をもう少し勉強しないと。私はもう無尽蔵に使えるわけではないんだ」
「じゃあ、どうしろっていうんだ。これっぽっちの小遣いで、なにもできやしない。なあ、あんた荘園を三つ持ってるんだろう。それ一個売ろうぜ」
「そんなことをしたら、あっという間に財産がなくなってしまう」
「なんだよ。それ。俺の子どもたちに飢え死にしろっていうのか」
「そんなつもりは」
ラダロは親友の息子を導くのが自分の使命と思い、真摯に説き伏せていた。だがオズワルドとビジュの機嫌は悪くなるばかりで、家の中は荒れていく。妻のモードナは寝込んでしまっている。なにがいけないのだろう。二人はまるで、奴隷にするようなひどい態度を取るのだ。
そしてちょっと目を離した隙に、土地の権利書を勝手に抵当に入れて現金化していた。さすがに怒って抗議すると、まるでラダロのほうが悪いかのように、ひどく責められ、挙げ句に殴られたのだ。その上、オズワルドは、怯えて震えているラダロに説教を始めた。
「あのさあ。温厚な俺でも、そう意地を張られると、痛い目見せる事もあるよ。少しは反省して欲しいな。あんたはさあ、ただ金を出せば良いの。余分な事は言わなくていいから。俺たちの関係ってさあ、『そういうもの』でしょ」
つまりは『奴隷とは』という説教を始めたのだ。
三十年近く目の前で隠しもせず、さらけ出してきたオズワルドの真の姿を、初めて『見た』ラダロは、今まで自分が見ていたものの意味を、まるで取り違えていることに気がついた。暴力への恐怖と共に、心のどこかでローリーに、「知っているなら教えてくれれば良かったのに」と思っている自分がいる。
彼女が何度も報告していた、「暴力的で残忍。享楽的で浪費家」というのを、何十年間も「男とは」「そういうもの」という説教で肯定してきた。
ラダロにとって大事な事は、ローリーにお説教する、その快い中毒じみた時間であり、内容なんてどうでも良いからだ。問題の報告がたくさん上がり、説教ができればできるほど、偉くなったようで都合が良かった。だからたくさん問題を抱えている深刻な状況だということを、どうでもいいと受け流してしまった。
だってラダロは、それで痛い目を見る事はないのだから。
親友の息子の面倒を見る事で、自分がまるで一人前のように偉くなった気がしていた。人から頼られているのだ。さらにその息子に嫁を世話してやる。なんと立派な事だろう。だからローリーを差し出す事に、何の疑問も持たなかったし、それを嫌がり、オズワルドの不満を言う娘を、未熟な人間だと思っていた。思いやり深くなるよう、導いてやらないといけないと。
だが、今、現実に立ち返ってみると、自分が何十年も「お説教」に中毒になり、現実をおろそかにした結果、怪物を招いてしまったことに、ようやく気がついた。
ローランド子爵家と絶縁され、アッカーソン伯爵家からも縁を切られたオズワルド。てこでもこの家から出る気はなく、生活水準を落とす気もない。そうなったら誰が犠牲になるのか……。平気で暴力を振るうオズワルドを家の中に招き、ここまで餌付けしたのは、他の誰でもないラダロ自身だった。




