ご自由にどうぞ
王立学院にある立派な図書館の中で、ユージーンはひっそりと本を読んでいた。
北側に大きく作られた窓からは、中庭の噴水がよく見え、水しぶきに光が明るくきらめく様子と、館内の暗くて寒気すら感じさせる涼しさが対照的だ。辺りを見回すと、利用している学生たちの姿が見えるのに、中は別世界のように静かだった。話し声が聞こえなくてほっとする。
そう、ユージーンは人々のおしゃべりが苦手だ。
ユージーンはハサウェイ男爵家に残された、ただ一人の息子だ。
両親は彼が五歳の頃に亡くなった。領地から王都に戻ってくる途中に馬車に落石があり、二人とも亡くなったのだ。この事故自体に事件性はなく、速やかに処理がなされた。
問題は、後に残されたのがまだ子どものユージーンであることと、その後見人になった叔父であり家令でもあるグランドが、爵位に執着を見せた事だ。
叔父は、領地経営や、財産管理に口を出し、あっという間に男爵家を事実上、支配した。後で知ったが幼少の頃から並々ならぬ熱意があり、隙あらば爵位を継ごうと狙っていたらしい。
あらゆる仕事に口を出し、自分で管理するようになった。領地でも、まるで自分が男爵であるかのように誤解を与えるよう振る舞い、領民も信じるようになった。
当然、ユージーンに将来の男爵として、なにかを教える事なんてない。むしろ消えて欲しいのだ。そして自分の息子であるニコラスに、ハサウェイ男爵家のすべてを教え込んだ。家の中では……いや、外でも中でも、実質上の男爵は叔父であり、跡継ぎはニコラス。ユージーンはまるで居候のような扱いで、小さくなって暮らしていた。
そんなユージーンにある日、縁談が持ち込まれた。相手は隣の領地の少女で、別にそれによる利益があるわけではない。ご近所付き合いの延長上のようなものだ。だがこういった地味な付き合いも、長い目で見ると大事なもので、ユージーンは別になにも思わず受け付けた。だがそれが思わぬ問題に発展したのだ。
叔父の息子ニコラスは、生まれたときから特別な存在として育てられた。叔父の頭の中では、男爵家のすべてを把握し、思いどおりにしている自分が、『男爵、のようなもの』ということになっており、ニコラスはその跡継ぎとして育てられた。いずれ彼も『男爵、のようなもの』を引き継ぐべく、領地経営や財産管理をたたき込まれている。
だがここで、事実を教えられれば教えられるほど、本当は男爵ではないということを、目の当たりにしなければならない。
こんな時、叔父とニコラスの心を慰めるのは、「本来は優秀な自分たちのほうが男爵に相応しいのに、血筋が良いだけのユージーンが汚い手で奪い取ったのだ」という考えだ。
これを短くまとめると、『ずるい』になる。
ハサウェイ男爵家の支配者の、跡継ぎ息子である自分に、最初に縁談が来るべきであって、なぜユージーンなんかにと、ニコラスが騒いだのだ。見下してせせら笑っていたユージーンが、社会的には上だったという事実を突きつけられて、顔を真っ赤にして憤りを隠さなかった。
これはなにか起きそうだと思い、ユージーンは相手の令嬢ガーナとの面会は、家の外で行っていた。だが学院の高等科にユージーンと、ガーナ、そしてニコラスの三人が入学すると、事態は一変する。ニコラスはガーナに強引に迫り、甘い言葉を囁き、財力と権力を駆使して、まるでお姫様のように扱い口説き落としたのだ。
ガーナの領地は少し田舎にあり、同世代の人間はあまり多くない。華やかな王都で、芝居のようなできごとが起きれば、なびいてしまうのもおかしなことではない。婚約者を変えたいという最終的なガーナの希望に対して、父親はこう確認した。
この婚約はハサウェイ男爵家との縁をつなぐものだから、ユージーンとニコラスのどちらでも構わない。だが、将来はどんな変化があるかわからない。自分たちの子どものことまで考えて、人生設計をしないといけないんだよ、と。
父親は、爵位を継承するのはユージーンであり、例え今は飛ぶ鳥を落とす勢いがあっても、ニコラスは所詮は使用人だと説明したつもりだ。
ところが、権力と財力を見せつけられたガーナは、舞い上がってしまいそれが頭に入らなかった。
その日から、ニコラスは見せつけるようにガーナを連れ歩き、ガーナもつられてユージーンを見下すようになったのだ。ユージーンは、元婚約者と、家令の息子にあざ笑われるようになった。つねに目立たないよう小さくなり、なんでもやり過ごしていたユージーンにもこれはきつかった。
教室で誰かが笑っていると、自分が笑われているのかと不安になり、おしゃべりの声がうるさいと、自分の話題かもと不安になる。最近では静かな図書館に通うようになり、自分でも疲れているのがわかる。
今の希望は成人年齢の十八歳を忍耐強く待ち、家を取り戻すことだが、それだってどうなることやら。あの叔父とニコラスが、手をこまねいてそれを見ているとも思えなかった。
ユージーンのこのみじめな境遇は、学院内でかなりの話題になった。
それは気の毒な事であったが、同時に注目を集めたということだ。しばらくしてユージーンに対して、ガーナとはまた別の隣の領地から婚約の申し込みがあった。お相手はドーン子爵令嬢の長女ステラだ。
ステラはユージーンが卑屈に感じるほど聡明で、頭の回転が早かった。だがはきはき物を言う割には押しつけがましいところがなく、ユージーンの話を見せかけだけではなく、きちんと聞いてくれるところが安心できる。
この婚約に望んでいる事を尋ねて、返ってきた答えからすると苦労人なようだ。だが個性的な発言がつぼにはまり、なんだか話していておもしろくなってきてしまい、全面的に協力する事にした。
◇◇◇◇◇◇
婚約者を奪ってやり、完全にユージーンを見下す事ができたと思っていたニコラスは、新しい縁談がすぐにきたこと、それも男爵家よりも上の子爵家である事を知って絶句した。
爵位を笠に着た卑劣なユージーンのやり口に、頭の中が真っ赤になり、部屋のものを滅茶苦茶に破壊し、金切り声を上げて怒りを表現する。ユージーンはその育ちもあって、感情表現が苦手な方だ。だから血が近い従兄弟にもかかわらず、そこまで怒り狂う姿にさっぱり共感できず、ただただ家の中でも外でも距離をとっていた。
だがニコラスのほうは、早速、ステラに近づいてきた。翌日、自分の四クラスから、ステラとユージーンのいる三クラスに入ってくると、話しかけてくる。
「こんにちは。ステラさん。僕はハサウェイ男爵家のニコラスです。初めまして」
「……」
ステラはちらりと見た後、ユージーンに目をやった。どう対応するか決めて欲しいようだ。少なくとも自分からは、関わり合いになる気はないらしい。そして一度、婚約者を取られたユージーンが、話しかけるのを許す気はなかった。
「ニコラス。遠慮してくれないか」
ユージーンがそう告げると、ニコラスはあからさまにむっとして無視した。
「ステラさん。ユージーンみたいな奴放っておいて、僕とおしゃべりしませんか。向こうに素敵なお菓子を用意していますし、贈り物もあります」
「……」
「ニコラス。遠慮するように」
教室の中は、ぴりぴりした雰囲気になった。誰かが廊下で警備している騎士に相談したらしく、中に入ってくる。様子を伺っているようだ。
ステラやまわりに、自分をよく見せようとニコラスは身だしなみを整え、好印象を与えるように振る舞っている。それそのものは上手く行っている。だがだからこそ、強烈にちぐはぐとした印象を残していた。
ニコラスやその父親がどれだけ、「自分たちが男爵家を支配している」と思い込んでいても、世間ではただの使用人だ。ユージーンとガーナの婚約を、解消させることは上手く行ったが、それはガーナの父親がそれでもいいと許可したに過ぎない。
そして最大の勘違いは、なぜかニコラスは、「自分には選ぶ権利があると思っている」という点だ。だから、ガーナの次はステラに話しかけているが、たかが一平民が何様のつもりなのだろう。男爵令嬢のガーナに選んでもらい、自分の幸運を感謝する立場にもかかわらず、子爵令嬢のステラにまで手を伸ばしているのだ。
まるで自分の事を、本物の男爵令息とでも思っているかのようだ。
そういったことがうっすらと透けて見えてしまい、同級生たちは強い違和感を覚え背筋が寒く感じた。そしてそれを咎めるのは、本来ユージーンの役割だが、まったく言う事を聞く気のないニコラスを前に下手を打って、「無能」の烙印を押されそうで青くなっている。しかし他に選択肢もなく、騎士に合図をすると、ニコラスを連れ出してもらった。
◇◇◇◇◇◇
ユージーンの叔父グランドは、まるで男爵のように振る舞っているが、まわりにそう思ってもらいたいのであって、さすがに本気で思い込んでいるわけではない。
だがニコラスは、ちょっと危なっかしかった。
学院から警告を受けたグランドは、ニコラスにステラに近づかない事と、ガーナを大切にする事を厳しく戒めたが、大人しく従わず口論になった。
彼がここまで無謀な事をするのには理由がある。長い間、グランドは、ユージーンは自分たちより下の存在であると、ニコラスに教え込んできた。だからユージーンの縁談相手であるガーナも、ステラも、自分より下なのだと、ニコラスは無意識に思ってしまっている。そこへグランドが、「そんなつもりはなかった。自分はユージーンを見下せと言っただけで、その縁談相手までは含まない」と言ったところで意味はない。なぜなら、縁談相手がニコラスより上なら、その相手と結婚するユージーンも、ニコラスより上になってしまう。そんなことを認めろと言われたら、発狂するだろう。
要するに、グランドのユージーンを見下す心は、「そうであったらいいな」という夢物語に過ぎないが、ニコラスはそれを本気にしてしまったのだ。ステラに近づくなと言われて、涙目で抗議するニコラスに胸をつかれたグランドは、自分の部屋で考え込んだ。
もうすぐユージーンは十八歳になり、名実ともにハサウェイ男爵家を継ぐ。今はグランドの自由になっている領地経営も、財産の管理もすべて奪われてしまう。もちろんあれこれ理由をつけて手渡すつもりはないし、仕事も教えてないのだからなにもできないだろう。なにもできないただの若造なんかに、自分が築いてきた輝かしい実績を渡すものか。グランドは死ぬ気になって、抵抗するつもりだ。
だが。
『この家は僕のものだって、父さんは言ってたじゃないか』
ニコラスの叫びが頭の中でこだまする。グランドは確かに昔、言った。正確には、
『このハサウェイ男爵家は、ニコラスのものだと言っても過言ではない』だ。
グランドが囁いた夢を、本物だと信じ込んでしまった息子ニコラスに、なんと言ったら良いかわからなかった。そこで彼は今までのように、このまま誠心誠意努力し続ける道を選んだ。つまりは、現実から目をそらして、目の前の事に夢中になる事で、なにかをやっている気になり、自分の心を慰める道を選んだのだ。
なにをしたところで、貴族位は手に入らないという現実を、直視することもしなかったし、自分たちは貴族ではなく、ただの縁者だということも認めなかった。幸せな夢の中に逃げ込み、そこで人生を終える事にしたということだ。
一方、ユージーンも学院における、ニコラスの処遇に迷っていた。これ以上問題を起こしたら処分しないといけない。そしてそれはユージーンの、ハサウェイ男爵家の失態になる。できればなにもしたくない。だから翌日、ステラに話しかける機会を廊下から伺っている、ニコラスを見かけたとき、こんなことを言った。
「ステラ。一年ほど休学して、早めの新婚旅行にでも参りませんか」
一瞬考えた後、ステラはにっこりと笑った。二学年になったばかりだが、二人は揃って休学し、まずはステラの家の別荘で、のんびりすることにしたのだ。
実はユージーンは、ずっと前から感じていた。
ハサウェイ男爵家に、自分は必要ないのではないかと。
自分がいなくても、ほぼあらゆることを、叔父のグランドが回してくれる。むしろいると邪魔にされるくらいだ。一方、爵位というものはどうやっても奪えない。グランドやニコラスがなにをしようと、ユージーンのものだ。それならグランドとニコラスの顔色を窺い、窮屈に生きるのをやめて、自由に過ごそうと思うようになったのだ。
少し前までは、十八歳になったら、グランドにもニコラスにも、家の仕事からは退いてもらうつもりだった。二人の死に物狂いの抵抗を予想すると、おそらく手間がかかり苦労ばかりの、しんどい作業になっただろう。だが今ではやってくれるというのなら、やってもらおうかなと思っている。
なにせユージーンはなにもしなくても、男爵位だが、二人には他になにもないのだ。自分たちが、男爵家の重要人物と吹聴できるものが。
ステラと初めて会ったときに、元気なく、こう言われたのがきっかけだった。
「こんな風に思っては、いけないのはわかっています。でも先ほど申し上げた理由で、働かなくてもいい、ユージーンさんのご身分がうらやましくて」と。
これは誰が聞いても、嫌みに聞こえるだろう。だがステラは本気だった。そしてその前に聞かされたステラの半生から、心情はくみ取れた。
ステラの父親には、母親亡き後、引き込んだ愛人がいて、愛人の連れ子との四人家族だ。そして父親は愛人と、母親似の連れ子を溺愛していて、なんでも与えてしまうという。最終的には財産も爵位も欲しいと言う、連れ子にすべてを与える算段をしており、跡継ぎとして厳しく育てられたステラは年頃になって、突如、用なしにされたのだ。
父親に課せられた課題を黙々とこなし、寝る間も惜しみ、友人づきあいも制限し、何の楽しみもなく、家にも領地にも尽くす日々。だが己の義務を果たすため、父親の期待に応えるためと、自分に言い聞かせていたら、連れ子の「ずるい」「ちょうだい」で、すべてが無に帰した。
しばらくなにをしたらいいかも、わからなかった。取りあえず休もうにも、損な性分で、「休み方」がわからないのだ。
そんな時に、ユージーンが婚約を解消された話を聞いて、心底思った。なにもしなくていい身分だなんて、「いいなあ」と。
もちろん気の毒な境遇だ。それをうらやましいと思うなんて、ゆがんでいる。そんなのは頭ではわかっている。だがその時のステラは、精神が疲れ切ってしまい、ユージーンの家の使用人が、実質上の家の乗っ取りを企んで、やるべきことをすべて取り上げた話や、毎日やる事がないという話を聞いて、「いっそ自分もそうなりたい」と思った。
ステラはもう、がんばりたくなかった。いや、がんばれなかった。もうなにも考えたくなかったのだ。だがそうは言っても、本来の勤勉なステラも、消える事はない。だからユージーンに、自分をこう売り込んだ。
「ご一緒に余暇を楽しめる婚約者は、入り用ではありませんか。この婚約者は優れもので、働かなければいけなくなったときに、子爵家を継げるほどの能力を発揮しますわ」
それを聞いてユージーンは思った。
やるべき事を取り上げられている「今」を、「余暇」と「楽しむ」という考え方もあるのかと。
ステラは独特な発想をする女性で、話す度にユージーンは目からうろこが落ち、心に余裕が出てきた。以前はもっと視野が狭いところがあったと思う。だが今はなんでも楽しむ余裕が出来たようだ。二人はたちまち意気投合し、いつも一緒に過ごすようになり、待てずに在学中に結婚し、今では四人の子持ちだ。
そして、あれからいろいろあった。
ニコラスの一番派手な失敗は、狩猟祭でのものだ。
ハサウェイ男爵領は、その土地柄、毎秋、大きな狩猟祭が開かれる。近隣の領地の領主一家を招待して行われる鹿狩りだ。このあたりの丸々と肥え太った鹿は評判で、時々出没する猪がスリルをかき立ててくれる。毎年主催してきたグランドの手腕は見事なものだった。もちろんお飾りな上に、子どもだったユージーンの出番は当時はまずない。それは招待客だってわかっていた。
ところがユージーンが十八歳になり、名実ともに男爵位となったあとも、それは続けられた。ユージーンの出番が一切ない狩猟祭。領地における狩猟の権利は、ユージーンのものなのに、ユージーンのいない狩猟祭。
招待客はさすがに苦言を呈した。やり過ぎだと。これは違反ではないのかと。今からでも出席してもらうべきだと。だが接客したニコラスは、聞き流した。大したことではないからと。「違反では」という問いに、「大げさな」と。そして「ユージーンの出席」を要請する声に、最初は受け流していたものの、だんだんと苛立ちを募らせ、終いには、「あんな奴は必要ありません」と声を荒げたのだ。
狩猟祭には、「近隣の領地の領主一家を招待」している。
つまりハサウェイ男爵家に近接している地の、貴族であるお偉い方々を大勢招いた席で、「貴族を軽んじ」「貴族の権利を侵害し」「貴族を否定」したのだ。
昨年まで同じことをしていたのに、なぜ今年から怒られるのか、ニコラスには違いがわからなかったようだ。そんな危険分子が主催した祭りに、誰が参加したいだろうか。大勢の人々がその場で去り、狩猟祭が当日になって中止になったと、大スキャンダルに発展した。
実務をすべて握りこんでいたグランドとニコラスは、どこにも責任を押しつけるわけにもいかない。そしてプライドの高い二人は、それでもハサウェイ男爵家にかかわる、すべてのことを手放す気になれなかった。
二人はその後も、貴族に憧れるあまり、貴族制度を軽んじるという失敗を繰り返した。
もし二人が貴族であったなら……。だが彼らはなにものでもない。だから一度でもつかんだ利権を手離してしまえば、二度と取り戻せない。だからどんなにつらくても、ひたすらしがみつく以外に、維持する方法はなかった。
◇◇◇◇◇◇
その日、ユージーンはハサウェイ男爵家に立ち寄った。
王都の北西にある古い噴水が修復され、そこを囲むように新しく近代的なビルが建てられた。午前中には落成式が行われ、来賓として招かれていたのだ。ユージーンの座った一番眺めのいい席から、華やかなパレードを見物した。雨が降りそうな曇り空で心配だったが、なんとか天気はもってくれた。
式典では下にも置かぬ扱いを受け、へりくだった人々から次々に挨拶された。いつものことだったので、それを適当に受け流す。そのせいか少しばかり賑やかな気分のまま、式典で使ったローブを置きに、男爵家に立ち寄ったのだった。
強い雨垂れの音で顔を上げ窓の外を見ると、明るく晴れ間が見え、雲のすき間から神々しい日の光がさす中、日光を反射した、それは、それは美しい雨が降っているのを目にした。雨粒の一つ一つがきらめき、まるで宝石のようだ。そしてその雨が弱くなったと思ったら、奇跡のような虹の橋がかけられたのを目にした。まるで神の御業のようで、その美しい光景を、味わうように眺めていた。
そして家で待つステラの元に戻ろうとして、グランドの執務室の前を通りかかった。グランドとニコラスは机にかじりついたまま、目の下にクマを作っている。何日も寝ていないのか、襟元は汚れており、髪も服も乱れている。
納税期とはいえ、あまりにもだらしない姿に、ユージーンはぎょっとして、じろじろと見てしまった。だが向こうは気がつかない。まわりに目をやる暇もないほど、忙しいようだ。
二人のあまりにも気の毒な姿を見て、来期は少し給料を上げてやってもいいかもしれないと、憐れみから思いながら、ステラとの住まいに戻った。
「ただいま。ステラ。さっきとても素敵な虹…………」
「おかえりなさい。ユージーン。聞いて。さっきとても素晴らしい光景を見たの。きらめく雨粒に、虹が架かって」
ステラはいかに素晴らしかったかを、ユージーンに伝えようと、一つ一つ言葉を丁寧に選び説明し、最後にこうしめくくった。
「あなたにも見せたかったわ」と。
ユージーンはくすくすと笑いながら、ステラを引き寄せ抱きしめた。
「私もまったく同じことを思ったよ」




