二年間の休暇
無法者の街に新顔がやってきたという噂は、瞬く間に広がった。
どちらも若く、片方は少年と言っても良かったのが興味を引いたようだ。罪人たちで構成される無法者集団には、年齢層に偏りがあり、若い者は圧倒的に少なく、多くは年配だ。少年がこんな街に流れ着くとは、どんな凶悪犯なんだろうと話題になった。この街のボスと縁でもあるのか、顔つなぎをしろと要求し、今では客人としてもてなされているという。
「何者なんだ。そいつら」
「しっ。あれだ。あの二人だ」
おしゃべりをしていた男たちが、おそるおそる見ると、まるで学生のように若い二人が歩いてくるところだった。なにが目的なのか、彼らは巡回でもするように毎日、街を歩き回っていた。確かに一見、ただの青二才だが、彼らに手を出そうとするものはいない。立ち居振る舞いを見れば、荒事に慣れているのは丸わかりだったからだ。
そんな二人に声をかけた二人組がいた。
「申し、お二方。少しよろしいかな」
「はい。なんでしょう」
「某は、アンドレイと申す者。こちらはレオニード。ラザレフ家次期ご当主エーリック様にお仕えしておる。不躾と思われるだろうが、我が君が少し退屈しておってな。外から来たうぬらの土産話を聞かせもらえないだろうか。もちろん褒美は取らす故。頼む」
アンドレイもレオニードも、元は良いものだったのだろう、揃いの上着を身につけているが、洗いざらしだ。それでいて履いている靴は真新しく、手に入れるのが容易なものには不自由していなさそうだ。
くたびれた上着でも、身だしなみを丁寧に整え、背筋を伸している姿は、落ちぶれてもなお主君への忠誠を失わぬ者の矜持があった。
「私どもで貴き方の無聊を、お慰めすることができるのでしたら、是非に」
そう答えた青年の名はジュリウス。共にいた少年の名はマックスと言った。
◇◇◇◇◇◇
ラザレフ伯爵領から、人質救出の件でもめているとの報告があったのは、二年前のことだ。
次期当主になる跡継ぎのエーリックが領内を移動中に、対立しているスーミン子爵領に誘拐されたとの訴えがあった。
当時行われた調査は難航した。なぜなら二つの領は、条約や契約などで衝突が続き、不安定な国境線が近いこともあり、一触即発の状態だったからだ。なにか少しでも手違いがあれば、全面戦争になりそうな場所で、落ち着いて調査などできない。
またスーミン子爵は、誘拐事件に心当たりがないと公式に発言しており、そこで正面切って疑いをかけるような行動は取れなかった。
最もそんなことを言いつつも、エーリックの居場所自体は最初から判明していた。場所はラザレフ伯爵領との衝突から、スーミン子爵領にできつつある無法者の街、自由横丁だ。戦争が起きたら真っ先に犠牲になる地域の、捨てられた古い炭鉱街にいつしか人々は住み着き街を作っていった。犯罪者もいれば、移民もいる。一番、多いのは思想犯だ。
折しも革命が立て続けに起きているご時世で、国境に近い自由な地とくれば、この上ない。ラザレフ伯爵が、新しもの好きの割には、古い価値観の領民が多いことも影響した。旧弊な土地に嫌気がさして、ラザレフ領からも逃げ込んでくる者が多かった。人が集まれば、そこでは金が動く。目をつけたマフィアが商売を始め、あっという間に一大都市へと成長した。当然、スーミン子爵のあずかり知らぬ所でだ。
そして誘拐されたエーリックはその街に連れて行かれた。ラザレフ伯爵は何度も抗議をしたが、スーミン子爵は「知らない」の一点張りだ。無法者の街に、公の手は出せず、エーリックの問題は放置された。
◇◇◇◇◇◇
「失礼します」
ジュリウスとマックスは、街の中でもかなり立派な館に招待された。部屋の入り口で微笑んでいるが、隙のない目をしたアンドレイに剣を預けると、中にはエーリックと思われる若君が待っている。きちんと座っているが、瞳は期待に輝いていて、特に年の近いマックスを見て嬉しそうな顔になった。だがその椅子にカバーがかかっているのを見ると、穴でも空いているのだろう。家具などを揃えるのはさすがに難しいようだ。
「わらわはエーリック。ラザレフ伯爵の世継ぎだ。退屈しておってな。そちらと話がしたかったのだ。年はいくつだ?」
「私はジュリウスと申します。十八です」
「マックスと申します。今年で十五です」
それを聞いてエーリックの顔が輝いた。
「わらわは十四だ。そちより一つ下だな。なにをしてここに逃げてきたのだ?」
そのほうが良いかと思い、ジュリウスは話す役目をマックスに委ねた。この街では十代の人間は数えるほどしかいない。主人の喜ぶ顔を見て、控えているアンドレイや、レオニード、そして乳母と思われる女性たち大勢が嬉しそうにしているのが目に入った。
ジュリウスたちは革命に参加し、思想犯として追われてきたということになっている。だがエーリックや近臣の信頼を得るのが、任務の目的のため、ここにきたきっかけ以外のことは、事実を話すように心がけていた。話題はこれまでの生い立ちから、世の中の動向、王都で流行っているものなど、多岐にわたり、大いに彼の好奇心を満たしたようだ。
始めは立って話していたが、その内、椅子を勧められ、終いにはまるで客人をもてなすかのように、お茶を出された。この街では食べ物が豊富に手に入るらしく、香り高い茶葉に、こってりとしたミルク。砂糖も、塩も、バターまでたっぷりの茶菓子を出される。
エーリックの乳母が即席で作ってくれたという割には、質の良い食材で、普段から食事が充実しているであろう事が伺える。それにもかかわらず、共に出された茶器は、少し安価なもので、こういった工芸品は手に入りにくい、この街のバランスの悪さが見て取れた。
「今日は誠に助かり申した。若様があんなに嬉しそうになさるのは久方ぶりで」
思わぬ成果にアンドレイは手放しで喜び、後ろで見ているレオニードも爽やかな笑顔を浮かべている。
「お役に立てて光栄です」
「またいつでもお声をおかけ下さい」
「ではお言葉に甘えて、明日もよろしいですかな」
「是非に」
礼儀正しく二人を根城にまで送ろうかアンドレイは迷っていたが、途中で申し訳なさそうに切り出した。
「我が君は貴きお方。万が一を考え、お側近くを離れないようにしたく………」
「護衛の者は十分な数がついているのだが、アンドレイは若様のこととなると心配性で。風邪を召した時など、乳母よりも心配して……」
「お主が楽観的すぎるのだ。いつ、誰が、どんな風に狙っているかわからぬのだぞ」
困ったように笑うレオニードを、アンドレイはまるで叱るように言った。
「こちらのことはどうぞお構いなく」
「すみませぬ。ではまた明日」
マフィアの根城に戻ったジュリウスは、世話役に声をかけた。目標と接触することができて、思いのほか好感触だったことを考えると、もう少し強引に距離を縮めてもいいかもしれないと思ったからだ。
「知り合いになった貴人に食べ物の贈り物をしたいのだが、なにか適当なものはあるかな?」
「貴人に……。ワインやチーズ、ハムなどいかがでしょう。旦那」
「ジュリウス殿。向こうは毒殺を警戒している可能性があります」
マックスの忠告にうなり声を上げた。そうすると贈り物の選定が急に面倒なことになる。
「食べ物が難しいなら、生き物はいかがですか」
「そうだな。マックス」
「それでしたら、旦那。鶏や羊はどうですか」
「手に入るかい」
「金さえ払ってくれれば、なんでも」
翌日、羊一頭と、鶏三羽を連れて訪問した所、レオニードと乳母のマリアに大歓迎を受けた。その日の帰り、笑顔だが殺気を浮かべたアンドレイとレオニードに囲まれる。
「ジュリウス、マックス。そちらは誰の差し金で来ておるのだ。腹を割って話そうではないか」
「国です」
ラザレフ伯爵でも、スーミン子爵でもない答えに、アンドレイはしばらく返事ができなかった。二つの領の衝突を、国境線を守備している陸軍は強く懸念している。国に奏上し、救出計画が立てられ、軍閥のボウエン伯爵家が人手を出した。
「…………国? なぜ国が関わってくるのだ?」
「それほどおかしなことではないと思います。この事態を放っておけばこの地は長く荒れるでしょう。それでは国境の防衛に影響が出ます。今現在でも、エーリック様を奪還するために、ラザレフ伯爵が動きを見せている。そして敵対しているスーミン子爵が、領地への侵入を許すはずありません」
「…………」
「時機が来たのだと思います」
その言葉に二人はぎょっとしたように顔を上げた。
「お二方はそう思われませんか?」
◇◇◇◇◇◇
二週間後、建物の屋上で待機していたジュリウスは、舞い降りてきた鷹の足にくくりつけられていた連絡文を読むと、予め決められた形に折って返した。
「どうでしたか?」
「伯爵領が動き出すそうだ。我々の方は明日、早朝」
根城を引き上げ、エーリックの元へ向かう。全員の前で身分を明かし、伯爵領の動きを報告し、明日の早朝、ここを脱出すると告げると動揺が広がった。安全な場所から出て行くのは勇気が要ることだろう。アンドレイが固い表情で前に進み出た。
「ジュリウス。スーミン卿が用意して下さった安全地帯から出ろというのか。素性も知れないうぬらを信用して」
「これは国からの委任状です。エーリック様なら重要性がわかるはず」
「だが」
言い争っているとエーリックが立ち上がり、歩いてくる。
「お待ちください。この者は危険です」
「ジュリウス。書状を見せてくれ」
目を通したエーリックは長く考え込んだ後、顔を上げた。
「ここを出る。ジュリウス。行き先は王都だな」
「はい」
「エーリック様。お考え直しください」
「危険すぎます」
「お願いです。我が君」
止める声が相次いだ。
「わらわは決めたのだ」
アンドレイが何度も頭を振った。
「エーリック様……、お願いです。お考え直しを」
「……」
「我が君。よく考えて下さい。ここにいれば安全です。もう命を狙われなくて済むのですよ。外に出たらまた……」
引き止めにかかるアンドレイを、エーリックはうつむいて断った。
「すまない」
「我が君…………。ここから出る道を選んだら、もう引き返せないのです」
エーリックはひどく悲しそうな顔で、アンドレイを見上げた。
「すまぬ。アンドレイ。今までのこと感謝している……」
アンドレイが剣を抜くのと、ジュリウスが抜くのは同時だった。
エーリックの体がジュリウスによって突き飛ばされ床に転がり、それをかばうようにマックスが別の一人とつばぜり合いをしている。激しく剣を交わす固い金属音が鳴り響くが、勢いに押された相手が態勢を崩すのを見て、マックスは切っ先で喉元を切りつける。返す刀で、襲ってきたもう一人の剣を力任せに叩き落とした。
斬りかかってきたアンドレイの剣を、ジュリウスは下から受けると押し戻そうとしたが重く、力を抜いて右に流すと、相手は前のめりに体勢を崩す。だが暗殺を遂行しようと、転がっている主に大きく振り下ろした。その動きを予想していたジュリウスは、力技で下から受けると、アンドレイの剣は飛ばされ、大きな音を立てながら部屋の隅に転がる。
その間にマックスはエーリックを片手で抱えると、刺客たちから距離を取った。二年以上、共に暮らした仲間から、三人も裏切り者が出たことに、残ったものたちは動揺を隠せなかった。
「エーリック様」
レオニードが飛び出して守ろうとするのを、マックスが剣で止める。
「退け。マックス」
「誰が敵かわからない以上、近づけることはできません」
「お前たちが味方かどうかだってわからないだろう」
「止せ。レオニード。落ち着け。刺客は今、倒された三人だけだ」
そう言って、エーリックは自分で立つと、動揺している部下たちに鎮まるよう指示を出した。
「エーリック様……。ご存じだったのですか?」
ジュリウスは少し驚きながら見ると、泣きそうな顔で見上げてきた。
「父親に命を狙われ、ずっと隠れ潜む生活をしてきた。スーミン卿に安全な住処を世話してもらえたが……。そんな中で、自分に付き従ってくれた者のことは、誰よりもよく見ている。皆、こんな生活を早く終わらせて、返り咲きたいと願っていた。その三名を除いて」
◇◇◇◇◇◇
ラザレフ伯爵の跡継ぎとして、エーリックは育てられた。しかし実母の死をきっかけに、情勢が変っていく。前々から伯爵夫人の座を狙っていた、有力なベルクトフ家が嫁がせた後妻マルタが、男児を産んだことで、後見のいないエーリックの立場が、あっという間に弱くなってしまった。
伯爵領は、閉鎖的な貴族家の悪いところを集めたようなところがあり、旧弊にとらわれており、それでいて自分たちの都合の良いことに限っては、権力を振りかざす横暴なところがあった。十歳を超えると、身の危険を感じるようになり、そのことを父親に訴えても、後妻の言いなりで頼りにならない。
それを見かねて手を貸したのが、スーミン子爵だ。国境沿いの古い土地柄のため、貴族家レベルになると、皆、どこかで血がつながっている。エーリックの実母と、子爵夫人が従姉妹だったこともあり、幼い頃からよく知っている世継ぎの不遇に、心を痛めていた。
子爵領は難しい舵取りが迫られる場所柄、それを乗り越えるために、血のつながりをなによりも大切にする所がある。子爵個人も、長幼の序を乱すようなやり方は、いずれ家の崩壊につながるとも考えていた。実際に伯爵家は、利権に絡むベルクトフ家の力が強すぎて、体制が崩壊しつつある。そうなった時の正統なる後継者の重要さは、伯爵をのぞき全員がわかっていた。
身の危険を感じたエーリックが乳母の実家に逃げようと、馬車で避難していたところを暗殺されそうになり、自領での生活を諦めることとなったのだ。助けを求められた子爵は、こっそり育てていた無法地帯に一行を落ち延びさせ、そこで独り立ちできる年齢になるまで潜伏することとした。援助はあったものの、そこでの生活は不自由だったが、誰にも命を狙われない生活は、伸び伸びとしたものだった。
「だが……。暗に言われるのだ。『ここを出たら命がない』と。あの三人に」
「それで刺客だとわかったのですね」
エーリックはこくりと頷いた。アンドレイはエーリックのことを、子どものように可愛がっていた。それは間違いではないのだろう。幼い頃からずっと仕えていれば、手塩にかけて育てた子どもという感覚が強くなる。
「アンドレイ。お主の雇い主は誰だ」
言いたくないらしく、アンドレイはふいと視線をそらした。
「父上だ」
エーリックの言葉に、全員がぎょっとし、アンドレイが驚愕の顔で見てきて訂正した。
「違います。我が君。きっとそれはなにかの勘違いで……」
まるでアンドレイのほうがその事実に傷ついているかのような、つらそうな顔をしている。ためらいなくエーリックを殺そうとした彼だが、それが実父の差し金だということだけは絶対に知られたくなかったようだ。
「ラザレフ伯爵夫人のマルタなら容赦はない。刺客を身近に潜伏させるなんて、悠長な手順は取らないはずだ。父上はわらわのことが邪魔ではあるが、殺すのは罪悪感を覚えたのだろう。おそらく跡を継げる年齢になって、止めても動き出したら殺せとでも言われていたのではないか」
図星のようだった。
◇◇◇◇◇◇
翌早朝、救出に来た一行に、スーミン子爵本人が混ざっていた。
「スーミン卿。このような危険なことをして大丈夫なのですか?」
「迷いましたが、エーリック卿が、ジュリウス殿たちを信用できない可能性もあるかと思い。上手く合流する手助けをしようと」
「助かります。ですが、ご心配はいりません。エーリック様はご自分で様々なことを、見抜いていらっしゃいました」
「ご立派になられて」
外交ルートを使って、最短距離でエーリックは海岸線に出ると、海軍の船で王都に向かい、そこで公の保護を受けることとなった。
彼の救出を錦の御旗にして、スーミン子爵領に戦争を仕掛けようとした、ラザレフ伯爵領は理由を失った。戦争の準備というものは、巨額の費用がかかる。小規模な子爵領を侮って、始める前から勝つつもりで準備していた伯爵領は、国から開戦を止められ混乱に陥った。凍結された戦線を維持する費用だけで、伯爵家は傾き、支持率は急落していく。
また国に届けられた正式な跡継ぎがいるのに、次男が優遇されていることも調査の対象となり、国と第三者を交えて親族会議が開かれた。戦争費用の責任を問われたものの、ベルクトフ家の勢力はいまだ強く、伯爵領には絶対に必要な存在なのだと強硬に言い張られては、他領が口を挟むことはできない。それを見越して国から新しい提案がなされた。
「そうまでしてベルクトフ家の後見が必要だというのなら、世継ぎエーリック卿の婚約者も、ベルクトフ家から出してはどうだ」
その場にいた人々の顔色が、さっと変った。当主夫人であり、次男の実母マルタもベルクトフ家出身。そこへ世継ぎの婚約者も同じ家の者にすれば、一見、権力の独り占めだ。だが人間というのは強欲なもので、二人以上の者が権力を握れば争いが起きるのは火を見るよりも明らかだった。
「ベルクトフ家長の実弟に、現在十四歳のナターリヤ嬢がいる。王都で学院に通っていて、交流を深める機会が十分にある。年齢も同じだし、理想的ではないか」
家長は喉まで「ふざけるな」とでかかった。ここまで努力してきたのに、なぜ弟なんかに世継ぎの外戚の地位を譲らないといけない。だがそこかしこで賛成の挙手が上がった。
「ベルクトフ家にお任せするべきです」
「さすがベルクトフ家」
「これでラザレフ伯爵領も安泰ですな」
権力の分散を見越して、他家が足を引っ張ってくる。さきほどあそこまでベルクトフ家の重要さを説いた以上、国の提案を断るのは難しそうだった。
◇◇◇◇◇◇
「学院はどうですか」
「勉強についていくのが大変だ」
「自由横丁でもやっていたのではありませんか」
「うむ。特にアンドレイが熱心に見てくれてな」
触れないようにしていた刺客のことを、エーリックはさらりと口にした。ジュリウスは心配になり、慎重に彼の表情を観察する。
「気にするな。アンドレイのことはわかっていた。熱心に世話を焼いてくれたことに感謝しているし、暗殺は彼の仕事なのだから仕方がない」
物事を切り離して考える性格のようだ。
「アンドレイの処遇はどうなったのですか?」
「彼らは優秀だから、生き残ったもう一人と合わせて、父上のところで続けて働いてもらっている。三人目がマックスに殺されたのは私の失策だ。彼に一言、手加減してもらうよう告げておけば……。終わったことを嘆いても仕方がないが、人材というのは貴重なものだ。無駄になったことは心が痛む」
優秀な人材を将来的に確保できるのなら、それが敵方で働こうが、命を狙ってこようが、大したことではないと考えているようだ。ジュリウスは内心で舌をまいた。世継ぎとして末恐ろしい肝の据わりっぷりだ。この年齢で凄みさえ感じさせる。だが……。
「ナターリヤという婚約者も新たにできてな。なかなか頼もしいおなごだ」
「どんな女性なのですか」
「さすがベルクトフ家出身で、強欲で常に奸計を巡らし、その癖、尻尾をつかませない。今までの経歴が実に素晴らしくてな。あのような女傑なら、家庭を安心して任せられる。だがあまり家族仲が良くなかったので、結婚したら温かい家庭を作るのが夢だそうだ。わらわが協力すると言ったら、とても喜んでおった」
「……それはまた」
内心ではいろいろ思ったが、表に出さなかった。父親から暗殺されかけたという、特殊な環境で育ったエーリックは、複雑怪奇な現実に、過剰に適応することで生き残ってきた。彼にとっては、自分の世話を焼いてくれる人々を信頼することと、その相手が暗殺者だと認めることは同じ世界のできごとだ。すべてを事実として受け入れる彼なら、策略家の女性と、笑顔があふれる家庭を築くのも可能だろう。
「あそこでの二年間は楽しかった……」
そんな感性の持ち主には、苦労の多い隠遁生活も、暗殺の危険がなかったという点において思い出深いものなのだろう。懐かしげに過去を振り返る彼の顔は、もう戻れないのはわかっていながらも、強い郷愁があった。少し強く、彼の肩を叩く。
「エーリック卿。そのようにさびしいことを仰らないで下さい。今、あなたは安全で、友人も、婚約者もいる。つねに今が一番、楽しいと感じられるよう、我々も協力いたします」
「……そうだな。あのように伸び伸びとした時間は、初めてだったから」
不安定だったラザレフ領は、長男派と次男派に別れたことで、皮肉なことに安定した。巨大なベルクトフ家の家長が、伯爵夫人とその息子を後見し、家長の実弟がエーリックの義父として後見する。領内の有力家はエーリックにつきつつあり、ベルクトフ家内の権力は兄弟で逆転した。国に目をつけられてしまった以上、伯爵も次男側も、派手な動きもできず、このままエーリックが跡を継ぐのだろう。
「もしかして伯爵家を継ぐ重圧を、感じていらっしゃるのですか?」
「いいや。それはわらわの責務と思っている」
「それでは。その。…………いずれはまた、お命が狙われるであろう事に不安を?」
もしそうだったら、なにか手を打とうと、頭の中で具体的な方策まで考え始めた。だがエーリックはなにかを思いだした後、子どものように笑い始めた。
「どうなさいましたか」
「真っ先にナターリヤの顔が浮かんでな。彼女がそんなことを、許すはずないと感じたのだ。もしそのようなことがあったら、鉄壁の備えで夫であるわらわを守り、首謀者を陰で抹殺するぐらいのことはやるだろう。いや、既にしているかもしれんと思ったのだ」
「それは、それは、頼もしいですな」
「ああ、わらわはなにを不安に感じていたのだろうな。ベルクトフ家の女を手に入れたというのに」
笑顔を浮かべた彼は、齢十四でナターリヤという女傑をも、簡単に飲み込んだようだ。幼い頃から実の父親を始めとした、身近な人間たちに命を狙われ、夢を見る暇も、逃避する暇もなかった。現実をただありのまま受け入れ、成長してきた。彼の器の大きさは、彼を殺そうとする人々が育てたものだ。だがそれは同時に……。
「エーリック卿。卿はお立場のある身の上。どうしたって数々の出会いと別れを、繰り返していくことになります。ですが、きっと、今までの寂しさを埋めるほどの出会いが、この先の人生に訪れるでしょう。奥方との出会いが、まさにそうなのではありませんか?」
そう言われてエーリックは、ジュリウスを見上げるように顔を上げた。
無法地帯では、全員が落ち込んでいたわけではない。堅苦しい生活から離れて、羽を伸していたものもいれば、冒険小説のような世界に、少年のようにはしゃいでいたものもいる。
いつも頑なだったアンドレイは、急に打ち解けて自分のことを話すようになり、朗らかになった。暗殺という任務から離れた本来の性格はそうなのだろう。エーリックが風邪を引いて寝込んでいる時などは、心配して何度ものぞきにきては乳母のマリアにうるさいと追い払われていた。自分を殺そうとする父親のことが恋しくて悲しくて、クローゼットの中に隠れていると見つけてくれるのはアンドレイだった。彼の言ってくれたことを思い出す。
『我が君。お立場のある方は孤独です。ですが、きっと、今までの寂しさを埋めるほどの出会いが、この先の人生で待っていますよ』
自分を見たまま黙ってしまったエーリックが心配になり、ジュリウスは少しかがんだ。
「エーリック卿?」
「…………そうだな。まさしく、そう言ってくれる者たちとの出会いが、わらわの宝だと思う」
前に進まなければならない。ジュリウスや、アンドレイに言われたとおり、これからもっとたくさんの事が起きて、それが大切な思い出に変っていくのだろう。それでもあの街で過ごした、輝くような二年間の思い出を超えるものは、なかなかないだろう。そう思うエーリックの逡巡を見て取ったジュリウスは、こんな風に言った。
「そんなことはありません。きっと、もっと素敵な思い出ができますよ」
「うむ」
「私が保証します」
「言い張るな」
「ええ、十八年生きた経験者が言うのだから間違いありません。まずは四年間、前に進んでみて下さい。私と同じ年になるまで」
「……もし駄目だったらどうするのだ?」
「その時は、私が護衛になりますので、二人でまたあの街に行ってみませんか?」
「それもいいな」
本気にしたわけではない。だが駄目だったら後戻りして良いのだと言われたエーリックは、急に気が楽になった。ジュリウスに挨拶して、自分の教室に戻っていく。
自分の頭を撫でてくれる父親が、同時に暗殺を考えていた。
そんな世界で育ったエーリックは、それを事実として受け入れる以外に生きる道がなかった。だからアンドレイのような暗殺者にすら、優しいところを見つけると、事実だと認めてしまう。人は矛盾しているものだからと、裏切り者も許容してしまう。
その姿があまりにも痛々しく、本心では、もっと自分を大事にしてもいいと口に出したい。相手が裏切り者なら受け入れる必要はないのだと。だが今はなにを言っても無駄だ。彼にとって人とはそういうものなのだから。
同じように育ったジュリウスには、気持ちがわかる。平気で命の危険にさらす両親にうんざりしながらも、親を愛してもいる。だが大きな違いは、心から信頼できる家族の存在だ。彼にもそんな人が現れて、心身共に預けられるようになってほしい。
さきほどナターリヤをすぐに思い出したことを考えると、それが叶う時期は近いだろう。そうなってから思い出す、あの二年間は、きっと塩を入れ忘れた茶菓子のように色褪せて見えるに違いない。




