盗めなかったもの
再開発のための測量の護衛をしていたジュリウスは、遠くから歩いてくる傷だらけの父親と、身長が足りないにもかかわらず支えようと、ちょこまか動く少年の姿を目にした。
取り立てておかしな光景ではないにもかかわらず、目を引いたのは、父親の役に立とうと懸命な少年の悲愴な顔と、そんな様子に気が付く余裕すらないほど絶望した父親の顔だ。あまりにも痛々しかったため、気の毒に思いブラック号を貸してやった。
普段、ろくに目にしたことがないのだろう。ただ乗るためだけの手入れの行き届いた馬を見て、恐縮していたが、父親は足や肩に大きな怪我を負っており、すぐ近くのミュール男爵領中心街まで乗っていく。ブラック号なら例え盗まれても、勝手に戻ってくるからと思っていたが、丁寧にも少年は馬を引いて戻ってきた。彼の名前はタッドと言った。
「お役人様。ありがとうございました」
「なに、大したことではない。それにしても父御の様子は痛々しかったな。なにがあった?」
「……隣のワットー伯爵領の奴らにやられました」
「それはひどい。それで領主に訴えるために街に出てきたのか」
「……いえ、訴えてもどうにもなりませんから」
不思議に思いながら、その日の作業を終えると、作業員たちを中心街の宿まで送った。今日はそこにあるミュール男爵の、古城に泊まることになっている。
男爵領には古い文化がいまだに残っていて、城の中はまるで中世そのままの世界だ。男爵に招かれた部屋に入ると、小さな窓に、壁を覆う長い豪奢なカーテンが天井から垂れ下がり、違う時代に来たようだ。世間話をしている内に、気になっていたタッドの話になり、思いもかけない事を聞かされた。
「農作物が盗まれてしまう?」
「はい。今年も大分やられました。領民たちは絶望しています。このままでは我が領はやっていけません」
「誰が盗むのですか?」
「隣のワットー伯爵領の農民たちです」
「はて。それならワットー伯爵に、訴え出ればよいのではありませんか」
「そんなことをしてもなんにもなりません。なぜなら農民たちを焚きつけているのは、その伯爵なのです」
「そんな馬鹿な……」
思わずそう言ったが、部屋の中の仰々しい古風な祭壇を見て、ここが旧教を信仰している地域だと思い出した。つまりは古い教義を信仰している男爵領が、迫害を受けているということだ。
「それは……弱りましたね」
男爵とジュリウスは途方に暮れて、頭を抱えた。
◇◇◇◇◇◇
窃盗を働いているのなら、国に届ければいい。権力をふるわれているのなら、立場のある者に間に入ってもらえばいい。だが教義を理由に差別されるのは、どうにもならない。もっと根源的な問題だからだ。
この国は三百年前に、旧教から新教へと改められた。だが今、現在でも旧教の貴族家、地域は残っている。両者の間には根深い対立があり、ミュール男爵領とワットー伯爵領のような、目に見えない差別が現代でも続いている。
ジュリウス本人は、信仰というものは、その人の心の有り様を指すものであって、他人が口を出して良いものではないと思っている。本来はそうあるべきだ。だがそうもいかないのが世の常だった。
「なるほど、それで私が派遣されたのか」
ここには再開発のための測量に訪れた。こういった作業は、系列の貴族家で雇われている、下請けを行かせることが多い。だがわざわざジュリウスが選ばれたのは、複雑な土地で、作業員たちと、現地の人々との間に問題が起きた場合のためだろう。
貴族令息として発言力があるし、ラムレイ男爵家では新教を信仰しているが、思想的にはリベラルな家風で、仲裁役にもってこいだと思われたのだろう。
「どんなものが盗まれるのですか?」
「なんでもです。綿に、麻に、米から麦まで」
「それは……税収に影響は?」
「でないわけないでしょう。ワットー伯爵には何度も連絡しました。ですが知らぬ存ぜぬを貫かれて」
それを聞いて、護衛する傍ら、様々な人に話を聞き、記録を調べて回り、現地にも足を向けた。もちろんタッドにも話を聞く。タッドと父親は領内で畑を耕していた所、ワットー伯爵領の農民に襲われ、抵抗したせいかひどい目に遭ったという。その怪我では来年の春までまともに働けないため、一足先に冬ごもりする中心街に戻ってきたそうだ。父親はずいぶん落ち込んでおり、黙って盗まれていれば良かったとぼやいているという。
「気の毒に。それでタッド。父御はどんな様子だ?」
「……抵抗しなけりゃ良かったって。でも…………丹精込めた畑を荒らされるなんて。そんなの我慢できるものか」
忌々しげに吐き捨てたタッドの言葉を聞いて、話がかみ合っていないような気がした。そしてそのずれは、男爵領に来てから何度も感じていることで、今のように父親の容態を尋ねても、彼らは畑について答えるのだ。
「……神から与えられた贈り物か」
自分には想像もつかないほど、畑というものが彼らにとっては大事なものだということが、ひしひしと伝わってきた。
「あの作物が盗まれたら、年貢が納めなくなってしまう。それで父さんは必死だったのに、新教のやつらめ……」
タッドが怨嗟の声をもらすと、それを横で聞いていた司祭が窘めた。
「ジュリウス様は新教ですが、親身になって下さっています。一括りにしてはいけませんよ」
「あ、すみません。司祭様。ジュリウス様も申し訳ありません」
タッドは謝った後、なにか気になるのか、ちらちらとジュリウスを見た。
「どうかしたのか」
「あの、えっと」
「堅苦しく考えなくていい。なんでも聞いてみたまえ」
「ジュリウス様は、新教を信じていらっしゃるのですね。俺、ワットー伯爵領のやつら以外では初めて見る……お目にかかるので」
ジュリウスは軽くカルチャーショックを受けると共に、男爵領の置かれた四面楚歌な状況をようやく体感することができた。そしてそんな彼の心の内を読み取った司祭と、隣にいた男爵は遠い目をしている。
「私が新教なのに、旧教に理解があるのを不思議に思ったのだね」
「はい。新教の奴ら、あ、すいません。隣の領地の奴らは……、ジュリウス様はどうしてお優しいのだろうと」
「……そうだなあ。私は生まれも育ちも王都だが、都会では宗教も思想も主義も自由なんだ。色々な人がいる上に、とにかく人口が多いから、他人のことをいちいち気にしたりしない。旧教の人ももちろんいるけれども、多様性の一つでしかない」
「それが不思議です」
「ここでは新教か旧教かの二つしか区別がない。狭い地域に、少ない人口で固まっていると、自然と差別が始まってしまうものだ」
「それは…………なぜなんでしょう」
「考えるんだ。自分の頭でそのことを。そして自分になにが出来るかを。それが未来につながる」
ジュリウスがそういうと、難しい顔をしてタッドは考え込み、それを司祭と男爵の二人が、頷きながら見ていた。
「確かにジュリウス様の仰るとおり、関係者に一人でも都会の方がいらっしゃれば、この問題も違った様相を見せたかも知れません」
そういった司祭は留学経験があるとかで、教義に忠実な割には、柔軟な考え方を持っていた。
「私自身、この閉鎖的なミュール領育ちで人のことは言えません。ですが、もう少し……平和に暮らせぬものかと」
そう言った男爵や、司祭と充分に話し合ったが、効果的な解決方法を思いつけなかった。ここでジュリウスや、その代理人が間に入れば、一時はおさまるだろう。だが差別感情というのは絶対になくならない。
なにより領主のお墨付きで始まった略奪は、労せずして農作物を手に入れられることを、農民たちに教えてしまった。何年もに渡る地道な下準備と、一年間のたゆまぬ努力と時間、そして元手をかけずに、収穫物を手に入れることができると。今まで、税金を納めるのに苦労していた下働きの農民たちほど、略奪という行為に、まるで中毒に冒されるかのようにはまっていった。
「つまり略奪を止めるのは、もう無理です。彼らは味を占めてしまったのだから」
ジュリウスにそう結論づけられた男爵は、絶望して持っていた茶器を落としそうになった。
「そんな、なんとかなりませんか」
「一つだけ、提案がありますが、それには多くの領民の協力が必要です」
「どのような?」
「これは私の持論なのですが、いくら言ってもやめなかった人間が、痛い目に合った途端、大人しくなることがあります」
「それは、盗賊たちを痛い目にあわせるということですか?」
「いいえ、ワットー伯爵に痛い目にあって頂きます。五年ほどかけて」
「そんなことは無理です。彼はこの地域一帯を牛耳っている統治者なのですよ。それに国も宗教問題には触れたがりませんし」
「牛耳っているのなら、文字通り責任を取らせましょう。ところで次は私の祖母の格言なのですが」
「ジュリウス殿の祖母君の……?」
「小さい頃に耳にたこができるほど、言い含められました。『どんな腕の立つ泥棒でも、頭の中までは盗めない』と。だから目の前の小金に飛びつく暇があったら、まず勉強しろとね」
男爵は、ジュリウスの考えていることが、段々分かってきたが、それが大変な労力を伴うことが想像でき、怖じ気づいてしまった。しかし八方塞がりで、もう前に進むしかなかった。
◇◇◇◇◇◇
巨大なワットー伯爵領に比べると、ミュール男爵領はそこまで大きくはない。秋の刈り入れ時に襲撃された領民たちの顔は暗く、冬を越えるために街中に徐々に下ってきて、顔見知りしかいない中、生活を始めたものの、会えば湿っぽい話題ばかりだった。
そんな時に領主から街の広場に集まるように、おふれが下った。内容が気にかかり、たくさんの人が集まって、広場は大変なことになっていた。怪我をしているタッドの父親まできている。
「タッド。領主様のお隣に立っていらっしゃるのが、ジュリウス様かい?」
「そうだよ。その隣がジュリウス様の義弟で、ベアーズリー商会のブルックス様だよ」
タッドの解説に父親だけではなく、聞こえていた他の領民も感心する。
「ベアーズリー商会って……」
ベアーズリー商会の規模はそこまでではないが、歴史があり、創業者が大変な奇人として良くも悪くも知られていた。演台の横にミュール男爵が現れると、この街ができた当時のを模した角笛の音が鳴り響き、代官が壇上に登った。
「男爵閣下より、おふれである。此度の一件に関して、閣下はひどく心を痛めており、前後の状況を鑑み、国と協議の結果、今後、五年の間、物納による年貢を免除することとする」
元々静かだった広場は、恐怖で更に静まりかえった。領民と切っても切れないのが年貢で、それはもちろん増えて欲しくない。当然少ない割合を望むが、だからと言って免除されるなんて、そんな上手い話があるわけがない。これには絶対に裏があり、今でももっとひどい境遇なのに、よりひどくなるのだ。皆、恐ろしさで身動き取れず、ひたと代官を見つめている。
「そのかわり今後、領地で始まる基幹産業に従事してもらう。主にレースの製作だ」
その後、説明を受けた領民たちは、事態がよくわからず、代表の町長は長いこと、領主と話し合った。ジュリウスがいくつか選んだものの中で、ブルックスが目をつけたのが、地元の伝統的なレース織りだ。
現代でも旧教を大事にする男爵領では、古い息づかいの残った技術がたくさん残っており、その中でも手織物、建築技術は特に目を引いた。おもしろいことに二人が感心した点を説明しても、地元の人間には当たり前のことで話が通じないのだ。名前すらなかったレースに、ミュール織りと名付け、それまで個人家庭で、親から子へ受け継がれた技術を集団へ継承するべく、組織だった作業が始まった。
男性が質の良い麻の栽培と収穫を担当し、指の細い女性たちが製糸を担当する。王都からホニトンレースなどで名を馳せた職人を招聘し、商品化を目指した。狙いは客単価の高い富裕層だ。
「上手くいくのだろうか」
「義兄上は心配しなくてもいいです。金銭に換えるのは僕の仕事ですから」
「頼もしいな」
「収穫の季節が終わり、冬を迎えると、領民が中心街に集まってきます。例年なら出稼ぎに行きますが、今年からしばらくは街の開発に取りかかりましょう」
「そうだな。この街の特徴をよく出すようにしよう」
二人は地図を片手に馬で街を見て回ると、様々な場所に印をつけてまわった。男爵領には古い街並みがそのまま残されており、道路の代わりに水路が、そして中世に税金対策のために建てられた、間口が狭く、二階以上が隣とアーチでつながっている特徴的な建物が、今でも見受けられた。
これらのものは時代が下がるにつれ取り壊されたり、橋が作られ、道路に変ったりしていっているが、二人は便利さを残しつつ、中世さながらの街並みに戻すつもりだ。目的は、男爵領の観光地化と、外部つまりは伯爵領からの襲撃対策だ。
◇◇◇◇◇◇
一年目は盗まれてもいいように栽培しておいた麻や綿を、隣地に持って行かれ、レース用に丁寧に栽培した麻を製糸することから作業が始まった。前年の冬の間に一通りの作業工程を叩き込まれていた領民は、黙々とレース作りや、街造りに取り組んだ。
レースの方は当初はあまり評判が立たなかったが、年配には懐かしさを、若い世代には目新しさをかきたて、静かに普及していった。
一方、ミュール領の街並みはかなりの話題となり、ちょうど観光ブームも起きていたこともあり、始めからそれなりの観光客を誘致できた。これを見越してブルックスが、宿泊施設を充実させていたこともあり評判となる。
観光地化の嬉しい誤算は、国から新しい宿場町に指名されたことだ。人の流れを呼び込み、また宿が確保できると言うことで、中途半端な位置にあった男爵領は、街の整備に国から補助金がでることになったのだ。盗みはまだ続いている。だが領民の顔はすっかり明るい。
しかしブルックスの農民に関する報告を聞いたジュリウスは、純粋に喜ぶことはできなかった。作業に参加している元農民たちは、時々、何日も時間を取っては自分たちの元の家に戻る。聞くと、困った顔で中々答えないが、どうやら置いてきた農機具の手入れや、畑の世話をしているらしい。
二人は、効果的で正しい対策を取っているが、それは彼らの望んだものではない。関係者全員、わかっていながら、今の状態を続けなければいけないことに、もどかしさが募った。
三年目は少し少なめに栽培し、早めに収穫して領民たちは街に引っ込んだところ、思いどおりに盗めなかった伯爵領の領民たちは、足りない分を自分たちの領地で盗んだ。
ワットー伯爵から盗みを示唆されたのは、男爵領沿いの一部地域の領民だ。彼らが自領で真面目に耕している農民たちの分に手を出した。この時、領民たちは伯爵の命令に従って、盗みを働いているのではなく、伯爵の威光を笠に着て、やりたい放題に暴れていることに、ワットー伯爵が気が付けば、まだ引き返す道はあったかもしれない。だが領民を虫けらのような存在と侮っていた伯爵は、そこでなんの手も打たなかった。
五年目に入り男爵は、最低限必要なもの以外の農作を中止した。今後は輸入を頼ることになる。盗賊たちから、領民を守るためには仕方がないとはいえ、自分たちの土地を事実上手放すことが、本心では悔しくて仕方がない。だからいつでも農耕が再開できるようクローバーを植え、土を肥やすことにした。男爵領を観光に来た人々は、城下に広がる緑の絨毯を見て事情を知らずに褒めそやし、それがまた口コミで広がった。
伯爵領から来た農民たちは、盗むものがないことに驚き、当てが外れた苛立ちから、農家に火をつけて回ろうとした。しかしレースと観光により財政に潤いのある男爵領は、人を雇い入れて自警団を充実させており、そうはさせない。
仕方なく逃げ帰ったものの他に当てもなく、同じ伯爵領の農作物を、彼らはなんの遠慮もなく略奪した。五年間も略奪を是とする環境に置かれ、生粋の盗賊に成り下がったのだ。彼らの中心世代である、十五歳から二十歳は、もはやまともに畑を耕した経験もない。放っておかれた畑は雑草が伸び、土は固まってしまった。そして略奪された方がワットー伯爵に訴え出ても、まともな反応が返ってこない。盗賊たちが、取り締まりにあわなかった事実を見た農民たちは、ためらいなく同じ罪を犯し、あっという間に略奪の炎が伯爵領土に広がっていった。
◇◇◇◇◇◇
「チェックメイト。です」
ブルックスが華麗に勝ちを決めると、ジュリウスは悔しそうなうめき声を上げた。
「また負けた……。というか一度も勝てたことがないぞ」
「研鑽してますから」
視察に来たブルックスの、護衛としてやってきたジュリウスは、男爵家の一番良い客室でチェスをしていた。大きく開け放った窓の下には、中世の街並みが広がっており、観光客が水路を手漕ぎ船で通るのが遠目に見える。
「王都でも男爵領の評判は上々だ。レースの方はどうだ」
「五年で技術も上がりましたし、なにより観光で名が売れましたから、中世の街から時間を超えて届くアンティークレースということで、興味を持ってもらえることが多いです。流行とは真逆のデザインなのですが、『どこか懐かしい』と言って、愛好して下さる一部の熱心な顧客がいまして」
「素晴らしいことだ」
「国からの宿場町の指定で、国税でてこ入れすることができましたし、ミュール男爵領の価値はうなぎ登りですよ。それになんといっても大勢の農民が、技術を持った職人に転職したことで、一人一人に価値が付与されましたし」
「それは良かった。このまま街ごと発展していくと良いな」
「……」
得意満面に話していたブルックスが、暗い顔になった。
「どうした?」
「確かに裕福になりましたが、それでも農民に戻りたいという者が多いです。自分たちの本分は畑を耕すことだと。男爵も同じことを言っています」
「……男爵も?」
「街全体は発展しましたが、技術職というのはまた別の上下関係や、苦労を生み出します。それに慣れるのに時間がかかるでしょうね。それまでは土と共にあって、神が身近に感じられた生活を懐かしく思い出すのでしょう」
男爵が自分の土地一面に広がるクローバーを、つらそうに見ていた光景をジュリウスは思い出した。男爵だけではない。その時、作業していた農民たち皆、神から祝福と共に与えられた大地を、不本意にも返さなければならないつらさで、顔が歪んでいた。
ジュリウスとブルックスの計画はこれ以上ないほど成功し、領地は栄えている。それだけをみれば大成功だ。少なくとも二人にとってはそうだ。だが、領民にとっては、ただ災難から逃げ延びたというだけであって、結果は敗北なのかもしれない。彼らが昔から営んできた生活は破壊され、元に戻っていない。
そこへどたどたと重い足音がした。
「ジュリウス様。ブルックス様。ここにいらしたのですね。これ母から差し入れです」
すっかり背が伸びたタッドが、布袋からパイをいくつも取り出し、テーブルの上にどんどんと並べた。
「これがミートパイで……」
ブルックスが素早くつかみ取って、がつがつ食べ始めた。
「こっちはサツマイモ、鹿肉。領主様からお預かりしまして。それと洋梨です。母がきっとお好きだろうって」
「よくわかったな」
果物のパイが好きなジュリウスは、洋梨を手に取るとにこにこと食べ始めた。二人のためにお茶を入れていたタッドは、改まった口調で話し始めた。
「俺、報告することがありまして……」
「なんだ?」
「実は秋から王都に二年間、留学することになったんです」
「それはすごいな。よほど優秀だと認められたのだな」
「それほどでも。でもせっかくの機会だから、しっかり勉強してきます」
「なにを学ぶつもりなのかな?」
「農学を学びます」
「……」
ジュリウスもブルックスも言葉を失い、しばらくなにも言えなかった。その姿を見て誤解したのだろう。タッドは慌てて言い訳をした。
「もちろん農業を再開する気はありません。今がどういう時勢かもわかっています。それにお二人の指導には本当に、心から感謝しております。これは領民一同、同じ気持ちです。お二人がいらっしゃらなかったら、きっと俺たちは…………。でも………………。でも、諦めたくないんです。いつか俺たちの土地を取り戻して、また耕したいんです。いつか……天からの恵みをこの手にもう一度…………」
自分の手を見たまま黙ってしまったタッドが、失礼なことを言ってしまっただろうかと、焦って顔を上げると、二人は深く頷いていた。
「頼もしい。将来、この街を背負って立つのだな」
「都会の生活は大変だろうけど、頑張りたまえ」
「はい。行って参ります」
挨拶をし、しっかりとした足取りで出て行くタッドの、大きな背中を見ていると、子どもの成長は早いとつくづく感じる。人がいなくなったのを見計らって、ブルックスが大事なことを聞いてきた。
「農業が営めるようになるのは、いつ頃でしょう。やはり……」
「ワットー伯爵領が落ち着けば、また再開できるはずだ。それまで辛抱強く待とう」
「その伯爵領はどうなったのですか? 義兄上」
「伯爵領全体に盗賊行為が広がって、結果、領内で農作物を育てる割合ががくりと減った。盗まれるのなら作るのもばからしいと。そして自領では足りず、周辺の領地に盗みに入るようになった。領民にとっては年貢というのは命もかかるも同然なのだから、いくら厳しく盗みを取り締まってもなんの効果もない。伯爵領内の治安は急激に悪化し、秩序が崩壊、まともに外を歩けないようになった。つまり領地が壊滅したんだ。たったの五年で」
「……義兄上は、このことを予想していたのですか?」
ぞっとしたようにブルックスが見てきた。
「まさか。もっと早くワットー伯爵が、なんらかの手を打つと思っていたよ。よもやなにもしないとは……」
罪悪感を覚え、胸がちくちくと痛んだ。伯爵がせめて手を打ってくれれば、ここまでひどい事態にはならず、そうすれば男爵領は農業を、再開できていたかもしれない。だが嘆いても仕方ない。
「とにかくワットー伯爵は責任を問われ、爵位をご長男に譲る話が出ている」
「どんな方なのですか?」
ぎょっとしたブルックスが、心配そうに聞いた。
「子どもの頃から王都で過ごしていて、都会的な教育を受けた方だ。話に聞いた限りでは、とても理性的で、きっと旧教のミュール男爵領とも上手くやっていけると期待している」
それを聞いたブルックスは安心したように、柔らかい笑みを浮かべて言った。
「それは良かった」
そして中世風の固いパイを、分解するように食べる作業に戻った。ジュリウスは自分もそうしながら、さきほどまで感じていた胸のつかえが取れているのに気が付いた。農民たちが敗北したって? 土と共に生きる彼らを、どうやって負かせるというのだろう。
『農学を学びます』
背筋を伸してそう言ったタッドを見れば、よくわかる。
誰も彼らを打ち負かすことなどできやしない。
それこそ神でもない限り。




