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貧乏男爵家の調査官日誌  作者: 林はるる


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死に神

作中の「アブサン」はリキュールで、安い割には高濃度のアルコールが摂取でき、同時に幻覚作用があります。


 橋の上で欄干にもたれ、ヨッヘンはぼんやりとしていた。


 事業に失敗し莫大な借金を背負い込み、一家心中でもしないといけないところを、娘のエデルガルトが身売りして大金を作ってくれたのだ。父親としてあまりにも情けなく、死にたい思いで一杯だ。


 今、手元には娘のおかげで、返済してそれでもまだ残った現金がある。ちょっとまとまった額だ。だがこれと引き換えに娘がと思うと、なにに使う気にもなれなかった。なにもしてやれなかった父親など、生きている価値がないのではなかろうか。


「そうだな、お前など生きている価値がない」


 隣に立っている男に、そう囁かれる。


 さきほど飲んだアブサンのせいか、幻覚が見えるようだ。それとも本物の……死に神だろうか。だってヨッヘンに生きる価値がないのは、本当なのだから。絶望と恥ずかしさから、男に囁かれるまま欄干に立とうとするが、きついリキュールを飲んだせいで、足元が覚束ない。


 それでもふらふらと川に飛び込もうとしていると、遠くから右腕を吊った青年が走ってきた。


「なにをしている。馬鹿なことはやめろ」


 青年は左腕だけでもかなりの力があり、あっという間にヨッヘンを欄干の内側まで引きずり倒した。


「邪魔しねえでおくんなせえ。あっしは娘を売った最低な父親なんです」


「なにがあったか知らないが、話して見ろ。それとそこの男は何故止めないのだ」


「へ?」


 驚いて顔を上げると、先ほど死に神だと思った不気味な男が、小さなランタンを手に立っていた。目深にローブをかぶっていて顔がよく見えないせいで、年齢の見当がつかない異様な雰囲気を漂わせている。てっきり自分にしか見えないなにかだと思っていたので、青年にも見えると知り、急に現実に引き戻された。


「あっしは最低なんです。最低な……」


 ヨッヘンの話を聞いたジュリウスは、彼を慰めた。


「気持ちはわかるが、父御が自分のせいで身を投げたと聞いては、娘御も身の置き所がないだろう。そんなに大事なら、娘御のために生きてはどうだ」


「……ですが」


 どうしたわけか、ヨッヘンは気持ちの切り替えが上手く行かず、ジュリウスがいくら説得しても同じ所に戻ってしまうようだった。それをランタンを持った男は、ただにやにやとして見ていた。


「お主は先ほどから、なぜここにいるのだ」


 ジュリウスが男に語りかけると、にたりと笑った。


「その男は死に神に取り付かれてるんでさあ。あんた様がいくら頑張ったところで、一人になったらまたおんなじ事をしますぜ」


「……死に神ではなく、お主がそうするつもりではないか?」


「手前にはそんな力はござんせん。そのヨッヘンという男が自分でするんでさあ」


「……」


 ジュリウスはしばらく考え込んだ。


「例えそうだったとして……。ヨッヘンがなにかをするとして、それはお主には関係がないのではないか。なぜここにいるのだ」


 男はまたにたりと笑った。


「そんなに自分が最低だと思うなら、最後の最後に慈善事業をさせてやろうかと」


「慈善?」


「なあヨッヘンとやら。あんた父親として情けなくて、娘に顔向けができないんだろう。あたら命を散らすなら、無駄になる分の寿命を、人にやってはどうかね。死ぬ前に善行を積むんだよ」


 自分の寿命が誰かの役に立つという提案に興味を持ち、ヨッヘンは、そのシャッテンという男についていくことにした。どうしても立ち直ることができず、かといって本心では身を投げるのに、やはり勇気が要ったからだ。


 シャッテンは浮浪者がうろうろしている路地を歩き出し、すっかり怯えてしまい、ヨッヘンはジュリウスから離れなかった。この辺りは治安が悪く、いつ殺されてもおかしくない。急ぎの仕事でもあったのか、血まみれの解体包丁を持った、エプロンを真っ赤な血で染めた男が横の路地から出てきたのを見たヨッヘンは、へなへなと崩れ落ちそうになった。


「ヨッヘン。死ぬ気のあんたに、まだ怖い物があるのかね」


 シャッテンにそう聞かれたヨッヘンは、いくら人生に絶望していても、怖い物は怖いと感じた。


「ここだ」


 真っ暗闇の路地が続く、ある場所でシャッテンが止まった。


「この先が死に神のねぐらだ。ヨッヘン。中に入るのに、ちょいと目隠ししてくんな」


 ヨッヘンの口から、恐怖でまるで絹を裂くような細い悲鳴がもれた。隣のジュリウスの右腕を鷲づかみにしてしまい、ジュリウスの口からも、うめき声のようなものがもれる。じたばたと暴れるヨッヘンに、苛立ったジュリウスが力尽くで目隠しをし、右の二の腕をつかませた。


「ヨッヘン殿。いいか。この場所以外は触るな。絶対だ」


 放っておけばいいものを、ジュリウスはどうしても気になってしまい、同行してしまう自分も大概だと思いながら付き添っていた。


 中に入ると、まるで洞窟のように声が響く真っ暗闇の中、ろうそくだけが灯された場所で目隠しを外される。


「ここは、一体……」


「もう先のないあんたには関係ないだろう」


 シャッテンはそう言うと、一本の大ぶりのろうそくを指さした。半分くらいまで燃えた後のようだ。


「これがあんたのろうそく。寿命があと半分くらい残っている」


 そう言った後、美しい装飾が描かれた絵ろうそくを指さす。なにがあったのか新品に見えるのに、もう残りが少ない。


「このろうそくの持ち主はウルリカというべっぴんで、患者を懸命に手当する優しい女でねえ。ウルリカが看病すると、必ず助かると噂されるくらいだったんだが、なにかの手違いで自分と患者の寿命を入れ違えちまったんだ。不幸なことさ。さあ、もう残り少なくなった彼女の寿命と、お前さんのを入れ替えてくれ。あんたが捨てるつもりの寿命で、ウルリカを助けるんだ」


「ど、ど、どうやるんだ」


「あんたのろうそくを、早えとこウルリカのろうそくに継ぎ足してくんな」


 寿命が使われてしまうと説明され、ヨッヘンはためらって動けなくなってしまった。どうしたらいいのかわからず、かといって後ろで早くと急かされると焦ってしまい、頭が働かなくなってしまう。


 急かされるまま自分のろうそくを手に取ったものの、今度は手が震えてしまい、継ぎ足そうとしたがうまくできなかった。そのうち手が滑って、ろうそくが床に落ち、あたりに蝋が飛び散る。


「ああ、もったいねえ。それが消えたら、あんたの寿命は終えだ」


「ひっ」


 ヨッヘンがあわててろうそくを拾おうとすると、風が吹きふっと火が消えた。辺りにはヨッヘンの野太い悲鳴だけが響いた。



◇◇◇◇◇◇



「意地の悪いことをするものだな。ショック療法というやつか」


 気絶したヨッヘンを介抱しながら、シャッテンにジュリウスは聞く。


「そんな難しい言葉はあいにく。手前はただ遊ばせてもらっているだけでさあ」


「手慣れておるようだが」


「あの橋は穴場でね。金のねえ奴が東の安酒場街で一杯やる。金がねえから、できるだけ安くて酔えるのを飲む。つまりは質の悪いアブサン酒をね。ちょうど幻覚を見る頃合いに、西の住宅街に戻ろうとして橋を渡るんでさ」


「それだけか?」


「…………」


「最初に見たとき、ヨッヘンは身投げしようとしていた」


「止めなかったからといって、お咎めを受けるのはいくらなんでも」


「そもそもヨッヘン殿をそそのかしたのは、お主ではないのか」


「……」


 しばらく黙っていたが、まるで誰かに見つけてもらったのが嬉しくて、はしゃいでいるかのようにシャッテンは言った。


「どうでしょうね」


 アブサンを飲んでいた以上、ヨッヘンの証言は当てにならない。ジュリウスも決定的ななにかを目撃したわけでもない。だがシャッテンの反応から、この話は案外、根深そうだと感じた。



 目を覚ましたヨッヘンが、遊ばれたのだと聞かされ、命が助かったのなら娘に会いたいと突然言いだし、すぐ近くの花街に向かっていった。街の店はぴんきりだったが、その中でも上流階級が利用することで知られている有名店に入っていく。


「エデルガルト!」


 豪華な装飾の館内を、似合わない騒々しさで駆け抜けていく。特製の大型カウチに寝そべっている年配の男性に、寄り添うように三人の女性がそれぞれの煙管をくゆらせていた。


「あれえ。ジュリウス殿ではないですか」


「これは、ホワイトフォード殿」


 男性はブラックウェル伯爵家の、摂政ホワイトフォードだった。


「エデルガルト。父さんはな、生まれ変わったんだ。今日からお前のためにまた金、稼ぐから。何年かかっても、お前を救い出す」


 三人の女性の内の一人だったエデルガルトは、感動的な父親の宣言に鈍い反応しかしない。


「そうかい。でも別にそんなことはしてくれなくて結構だよ」


「待っててくれ」


「よしとくれ……」


「ジュリウス様。今日は世話になりやした。それでは」


 ヨッヘンは軽やかな足取りで帰って行った。


「エデルガルト。すごく慌ただしいお父さんだね。台風のようだ」


「そうなのです。ホワイトフォード様。人の話はまったく聞かず、思い込みが激しく、それでいてうっかり者で。一緒にいると、それだけで疲れちまって」


 エデルガルトはぐったりとしていた。


「あの、エデルガルト殿。お父上は事業に失敗して、あなたを身売りするはめになったと」


「間違いではござんせん……」


 エデルガルトは大きなため息をついた。


「とかく危なっかしい人で、あのまま放っておくと借金が膨れ上がるので、あたしが一括で精算しやした」


「身売りというのは」


「あたしは半玉の頃からずっとこの道で、座敷に出ております。自慢ですが、これだけの館で、つねに五本の指に入るほどの評判で、父親といえど哀れまれる筋合いはございやせん」


 エデルガルトの口ぶりでは、厄介で始末に負えない父親の尻拭いをして回っているという感じで、ヨッヘンの話から想像する悲壮感はない。ジュリウスは今日の不思議な体験を整理しようにも、ヨッヘンを絡ませるとややこしいことになりそうだと途方に暮れた。


「ジュリウス殿もこういう所に来るんだね。良い子紹介するよ。お勧めはね……」


「……」


 ホワイトフォードに肩を抱かれ、慌てて訂正する。


「いえいえ、仕事の関係で来ただけで……誤解です」


「もちろん、セレスティーナ様には黙っておくから」


「誤解です」


「でもせっかく来たのだから」


「ホワイトフォード殿。ここには仕事で来ただけですので失礼します」


 せかせかと歩き去ったジュリウスは、翌朝、朝帰りのホワイトフォードより早く、ブラックウェル伯爵家を訪れて、セレスティーナに昨夜の次第を打ち明けた。


「まあ、なんて奇妙なできごとかしら」


「そういったわけで訪れただけで、なにもありませんでしたから。ホワイトフォード殿になにを言われても信じないで下さい」


「でも結局、その方は思いとどまったわけだから、ショック療法とは言い得て妙ね」

「ホワイトフォード殿は親切ですが、冗談が過ぎるところがあります」


「続きが気になるわ。そのシャッテンの正体はつかめたの」

「ただ、流れで訪れただけで、別に娼館に用があったわけではありません」


「……ジュリウスがそう言うのなら、そうなのでしょう」

「……」


 ジュリウスが言ったことなら本当なのだろうと、セレスティーナも、ホワイトフォードも信じている。だが本人に、いまいち自覚がないので、ついからかってしまったのだろう。今も信じてもらえたのかどうか、不安そうな顔をして座っている。セレスティーナはにっこり笑った。


「信じているわ」


 ジュリウスもようやくほっとして笑顔になった。


「それに男性にはそういうお店も必要なのでしょう? だから行っても一々言わなくていいわよ」


 あっけらかんと言われ、どう受け止めてよいものかわからずジュリウスは固まった。それまで二人のやりとりをニコニコして見ていた、家令のハンプソンが唇を噛んだ。


「ソウジャナイ」


「どうしたの、ハンプソン」


「なんでもございません」


 ジュリウスも、「そういうことではない」と強く感じた。しかしこの繊細な問題を、頭でっかちのセレスティーナに口で説明しても意味があるとは思えず、後回しにすることにした。



◇◇◇◇◇◇



 西の住宅街を抜け、橋を渡り、貧民街を抜け、東にあるオーベリー大聖堂の敷地に入ると、朝の勤めに勤しんでいる人をちらほらと見かけた。扉を開け、入り口で小銭と引き換えに、用意されているものの中から、中ぶりの絵ろうそくを選んで手に取る。大聖堂の中を広く見渡せる入り口の祭壇に、ろうそくを灯し、祈りを捧げる。


 昨日の騒ぎで落としてしまったろうそくの跡は、きれいに片付けられてしまったが、シャッテンが指さした美しい装飾の絵ろうそくの名残は残っていた。


「人を探しているとか」


 現れた司祭に礼を執り簡単にいきさつを話すと、シャッテンにまつわるできごとを聞いて不思議そうな顔をした。


「申し訳ないですが、まったく心当たりがありません」


「そうですか。シャッテンと名乗ったものにもですか」


「ええ」


 なにも言わず、黙ってじっとしていた。心当たりがないと言った司祭が、なにか考え込んでいるからだ。下を向いて物思いにふけっていた司祭が、顔を上げた所で別の質問をした。


「シャッテンと聞かされた時、なにを連想しましたか」

「他愛もないことで」


「構いません。教えて頂けませんか」

「本当にくだらないことなのです」


 待っていると、司祭がやっと話し始めた。


「奉公人にリヒトという少年がいまして、なぜか彼を連想したのです。ですが彼はとても明るく思いやりのある子で、そんなことをするとは思えません。第一、まだ十三歳ですし」


「それなのに連想したのですか」


「はい」


 人間とは思いのほか大量の情報を頭にため込んでいて、こんな時の連想は案外、的を射ていることが多い。司祭にその自覚がなくとも、彼はシャッテンの話を聞いて、リヒトを連想したのだ。


「リヒトという少年に会わせて頂けませんか」

「ご案内します」


 しかし奉公人の宿舎は妙にバタバタしていた。


「あ、司祭様。リヒトの奴がいなくなりました」


「なんですって」


 リヒトは二人部屋を一人で使っていて、そこから彼の荷物がなくなっていた。


「なんてことだ」


 子どもがいなくなったことを心配し、他の奉公人たちと司祭が慌ただしく話している間、ジュリウスは残されたわずかな荷物を調べていた。生活用品に、嗜好品、読み物、雑誌……。宿舎の入り口に備え付けられている外出用のランタンに、昨日シャッテンが使っていたものを確認する。


「司祭様。奉公人たちに聞きたいことがあるのですが」


「呼び集めますか」


「いえ、一人一人にして下さい」



◇◇◇◇◇◇



「それでそのシャッテンという人物の、手がかりはつかめたのかい」


「いえ、おそらくもう見つからないと思います」


「理由は?」


「リヒトという偽名を使って、どこかに潜り込むプロと思われます。おそらくそういう生活を長い間、送ってきているのでしょう」


「長い間? 少年なのに?」


 ジュリウスはずっと考え込んでおり、リックと視線を合わせようとはしなかった。


「シャッテンは成人男性なのではないかと思います。見立てでは二十代後半から三十代ぐらいの。最初に会ったとき、私はローブを着た姿を見て、そう思いました。背は低かったですが、腰回りに対して肩幅がありましたし、喉仏も発達しています。なにより手の大きさが少年とは思えません。そして声の低さも」


「でもそういう少年っていない?」


「否定はしません。同一人物と思われるリヒトの話を聞いた所、同じように少年という年齢の割には……」


「不自然な点があったと。そんなに童顔だったの?」


「はい。振る舞いも子どもっぽかったそうです。それで誰もおかしく思わなかったとか」


「……ジュリウス君がそう思ったきっかけは?」


「………………寝台に隠されていた雑誌が、性の指南本だったのですが、妙に具体的なものでした。それ自体に色気はなく、普通の少年にはつまらないものです。女性に縁がないはずの世代が読むものにしては、違和感を覚えました。また雑誌や読み物に関しても、勤め人向けの政治を織り込んだ内容が多く……。軍などの組織で働いた経験がある人間向きです。なんというか、どれも若者が読むにはぴんと来ないものばかりで。……こればかりはそういった印象を持ったとしか言えないのですが」


「リヒトを直接知っている少年たちはなにか?」


「取り立てて目立つことは言っていませんでした。ただ、『リヒトの話す夜伽話は、生々しくて気持ちが悪い』と同じ証言をしたのが印象に残りました」


「靴は?」


「使い古して足に馴染んだ軍靴。サイズはぴったりで靴紐の予備が残っていました」


「……ぴったりの靴を長期間、履いていると」


 リヒトくらいの年齢なら、余裕のあるぶかぶかな靴をはいているのが普通だ。成長を見越して大きめの靴を手に入れ、つま先に古布をつめて履く。だから少年たちは歩くときに、つま先を上に向け、かかとから足を降ろす独特な歩き方をするのだ。


「ジュリウス君はもう見つからない、隠れるプロだからと言うけど、なにもかもを偽って、別人格を名乗っても、彼の足跡は案外、あちらこちらに残っているね。その内どこかで遭遇するかもしれないよ」


 東西をつなぐ橋の上での身投げは、今までアブサンが原因だろうと思われていた。仮の姿と思われるリヒトが姿をくらましたことで、その件数が減ったら……。一切の手を汚さず、まるで遊戯のように人を操る姿を思い出し、今までどれだけの人を追い込んできたのだろうと思うと、戦慄を覚える。


 調査官として失格かもしれないが、話したときの、なんとも言えないまとわりつかれるような感触を思い出し、二度とお目にかかりたくないと思った。


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