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卑弥呼の世界  作者: 雑賀晨
卑弥呼の世界
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第17章 いざ大倭国へ

いよいよ、高島宮を出て、大倭国に向かう。

第1節

 275年に晋国の洛陽で疫病が流行り、この疫病は結核だと推定できる。晋国の武帝(司馬炎)もこの結核に罹ったようです。それまでの日本では結核菌など存在しなかった。この結核菌は、中国から朝鮮半島に。そして、日本に上陸した。韓の国との付き合いが多かった邪馬台国では、大量に使者が出て、国としての機能が低下し、自然消滅に至った。でも、開化天皇のいる高島宮までにはまだ及ばなかった。この結核菌の流行により、中国では道教や儒教の代わりに仏教が浸透するようになる。この時期、楽浪郡や帯方郡まで、仏教が浸透していた。日本に仏教が入ってくるのは、楽浪郡や帯方郡が高句麗に滅ぼされ、それらの郡の高官などが百済を建国してからです。

 邪馬台国に滞在していた中臣摩耶彦は身の危険を感じて、高島宮に移って来た。そして、宮殿前で息長遼瀬依と出会った。

 「マヤヒコ、邪馬台国の状況はどうだ」

 「韓の国から疫病を持ち込んでくる者がいて、そのまま邪馬台国に滞在していたら、私もその疫病に罹る可能性があるので、須那の里を出た」

 「疫病」

 「その疫病がこの高島宮にも蔓延しないように、祈祷をしようと思って」

 「それで、高島宮に すると、濊の鍛治職人を用意してくれた和邇日田斗さんは大丈夫か もし何かあれば、姥津媛が悲しむ」

 「この間、ヒダトさんに那珂の里であった時は元気そうで、姥津媛のことを心配していた こんな時期なので、高島宮まで来るのでは」

 その頃、姥津媛は開化天皇との間に彦坐王を誕生させている。第三皇子で、その後、丹波国を与えられた。その子が丹波道主命として、崇神天皇の時代に四道将軍に選ばれている。しかし、彦坐王の子で狭穂彦王がいて、崇神天皇と垂仁天皇に対して反旗を。また、彦坐王の四代後に、息長帯比売命(神功皇后)が出てくる系図もある。息長一族と和邇一族は関係が深かったのだろうか。

 中臣摩耶彦が高島宮にやって来てから間もなくして、瀬戸内海経由で児島湾に入ってきた多くの船があった。和邇水軍の船でした。

 余りにも多い船が高島に近づいてくるので、息長遼瀬依達は海岸線に出た。

 「あの船、韓の国の船ではないか この高島宮に向かっている」

 その時、中臣摩耶彦がつぶやいた。

 「あの旗印は、和邇水軍だ」

 「和邇日田斗さんが高島にやってきたのか」

 和邇日田斗は高島の南端に船を着け、高島宮に現れた。その時、中臣摩耶彦が和邇日田斗に声を掛けた。

 「ヒダトさん、ついに来ましたね」

 「ヒメは、元気にしているか」

 「ハハツヒメがミカドの子をお産みになりました」

 「そうか、私の孫だな 名前は」

 「ヒコマス君です」

 「ミカドに挨拶したあと、孫の顔を見に行こう」


第2節

 和邇日田斗は、中臣摩耶彦や息長遼瀬依との再会に笑顔で応えた。そして、宮殿に向かう時に部下に。「馬を連れてこい」と声を掛けた。開化天皇に貢ぎ物として、韓の国から連れてきた。

 日本に蒙古産の馬が入ってきたのは、弥生時代後期でモンゴル高原から朝鮮半島経由で、対馬に渡り、北部九州にたどり着いた。馬の種類は小型馬で、モンゴル高原で家畜馬としての遺伝子を持つ。古墳時代になって、埴輪の馬のように馬具が金属製で作られ、軍馬としても使われるようになった。開化天皇の時代には、馬自体が高級なものとして扱われた。和邇日田斗が連れてきた馬には、鉄で作られたあぶみ、絹糸で編んだ腹帯、木製で装飾された鞍が馬の胴体に乗せられ、馬の口を固定させる鉄のくつばみ金具と面掛(馬の顔に巻く細い紐)が付けられていた。

 「立派な馬だ」

 「ミカドに差し上げるために、弘済の里から船に乗せて連れてきた」

 「ヒダトさん、宮殿に案内しましょう」

 この和邇日田斗が高島に来たという知らせが開化天皇にも知らせられた。そして、開化天皇と姥津媛が居間の正面に座り、和邇日田斗が来るのを待っていた。和邇日田斗は、宮殿に入り、居間に案内された。

 「ミカドにお会いできて幸せです」

 「ハハツヒメも父に会うのを楽しみにしていた」

 「ミカドがいよいよ東征されると噂で聞いて、弘済の里から駆けつけてきました」

 「そうであったか」

 「これから、ミカドの配下として務めさせて頂きます その印として、弘済の里から馬を連れてきました」

 「馬を」

 「縁側に待機させております」

 開化天皇は立ち上がり、縁側に出た。

 「ミカド、馬に乗られますか」

 「乗ってみよう」

 開化天皇は縁側から降りて、馬がいる庭に。そして、馬の首を撫でた。馬も鼻を揺さぶって、「ヒヒーン」と鳴いた。それから、開化天皇は、鐙に足先を入れ、鞍に手をやって、馬の胴体を跨ぎ、鞍の上に。

 「ミカド、よくお似合いです」

 宮殿にいた者は開化天皇の姿を見て、手をたたいた。拍手喝采となった。

 「よきものを貰った 大事に扱おうゾ」

 和邇日田斗は開化天皇の姿を見て、満足そうな笑みを浮かべた。それと、もう一つ宮殿に来た目的は、姥津媛の子、彦坐王にあうことでした。

 「ヒダト、これから宮殿でゆっくりと寛ぐように ハハツヒメ、父上を案内しなさい」

 「ありがとうございます」


第3節

 開化天皇の指示で、息長一族は五所の里で密かに鉄器の軍用品を作り、それも大詰めに差しかかった。その軍用品の運搬は安曇一族が担当していた。墨ノ江の里から群家の里経由で高島宮へ。その運搬船に曽根の里や四ツ池の里に派遣されていた大伴賀馳誉狸が便乗して、高島宮に。そして、宮殿に飛び込んできた。

 「カチヨリ、どうかしたのか」

 「河内の国に、ミカドと同じように倭国の統一を掲げた大王がいます」

 「なんだと」

 「ミカドより先に大倭国に入り、磐余の里(奈良県桜井市阿部・池之内から橿原市池尻の範囲)に移ろうとしています」

 「そこに宮殿を建てるつもりか」

 「そのようです」

 「それは、まずい」

 現在では、池の様相は見られないが、万葉集の時代には磐余池存在した。第三十八代天智天皇の子、大津皇子の辞世の句として「百伝ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日の見てや 雲穏りなむ」とある。第17代履中天皇が磐余池を造築して磐余稚桜宮を築いた土地です。日本神話で神武天皇が東征して、橿原の地に着いた時に、その地元の豪族、兄磯城えしきが「磐余邑」で陣を置いた地でもある。

 『古事記』の「神功皇后記」には、神功皇后が描かれ、第15代応神天皇が登場します。この履歴年表をみると第14代仲哀天皇が362年に急死し、この子の麛坂皇子と忍熊皇子を近江で戦って勝利し、363年に磐余若桜宮で摂政となったとある。履中天皇は、神功皇后の曽孫にあたる。記紀にはそのように磐余の里を扱っている。また、初代天皇とされている神武天皇の別名は、カムヤマトイワレビコノミコトとなっていて、作られた名前だとは思えるが、「イワレ」が入っているのには、何かの意味があるのでは。

 この磐余の里に宮を置いたのは、応神天皇の5世後の子孫とされている第26代継体天皇も最後の宮は、磐余玉穂宮だった。応神天皇の宮は軽島豊明宮(奈良県橿原市大軽町)で磐余の里から近い。その後、難波大隅宮(大阪府大阪市東淀川区大桐5丁目)で最後を過ごしたと言われている。第16代仁徳天皇は難波高津宮(大阪府大阪市中央区高津)でどちらもその当時は、海辺に面していた。神功皇后が妃になったのは仲哀天皇で、それ以後応神天皇と繋がる。仲哀天皇の父は、皇位継承がなかった倭建命(やまとたけるのみこと)です。普段は、日本武尊として伝説の人物だけれど、実際に存在していたか疑問です。倭建命は、第12代景行天皇の子となっている。この皇位継承は、第10代崇神天皇、第11代垂仁天皇と実在人物でした。崇神天皇は磯城瑞籬宮(奈良県桜井市金屋)に宮を、垂仁天皇は纒向珠城宮(奈良県桜井市巻野内)を宮に、纒向の里の宮殿です。景行天皇は纒向日代宮(奈良県桜井市穴師)に宮を、この宮も纒向の里にあります。

 このように、3世紀後半から4世紀に掛けて、大倭国では開化天皇率いる勢力が指導件を持っていたが、磐余の里にも新勢力が芽生えていた。

 「カチヨリ、その勢力を監視するのだ 場合によっては、カチヨリに一部の軍を与えよう」

 「磐余の里にも、私の軍を備えましょう」


第4節

 五所の里で鉄器の軍備品が完成し、吉備からの軍勢も高島宮に集まって来た。おおよそ、その吉備の軍勢を合わせて、1000人程が集まり、大倭国に行く船も息長一族、安曇一族、和邇一族合わせて100隻以上になった。その先頭には、安曇の船で海路を誘導し、そのあと、息長の船には、開化天皇、後の崇神天皇、伊香色謎命が乗り込み、そのあと和邇の船、そこには、開化天皇が乗る馬と姥津媛と幼い彦坐王が乗った。

 船団は児島湾を出て、瀬戸内海を東に向かった。そして、播磨灘に。淡路島を右手に、明石海峡を通過する時、波がきつくて、船が揺れたが何とか通過し、河内湾に入り、現在の大阪府大阪市北区長柄東の毛馬閘門辺りから河内湖に入った。河内湖の東湖岸の白肩の津(大阪府東大阪市加納)に向かっていた。そこの船着場で船から降りて、生駒山を越えて、大倭国に入る予定でした。

 この白肩の津辺りには、物部大綜麻杵命が率いる物部一族とは違う物部の河内日下一族が草香邑(大阪府枚岡市善根寺町)で住んでいました。開化天皇の軍船近づいてくるに恐怖感と適地国の軍が攻めてくると勘違い。そこで、河内日下一族は、弓矢や剣を持って、孔舎衛坂(くさえのさか:大阪府牧岡市日下町)に上がり、開化天皇が馬に乗り、その後軍備を整えた軍隊が続いた。開化天皇の一族は、最後尾から兵隊に囲まれるように行進してきた。そして、孔舎衛坂に差し掛かったとき、開化天皇に向けて弓が放され、矢は開化天皇の肩に突き刺さった。慌てた馬が「ヒーヒー」と鳴き、後退した。開化天皇を守るべく、護衛兵は開化天皇を囲み、後方にいた兵士が孔舎衛坂を駆け上り、河内日下一族と戦闘状態になった。その後、開化天皇の肩の治療もあって、白肩の津に引戻った。開化天皇軍の立て直しのため、船着場に泊めてあった船に滞在することになる。

 その頃、大倭国にいた物部大綜麻杵命に開化天皇が河内湖の白肩の津に着いたとの連絡が入った。

 「物部日向馬を呼んでこい」と手下に伝えた。

 「ヒュウマ、ミカドが河内の白肩の津に着いたとの連絡が入った 迎えに行ってくれるか」

 「はい、承知しました」

 物部日向馬は、奈良湖に出て船で亀の瀬に出て、恩智川を北上した。そして、白肩の津についた。何故か、もの静けさを感じた。開化天皇が乗船している船に飛び乗った。

 「ミカド」

 物部日向馬が、声を掛けた瞬間、目の前の状況に。開化天皇は横たわり、左肩に布が巻かれていた。

 「ミカド、どうしたのですか」

 「この辺りの一族が、私らに向かって攻撃してきたのだ」

 「この辺りの一族 河内日下一族ですね」

 「知っているのか 河内日下一族は我々と戦うつもりなのだ」

 「河内日下一族は、私らの物部一族ではありますが、物部大綜麻杵命が率いるわが一族とは異なります でも、一族同士での繋がりがあります 河内日下一族の住みかは草香邑です 私も、その一族の首長を知っていますので、攻撃をやめるように交渉してきます」


第5節

 物部日向馬は、首長の日下部途美倭(くさかべとみや)に会うため、草香邑に向かった。

 「ヒュウマさん、白肩の浦に得体の知れない船団が近づいて来て、大倭国に攻めるのではないかと それで孔舎衛坂から攻撃しました 激戦になったのですが、敵軍が白肩の津に引いたので、今、硬直状態です」

 「トミヤさん、その軍は敵軍ではないです」

 「敵軍では」

 「違います 日向国から東征され、大倭国に向かわれていますミカドの軍です」

 「何ですて」

 「これから、ミカドとお仕えする軍に対して、反旗を」

 「そうなります」

 「大変なことをしてしまった」

 「ミカドも負傷されています」

 「ヒュウマさん、ミカドのところまで連れて行ってくれませんか 謝罪させて頂きます」

 「では、私が仲介に入りましょう」

 「お願いします」

 物部日向馬と日下部途美倭は、開化天皇がいる白肩の津に向かった。

 「ヒュウマ、話が付いたか」

 「はい、ここに張本人を連れて来ています 謝罪したいと」

 「ミカド、大変申し訳ありませんでした 許して頂けるとは思いませんが、もし、許しを得ましたら、今後は誠心誠意務めて参ります」

 「今回のことは、大目に見よう その代わり、これからはしっかり務めよ」

 「ありがたきお言葉、ありがとうございます」

 それ以後、ヤマト王権で、日下部として、物部と共に朝廷に務める事になる。

 開化天皇の左肩の傷が癒えた段階で、大倭国に向けて出発する事になった。

 「傷も良くなったことだし、大倭国に出発しようと思う 案内役は、物部日向馬に頼む」

 「了解しました」

 物部日向馬が乗った船が先頭になり、白肩の津から恩智川に入り、信貴山と葛城山の間を流れる大和川水域の亀の瀬から奈良湖に入った。そして、東に進み、奈良湖の北東海岸から大和川に入った。大和川の支流、布留川があり、この川の上流に物部一族の布留の里がある。ここに、息長遼瀬依の実親、物部伊那部と阿木沙都姫がいる。その布留川を通過して、初瀬川(大和川の上流)を上ると江包邑えつつみむらに着いた。ここで、船から降りて、すぐの所に纏向の里があった。

 「ミカド、ここから宮殿までは3里ほどです」

 この当時の1里(約500m)は中国から渡ってきた測量法を使用していたため、3里では1500m程でした。

 纏向の宮殿には、物部大綜麻杵命と物部伊香色雄命が宮殿前で、開化天皇が来るのを待ち侘びていた。そうすると、馬に跨がった開化天皇の姿が。そして、後に続く大集団が。

 「父上、ミカドの姿が見えます」

 「ようやく、来られた」


第6節

 開化天皇は宮殿に入り、居間の正面に座った。そして、物部大綜麻杵命と物部伊香色雄命は対面で座り、左側に息長遼瀬依以下、今まで開化天皇に同行してきた面々が、右側には物部日向馬以下、物部大綜麻杵命の配下の者が座った。

 「皆の者、これからミカドを支えて行こうぞ」

 居間にいた者が一斉に「おぉー」と声をあげた。

 「これから、倭国の統一に向かって前進していく 皆の者、しっかりと頑張って貰いたい 邪馬台国がやろうとしたことを引き継いで行う そのためには、内部を固め、反対勢力を打破しなければならない 特に西国の勢力と東国 それに出雲の勢力を我が配下に治めなければならない そのためには、先ずは軍事力の強化だ 物部一族には期待している」

 この当時、物部大矢口宿禰命が香澄の里から大倭国に移ってきてから、各地の物部一族を纏め、軍事力を強化し、西国や出雲や東国に主要な家来を送り込んでいた。そして、その地方に争いがあると物部一族の軍事部隊を送り込んだ。各地の治安部隊と言う役目を持っていた。そのため、その報酬として、その地方の特産物を手にすることができた。これは、古代における治安維持のため、支払う税のようなものでした。

 居間にいた者は、開化天皇の言葉を真剣に聞いていた。そして、開化天皇は。

 「今回、大倭国に皆の者を導いたが、この纒向の里に来たのを期に、ミカドを退き、我が子をミカドとして仕えて欲しい」

 その時、居間ではざわめきが湧いた。次期天皇になったのは、崇神天皇でした。

 「次期ミカドから今後の方針を発表してもらう」

 「今、ミカドから推挙されたミマキノスメラミコです 多家の里で三角縁神獣鏡を量産して、瀬戸内の首長に配り、我が王権に賛同して貰った そこで、その地区に我らの王権から派遣した国造を置こうと思う それによって地方の首長達を服従させ、軍事面でも政でも支配しようと思う また、伴造を設けようと思う この伴とは我が王権に奉仕・従属する一族を指し、その首長に伴造になって貰う その他、我が王権の職務を遂行した一族には、の称号を与えよう」

 物部というのも、この部民制によって名付けられた名前です。その当時、物部一族の血縁関係のない人達もその集団に所属していたら、この制度によって、物部と名乗ることができた。物部とは、物を調達することができる部と言う意味です。この部民制により、ヤマト王権を支える豪族は、私有地とその土地の民を支配することができるようになった。

 天皇の地位を崇神天皇に譲った開化天皇は、左肩に負傷した後、その古傷のため体調を崩して、崩御されることになった。その遺体は、三輪山西側の山里で、古墳時代初期の箸墓古墳の東側の丘陵地帯に葬られた。宮内庁では開化天皇陵は、奈良県奈良市油阪町字山ノ寺にある念仏寺山古墳と断定していますが、この古墳は奈良公園の西側にあり、纒向の里から北に約18㎞で考え難い。箸墓古墳の東側にあるホケノ山古墳ではないか。この古墳の埋葬者は不明で、箸墓古墳と同年代の古墳です。


開化天皇一行は、ようやく纒向の里に着き、宮殿で新しいミカドになり、ヤマト王権の出発となった。

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