第10章 大和の地
卑弥呼が女王に就いたころ、物部一族が大倭国に移動しはじめる。
第1節
邪馬台国の時代から古墳時代にかけて、日本全体に降水量が増え、弥生時代前期や中期のように湿地帯での稲作が出来なくなった。湿地帯にあった水田は、雨のために水浸しになり、山からは土が緩み、川に沿って、土砂が流れ込んだ。そのため、お米の収穫が減少し、餓死者が急増した。それは河内平野や関東平野でも同じであった。このため、稲作の地も平野部に移動するしかなかった。平野部では水田をするための水を確保しなければならず、山から流れて来る川の水を水田まで流す水路が必要になった。それで、水路構築のため土地を掘り、その土をその当時の大王の墓として、古墳を構築した。何故、この時期だけに古墳が多いのも、そのような気候変動と稲作の水田確保が原因である。
安曇厨紀弥は、このような気候変動により、住民の移動を余儀なくなり、厨紀弥の船で新天地に移動させるのを請け負っていた。久しぶりに、香澄の里の大王から声がかかった。
「ズキヤ、久しぶりだ」
「オオヘソキさまを西国にお連れして以来ですね」
「オオヘソキは、元気にしておるか」
「はい それと、大王の孫娘のイカガシコメ姫は、日向国の大王のところに嫁ぎました」
「あの頃はまだ幼かったのに もうそのような年になったのか」
「今回、お呼びになった要件は」
「この香澄の里も、この天候不順で、稲作が不作続きで そこで、新天地に移ろうかと思っている この間、尾張鬽仛耶鰢が来て、何処が新天地にいいか聞いた」
「ミタカメは、伊勢か琵琶湖の沿岸を進めてくれた」
「私たちの本拠地は河内の墨ノ江の里ですが、河内にしますか」
「稲作が出来るところがいい琵琶湖もいいのだが、わしの叔父が早くから移り住んでいる服部の里に 伊勢は尾張一族の本拠地だし」
「では、大倭国はどうですか」
「どんなところだ」
「周りが山に囲まれていて、山から流れて来る川も多くあり、その川の水は、河内湖に流れています 稲作する土地も広く、十分、大王の氏族を賄えると思います」
「そうか、大倭国にするか それでは、オオヘソキに大和で住ませて、様子を伺ってから」
「それでは、オオヘソキさまに大倭国に行くように伝えてばいいですか」
「そうしてくれるか」
その当時、大倭国の唐子・鍵の里(奈良県磯城郡田原本町唐古)では、吉備国から移住して生活をしていた。そこには、岡山市東区草ケ部などから取れた鉄鉱石を唐子・鍵の里に運んで、鉄器の製造もしていた。
奈良県天理市布留町より南の山の辺の道一帯を物部氏が占めていた。そして、皇室が日向国からやってきた時、物部大綜麻杵命と物部伊香色雄命は、大阪府交野市の哮峰に移動した。後に、物部伊香色雄命は、天理市布留町に石上神宮を建立して、七支刀を奉納している。
第2節
安曇厨紀弥は、香澄の里から河内の墨ノ江の里により、何隻かの船を用意し、肩野の里に向かった。
厨紀弥達は、肩野の里の船着場に着いた。船を待機させ、安曇厨紀弥は物部大綜麻杵命の居館に向かった。
「ズキヤ、今日は何の用事だ」
「それが、父上さまが香澄の里から大倭国に移られることになって」
「なに、父上が大倭国に なぜ」
「香澄の里も、天候不順で稲作が不作と聞いています」
「香澄の里でもか」
「それで、良い土地はないかと それで、大倭国の地をお勧めしたところ、大倭国の地に決められました」
「父上は、いつ頃に移られるのか」
「取り敢えず、オオヘソキさまを大倭国に行かせると」
「わしをか」
「オオヘソキさまが大倭国で地盤を作ってから、父上さまが移られるとの話です」
「それでは、めぼしい部下を連れて、大倭国に行くか」
「大和に行かれるまで、船を待機させておきます」
物部大綜麻杵命は、伊那部を呼び出した。
「イナベ、香澄の大王の命令で、大倭国に行くことになった そこで、三輪の里に行ってニタヤに来るように言ってくれないか」
「オオヘソキさま、大倭国に移動されるのであれば、ひとり連れて行きたい人がいます」
「それは、誰だ」
「三輪の里にいる三輪迦麻瀬を連れて行っていいですか」
「それは、イナベに任す」
伊那部は三輪の里に行き、物部二田弥に物部大綜麻杵命の居館に来るように伝え、その足で、三輪迦麻瀬を訪ねた。
「イナベさま、また、倭面上国のことですか 倭面上国もこの飢饉でかなり堪えているみたいです 私もそろそろこの地を離れようかと思っていたところです」
「今回は倭面上国でなく、私らは大倭国に移ることになった」
「大倭国に行かれるのですか」
「それで、リキセさんがよければ、私と一緒に大倭国に行かないかと思って」
「それでは、私も連れて行ってください」
この三輪迦麻瀬は、物部大綜麻杵命が大倭国に移住すると、河内国美努村(現在 大阪府八尾市上之島町南)に落ち着いた。崇神天皇の時代に疫病が流行り、夢の中で大物主神が現れ、「大田田根子(古事記:意富多多泥古命)を探し出して、三輪山の神、大物大主を祀らせよ」とお告げがあった。そこで、物部伊香色雄命が大田田根子を探し出し、神に捧げる物を取り寄せて、疫病が治まった。この大田田根子の祖父が三輪迦麻瀬です。
第3節
肩野の里にいる物部一族と三輪の里の物部一族が、物部大綜麻杵命の居館に集まった。
「このたび、我らは大倭国の地に行くことになった」
その時、みんなの中から響めきの声があがった。
「そこで、この肩野の里と三輪の里に残りたい者は立ち上がれ」
すると半分ぐらいの者が立ち上がった。その中には、物部二田弥もいた。
「ニタヤは、この地に残ってほしい いずれは大倭国に呼ぶかも知れないので、この地の物部一族をまとめてもらいたい」
「では、残りのものは家族共々、大和に向かう 明日に肩野の里の船着場に集合するように」
伊那部も立ち上がらなかった。伊那部は、阿木沙都姫と10歳になった日向馬と武斬弥を共に大倭国へと移動しなければならなかった。律令制が施行される以前は大和を大倭国と言っていた。大倭国から大和になったのは、藤原京の時代も倭国との表記もあり、天平年間に大倭国から一時、大養徳と改めてられたが、直ぐに大倭になって、奈良時代の757年頃から大和国になった。630年頃からヤマト王権は、唐に遣唐使を送ることになり、当初は、日本の国名を大倭国或いは倭国としていた。それが倭国から日本明記になったのは、700年頃からで、特に日本書紀が編纂された720年日は、その当時日本と言ったり、倭国と言ったりしていたが、757年に大倭国を大和国にした事で、対外的には日本国となった。現在、律令制が施行された頃の朝廷を大和朝廷と言ったりしているが、実際はその当時でもヤマト王権と言うのが正しい。大和朝廷と言えるのは奈良時代からです。日本明記の元は、厩戸皇子(聖徳太子)が隋に遣隋使を送る時に、日の出る天子から日の沈む天子に送った書状から来ているとされている。日本の国名は、対外的以外では使われなかった。使われるようになったのは、明治以降です。日の丸は、平安時代後期から武士社会になって、陣旗として使われていたが、正式に日本国の国旗となったのは、江戸時代末期の幕末の頃からです。
肩野の里の船着場には、どくどくと人々が集まって来た。物部大綜麻杵命の側には、高屋阿波良姫と伊香色雄命がいた。そこに、伊那部達も。
「みんな揃ったか」
「はい」
「それでは、大倭国に向かう みんな船に乗り込むのだ」
安曇厨紀弥の船には、大綜麻杵命の家族と伊那部の家族が乗り、残りは他の船に別れて乗り込んだ。
厨紀弥の船団は、瀬戸内海を通って、河内湾に入り、河内湖から大和川を昇って行った。亀の瀬峡を通って王寺に入り、その当時、奈良盆地も奈良湖だったので、山の辺の道はその奈良湖の湖畔に辺り、その湖畔を北に進むと布留川に入った。
「オオヘソキさま、もうすぐ着きます」
「山に囲まれた土地だな」
「そうです」
別の船に乗っていた三輪迦麻瀬は山々を見て、三輪の里の山々に似ていると思った。後に、三輪迦麻瀬は、奈良県桜井市三輪にある山を三輪山と名付ける。安曇厨紀弥の船団は、布留川の上流の布留の里に着いた。
第4節
物部大綜麻杵命達が、安曇厨紀弥の船から降りた時、そこには、尾張鬽仛耶鰢が待っていた。
「オオヘソキさま、長い船旅、お疲れでした」
「ミタカメ、久しぶりだね」
「この間、香澄の里によったとき、大王が、大倭国に移ると聞いて、この布留の里を用意しました そして、ズキヤにこの地に来るようにと」
「そうか、父上が来るまでに、この地を開墾して、稲作が出来るようにしなければ」
「大王が住まわれる屋敷だけは、用意しましたので案内します」
この布留の里の居館跡に、後の石上神宮が建築される。物部大綜麻杵命と高屋阿波良姫と伊香色雄命が尾張鬽仛耶鰢と共に新しい居館に入った。
「ミタカメは、この辺りに詳しいのか」
「私は、唐古・鍵の里にいます 元々は伊勢国の志摩の里にいましたが、唐子・鍵の里に移って来ました」
尾張一族は、安曇一族と同じ海人系で、伊勢湾一帯を本拠地としていた海の民でした。また、尾張一族の祖先神は、天火明命或いは饒速日命であり、物部一族とたもとを別れたとも言われています。尾張一族には、京都府宮津市大垣の籠神社を創建した海部氏や大阪府大阪市住吉区住吉の住吉大社を創建した津守氏がいます。愛知県名古屋市熱田区神宮の熱田神宮も平安時代まで、尾張氏が管理していた。尾張氏の祖神で、天香山命は高倉下と同一神で、神武東征の熊野で起こった悪霊のために気を失った時に、布都御魂の剣を持って来た神。そして、天香山命は物部氏の饒速日命の子、宇摩志麻遅命の異母の兄にあたる。平たく言うと物部氏とは同族となる。天香山命の名前からすると、奈良県橿原市に大和三山のひとつ、天香久山があり、山の神を祀っている天香山神社がある。このことは、天香山命、尾張一族も大倭国にいたことになる。
唐古・鍵の里(奈良県磯城郡田原本町唐古)は、縄文時代後期から縄文人が住み着き、奈良湖の沿岸に位置していた。それが、弥生時代後期の気候変動で降水量が増え、一時は奈良湖が拡大した時期もあった。その後、亀の瀬峡から河内湖に水が流れ、元の唐古・鍵の里に戻った。その時期に吉備国や尾張国の人々が住み着き、更には渡来人もこの唐古・鍵の里に。そして、纒向の里(奈良県桜井市東田)にヤマト王権が本拠地を置いた頃に、唐古・鍵の里から纒向の里に移った。
「唐古・鍵の里は、どのようなところですか」
「元々は、奈良湖の岸辺で湿地帯に稲作を行っていたのですが、この間からの雨続きで一時、住めない状態にもなりました それが、天候がよくなり、水が引いたために新しい村を構築している最中です」
「布留の里も同じだったのですか」
「ここも奈良湖の水がこの辺りまで来ていましたが、ようやく水も引いて、稲作が出来る状態になりました」
「では、大王が来られるまでに稲作ができるように整備しなければならないな」
「この大倭国に多くの人が集まり、各地の中心にしたいのです」
「そうするには、邪馬台国の卑弥呼のような中心人物が必要だな」
「唐古・鍵遺の里から東に行くと纒向の里があり、そこに中心になる政権を作りたい」
物部大綜麻杵命は、頭の中で日向国の大王を中心人物に据えることを考えていた。
第5節
布留の里も集落らしくなり、水田も増えてきた。香澄の里から大王を迎える準備が整った。伊那部も、水田の用水路を布留川から引く工事を任されていた。以前、佐倉の里で印旛沼から水路を作った経験があった。布留川から引く水路で掘り出した土の処分を大綜麻杵命に相談しようと居館を訪ねた。
「イナべ、用水路は完成に近いか」
「それが、掘り出した土の処分をどうしようかと思っています」
「そうだな、集落の環濠を構築するにも土が余る ではこうしよう 山の麓に纒向の里に通じる道があるだろう その道に沿って、山の反対側に土を積むようにしようか」
布留の里から纒向の里まで、稲作が出来る土地が、奈良湖の湖水が減少することによって、水田面積が増加し、その分の用水路が必要になり、掘削が行われた。それによって、山の辺の道沿いに小山がいくつかできた。この小山の利用として、その当時の権力者の墓地となった。これが、古墳です。そして、古墳時代が始まる。
「イナべ、そろそろ父上をこの布留の里に迎えようと思う それで、香澄の里まで行ってくれるか」
「はい それと大王の弟君、ミセタヒコさまもお連れしていいですか」
「もちろん」
「アキサトヒメも喜ぶので」
「迎えに行く船は、ミタカメに頼んだ」
一方、香澄の里では、安曇厨紀弥が大倭国に大王達の移住の準備が出来たとの報告が入った。香澄の里の大王の居館には、榎浦の里の物部美世太彦がやってきた。
「大王、大倭国へ」
「移住する準備はできているか」
「いつでも」
物部美世太彦は、物井の里にも声を掛け、榎浦の里に集結させていた。
大王(物部大矢口宿禰命)も、千賀ノ浦の里の物部佐古米にも声を掛けて、物部一族を香澄の里に集結させていた。
布留の里の船着場には数十隻の船が並んでいた。
「イナべさん、この船にお乗りください」
「ミタカメさん、よろしくお願いします」
物部伊那部と尾張一族の船は、香澄の里に向かった。そして、香澄の里の船着場に着いた時、大勢の物部一族が集まっていた。
「あの船集団が、大倭国から来たのではないか 大王に報告しろ」
船着場に物部大矢口宿禰命が現れ、そこには大綜麻杵命の弟、内色許男命の姿も見えた。その他に、伊那部の父、物部佐古米や叔父の物部摩鰖部もいた。
「兄上、あそこに乗っているのは、イナべではないか」
「我らを向かいに来てくれたのだ」
伊那部が乗った船が船着場に着いた。
「イナべ、元気だったか」
「おじも、父上も」
「これから、大倭国で家族一緒に暮らせる」
「父上を迎にこられて嬉しいです」
「イナべ、アキサトは元気か」
伊那部に声を掛けたのは、物部美世太彦でした。
「はい、姫は父上に会えるのを楽しみにしています」
物部大矢口宿禰命以下、物部一族は、尾張鬽仛耶鰢が用意した船に乗り込んだ。
第6節
物部大矢口宿禰命を初めとして、物部一族は布留の里に着いた。その頃には、布留の里に大集落が構築され、その中心に大王の居館があり、その大集落の周りを囲むように環濠が増設されていた。物部大矢口宿禰命は、物部伊那部に案内されて布留の里の居館に着いた。そこには、物部大綜麻杵命と物部伊香色雄命が物部大矢口宿禰命を出迎え、居間に入った。その居間には、物部一族の面々が座り、物部大矢口宿禰命が中央に座った。
「我らは、この地で新しい国を作るために東国からこの大倭国に移ってきた この地を中心にして、物部一族が東国や西国に広がって行くこと願っている」
物部大矢口宿禰命がこれからの一族の抱負を述べた後、物部大綜麻杵命が。
「大王を中心にして、これから国づくりを始めましょう」
大綜麻杵命の言葉に皆が賛同し、大矢口宿禰命の方へいっせい向いた。
「オオヘソキの言うように、我らは新しい国を作ることにした その名はヤマト王国。それでだ、ヤマト王国を作るに当たって、新しい国には新しい大王で始めたいと思う 私はもう老輩の身であり、大王を引退して後続に任せようと思っている」
皆は、少し驚いた様子であった。
「そこでだ、新しい大王には我が子のオオヘソキに譲ろうと思う 皆、それで同意してくれるか」
このヤマト王国は、第10代崇神天皇からのヤマト王権の前身です。時代的には、中国で後漢が滅亡し、魏・蜀・呉の三国時代が始まった頃です。でも、その当時の邪馬台国のように倭国の代表と言った意識なく、魏からの使節団も来なかった。それよりも、日本の各地の勢力をこの地に集中させることを目的としていた。その点、物部一族は全国に散らばっていて、一大勢力であったことは確かです。日向国にいた天皇家(孝元天皇・開化天皇・崇神天皇)がこの大倭国に移動してきた時、物部大綜麻杵命が支配していた布留の里と唐古・鍵の里と纒向の里を譲ることになります。その当時には、天皇家と物部氏とは密接な関係があったようです。『古事記』にしても『日本書紀』にしても、後世の言い伝えを720年頃に編纂したので、時代感覚があやふやですが、200年前半の邪馬台国の時代に卑弥呼ばかりが注目され、天皇家では綏靖天皇から開化天皇までを「欠史八代」と言われ、記紀でも主だった物語がなく、系図が主になっています。「欠史八代」の時代が邪馬台国の時代に凝縮されていると仮定したら、天皇家と物部氏の関係を探ることにより、仮説が立てられます。
天皇家と物部氏の関係において、邪馬台国の卑弥呼の死の直前から大和を中心に古墳時代が始まります。纒向の里に天皇家が即位したのが丁度、邪馬台国の時代とダブル。そして、箸墓古墳は240年から260年と推定されているので、卑弥呼の墓とも言われています。でも、それは違うのではないか。宮内庁では、倭迹迹日百襲姫命であるとされ、孝霊天皇の子女とされている。物部内色許売命(物部大矢口宿禰命の父)が孝元天皇に嫁いで皇后になり、開化天皇と続く。また、物部大綜麻杵命の子女で伊香色謎命は、孝元天皇の夫人となり、開化天皇の皇后となって、崇神天皇を産んだ。このように、崇神天皇からのヤマト王権では天皇家と物部氏との密接な関係があったと思われる。
これから、ヤマト王権の土台作りが始まる。




