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「――ご主人様」
その声は前触れなく響き、一瞬の内に隅々まで染み渡った。
嫋やかな声音は、張り詰めていた空気を解きほぐすような柔らかさで場を支配し、そこにいた全員が息を吐くように、微かに緩んだ。
些細な、本当に小さな間の弛緩……だが、それで十分だった。
――僅か数ミリ。
まさに間一髪のところで、昧弥の腕は人工精霊に触れことなく止まっていた。
「――お時間です」
道祖の三歩後方、下腹部の前で手を重ね、深く頭を下げたダニアが静かに告げる。
彼女の声は場の空気を破壊するわけではなく、まるで手を添えてそっと後ろに流してやるような……それでいて、変わった流れに有無を言わせぬ巧みな間を作りだしていた。
数秒の間、昧弥は身動ぎせず、眼下の人工精霊の後頭部をジッと見つめた。
そして、小さく息を吐くと、今にも触れそうになっている右手を徐に引き上げた。
同時に、手を覆っていた黒色が、潮が引くように元の色素の薄い肌色へと戻っていく。
這い出てきた穴に戻る蛆のように、ザワザワと身を震わせながら肌の下へと潜っていく黒い何かに、道祖はようやく思い出したように目一杯の息を吐きだした。
その様子に昧弥は一つ鼻息を鳴らすと、人工精霊の鎖からも手を放し、羽織を翻しながら踵を返して背を向けた。
「――道祖夕里」
「――ッ! な、なんだ?」
突然名前を呼ばれたことに驚き、肩を跳ねさせてビクついている道祖に、昧弥は肩越しの視線に鋭い視線を送る。
その瞳に敵意はすでになく、触れれば切れる危うさを残しながらも、冷え切った理性の色を覗かせていた。
「……一つ、貸しにしておく。それでこの場は手を引こう。――構わないな?」
一瞬、何を言っているのか分からず、道祖はぽかんと口を開けて呆けた。
しかし、すぐに言葉の意味が脳髄に染み込み、壊れた機械仕掛けの人形のように、ガクガクと何度も頭を縦に振って答えた。
「あっ、ああ! 勿論だ! それで矛を収めてくれるなら、願ってもない!」
喜色の滲む道祖の返答に、昧弥は僅かに目を細めただけで言葉は返さず、そのまま視線を前に戻して歩き出した。
いつの間に移動したのか、主人の背後に立ったダニアが主人に代わって挨拶をするように、その場に向けてカーテシーで一礼をする。
それに対して返礼を送れる者などいるはずもないが、それも当然のことと気にした様子もなく、ダニアもまたすぐに背を向けて主人の背につき従った。
まるで何事もなかったかのように、平然と歩き去っていく二人の背を見送りながら、道祖は全身から力を抜いて、その場に座り込む。
悪逆の限りを尽くした元凶は去り、奇妙な静けさが廊下を流れていた。
そのぬるま湯のような緩慢な空気に、道祖はもう一度大きくため息を吐きだした。
「はぁ~……なんとか、なんとか無事だった……のか? ああいや。もう無事だったってことにしよう。もう、色々とキャパオーバー」
道祖は徐に懐に手を伸ばし、そういえば煙草は学園長室に置いてきてしまったことを思い出すと、投げやるように腕を放りだし、大の字で横たわった。
十秒ほど、ボーッと大きな穴が開いた天井を見つめてから、最後だと自分に言い聞かせて、体の内で渦巻く疲労や憂鬱をため息に乗せて吐きだした。
「よしッ! さて……まずは、こいつらを医務室に運んでやらんとな」
足を大きく振り上げ、反動をつけて起き上がった道祖は、そこら中に転がっている生徒たちを見回し、気合を入れるように一度頬を張った。
確かに被害は甚大、生徒の中には身体ではなく、精神の方に重い傷を負った者もいるかもしれない……だが、命を落としたものはいない。今は、それだけ良しとする外ないだろう。
道祖は自分を納得させるように二度三度と首肯した。
と同時に、心の中で一つ誓いを立てる。
――堺昧弥の周知を徹底しよう、と。
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