23
徐に持ち上げられた左手が、緩慢な動きで結紀の目の前に広げられた。
その掌には大小様々な傷が重なり、見るだけでも痛ましさに身が竦む。
しかし、その傷の下には女性らしいしなやかさも見て取れる。指先に乗っている小さな桜色の爪からは、どこか非現実的な可憐さすら感じられた。
自身と比べても明らかに小さい、女性の手だ。
――それなのに……ッ!
結紀には、その華奢とすら形容できそうな小ぶりな手が、人のものではない、何か、悍ましい異形のモノのように見えて仕方なかった。
伸ばされた指は、鋭い鎌の刃のようでもあり、無数の返しがついた鉤爪のようでもある。まるで、魂を鷲掴みにしようとする悪魔の手だ。
それがジリジリと焦らすような速度で、自分の額へと向かってくる。
「……ぁ……ぁ」
額に銃口を突きつけられているような緊張と、一寸に一刻をかけるようにゆっくりと押し寄せてくる死相に、結紀は嚙み合わない歯を打ち鳴らして震えた。
「ぅ、ァギッ!」
その手が結紀の頭に到達したとき、きっとそれは彼の終わりを意味する。
ユクもココも、それを想像するまでもなく、逃れようのない現実を肌で感じている。
だが、血が滴るほど唇を噛み締め、爪が掌を突き破るほど力を込めようと、一度恐怖に飲まれてしまった体はピクリとも動いてくれなかった。
――待って、待って待って待って!
――お願い! 結紀だけはダメ!
焦り、狼狽え、心だけが勇んでいく。しかし、どれだけ意志を燃やそうとも、体は死んでしまったように冷え切って動かない。
あまりの情けなさに、涙で視界が滲むのを二人は止められなかった。
自分たちには常人をはるかに超えて、現実すら塗りつぶす力が確かにあるというのに……。『怖い』、ただそれだけのことで、大切な人の危機に身を挺することすらできない。
これほど惨めなことが他にあるだろうか?
臍を噛むばかりの自分の無力さに、ただ打ちひしがれる外なかった。
――力が欲しい。
それは、少年と出会ってからついぞ忘れていた、理不尽への反逆を示す、渇望だった。
ブチブチと体の内で音が響く。
それは、無理に動かそうとした筋肉が断裂している音のようにも、精神が肉体を凌駕し、剥離していく音のようにも聞こえた。
ただ、確信と決意があった。
この先に、自分たちはこの恐怖を打ち破る――!
「控えろ」
――そのすべてを、この悪逆は容易く踏みにじった。
「――ぁ」
たった一言。威圧でも、脅迫でもない。ただ口をついた独り言のようなそれだけで、二人の思考は再び、底なしの闇に飲まれた。
「貴様らの相手はこいつの後でしてやる」
あまりに無慈悲な宣告。しかし、すでに嘆く者すらいない。
伸ばされる昧弥の手は、一切に阻まれることなく、結紀の頭を鷲掴みにしようと迫り――、
「ん?」
――バチィ!
雷に打たれたような衝撃が走り、弾かれた。
閃光が瞬き、昧弥の手は横合いから打ち据えられたように、結紀の頭から逸らされていた。
掌から細く煙が立ち上っている。それにしばし視線を落とし、感触を確かめるように二度、三度と握っては開いてを繰り返した。
そして、掌の痺れを握りつぶすように拳を固めると、驚きに軽く開かれていた瞳を興味深げに細め、再度笑みを浮かべた。
「なるほど……」
昧弥は、そのまま視線を結紀たちに戻し、はしなかった。
愉悦の光を怪しく灯した瞳は結紀たちを通過し――彼らの背後に忽然と現れた、長い黒髪を揺らめかせる女へと向けられた。
「これならば、私の業の圧に僅かでも抵抗してみせたのも頷ける」
昧弥はクツクツと喉を鳴らし、不機嫌そうに顔を歪める女と、それに繋がるものを嘗めるように見回した。
身に纏っている白の患者衣は、長い月日を重ねたように黄ばみ、乾いた血のような赤黒い汚れが染みついている。
その上からは、千切れた革ベルト、革製の拘束具の残滓のようなものが巻きつき、その存在が以前は縛られていたことを知らせていた。
そして何より目を引くのが、結紀の心臓、その真上から突出する黒光りする厳めしい鎖と、その先端に繋がっている首輪だろう。
だが、それは相手が普通の人間であればの話。
拘束具も鎖も首輪も、その女が泳ぐように宙を漂っていることに比べれば些細なことだ。
女は、まるで重力とは無縁であるかのように、なんの支えもなく宙へ浮かび続けている。
通常の物理法則がそこに介在する余地はない。
明らかに現実という括りからズレたその存在は、超常神秘の塊――。
「まさか他者に物理干渉できるほどの人工精霊とはな」
それは、醜悪な邪心の狂気と血肉で彩られた、哀れな魂の成れの果てだった。
☆ ☆ ☆
ツイッターやってます。
https://twitter.com/koku_ikkoku
イラストなんかも載せてますので、
お暇な時にでも覗きに来ていただけたら幸いです。
よろしくお願いします!
コメント・応援・レビューもお待ちしてます。
忌憚のないご意見をいただけると嬉しいです。




