第七十二話 ヌミディア王への道 ── ソフォニスバとの再会と別れ
シファクス捕縛の報せが西ヌミディアの王都シルタへ届いたのは、夕陽が赤く丘陵を染める頃だった。
王宮の高楼で、ソフォニスバは静かに風を受けていた。
薄い外套が揺れ、その影が長く石床に伸びている。
「王妃様……ローマ軍が、王都の門前まで迫っております」
「陛下は敗れたのですね」
侍女が震える声で頷いた。
「はい。マシニッサ王がシファクス様を捕らえ……いま、王都の門が開かれようとしております」
ソフォニスバは静かに目を閉じた。
その胸中に去来したのは恐れではなく、カルタゴの貴婦人としての気高い覚悟だった。
「……そう。あの方が、勝者として来たのですね」
その声には乱れもなく、ただ透き通った諦念だけが宿っていた。
やがて、王宮の大扉の開く音が響き、回廊を渡って高楼の階段を上ってくる猛々しい足音が近づいてきた。
高楼の扉が開き、マシニッサが姿を現した。
ソフォニスバは振り返り、静かに彼を見つめた。
マシニッサが一歩近づく。
その瞳には勝者の誇りではなく、歳月の痛みと言葉にできぬほどの想いが宿っていた。
「 ソフォニスバ。あなたを迎えに来た。……ローマはあなたを戦利品として連行しようとしている。だが、私はそれを許さない」
ソフォニスバは静かに首を振った。
「あなたはローマの同盟者。私はジスコーネの娘であり、シファクスの妃です。
あなたが私を庇うことを、ローマが許すはずもありません」
「それでも守る」
マシニッサの声は、抑えた震えを帯びていた。
「私は……あなたに初めて会ったあの日から、一刻もあなたが心から離れなかった。あなたを失いたくない」
ソフォニスバは目を伏せた。
その脳裏に去来したのは、かつてイベリアの地で、淡い約束を交わした遠い日の記憶。
「あなたをローマに渡さぬため、私はあなたを妻として迎える」
「……私を守るために、王としての未来を賭けるのですか」
「そうだ」
マシニッサは迷いなく答えた。
「愛する者を守れぬ者に、ヌミディアの王を名乗る資格などない!」
ソフォニスバは静かに目を閉じた。
その表情は、敗れた王妃ではなく、誇り高いカルタゴの貴婦人そのものだった。
「……わかりました。あなたの妻として、この運命を受け入れましょう」
その日のうちに、二人はヌミディアの王家の正式な挙式を執り行った。
それはローマの手から彼女を守るための、一人の男としての決断── 二人の未来を永遠に変える選択だった。
しかし──遅れてシルタへ入城したレリウスは、二人の挙式の事実を知るや厳しい面持ちでマシニッサへ歩み寄った。
「マシニッサ。あなたの行動は同盟軍の秩序を乱す。けっして許されることではないぞ」
マシニッサは、揺るがぬ眼差しでレリウスを見返した。
「私は彼女を守るために妻とした。彼女をローマに渡す気はない」
レリウスは短く息を吐いた。
「……スキピオがこれを聞いて、納得すると思うのか」
それでもマシニッサは引き下がらなかった。
「いかなる咎を受けようと、彼女を失うことだけは耐えられぬ」
レリウスはそれ以上言葉を重ねず、静かに去っていった。
一週間後──
ウティカへ戻ったレリウスより報告を受けたスキピオは、ただちにマシニッサを召喚する。
到着したマシニッサを天幕へ呼び出すと、静かな冷徹さで詰問した。
「マシニッサ。……何をしたのだ」
その声は低く、しかし刃のように鋭かった。
マシニッサは前へ出た。
「スキピオよ。私はヌミディアの王として、彼女を守るために──」
「王として、だと?」
スキピオの静かな声が響き、周囲の幕僚たちが息を呑んだ。
「マシニッサ。私はこれまで、あなたを若き英雄として、弟のように愛してきた。だからこそ言わねばならん。……感情に流され、自らを滅ぼすな」
スキピオは静かに一歩を踏み出した。
「ソフォニスバはカルタゴの将軍ジスコーネの娘であり、シファクスをローマから離反させた元凶だ。
彼女はローマの戦利品であり、裁くのは元老院だ。それを私情で奪い、妻とすることは、同盟への明白な背信行為だ」
マシニッサは、拳を血が滲むほど握りしめた。
「……彼女をローマへ連行すれば、見せしめとして辱めを受ける!
私にそれを黙って見過ごせと言うのか!」
「私情を殺すのだ、マシニッサ!」
スキピオの喝声が天幕を震わせた。
その瞳には、凄まじい厳しさと、哀痛が混ざり合っていた。
「マシニッサ。……あなたは王だ。王は私情で動いてはならぬ。
……私情でローマを敵に回せば、あなたが勝ち取った東ヌミディアの王位も、その未来も、すべて灰燼に帰すぞ」
マシニッサは絶句し、唇を噛んだ。鉄の味が口中に広がる。
スキピオは最後に、静かに、そして逃れようのない宣告を下した。
「ソフォニスバをローマの手に引き渡せ。……それができぬというのなら、彼女の尊厳を君自身の手で守る術を選べ」
──その夜、マシニッサは天幕の奥で激しい慟哭に身を投げたのち、静かに立ち上がり、側近に金の杯と毒薬を託した。
『ヌミディアの王として、君をローマの屈辱から守ることができなかった。
……だが、王妃としての尊厳だけは、これで守ってほしい』
使者から杯を受け取ったソフォニスバは、悲しむどころか、静かに誇り高く微笑んだ。
「マシニッサ……私はカルタゴの娘として、そしてヌミディアの王の妻として死ねることを誇りに思います」
彼女は微かに唇を震わせながらも、ためらいなく毒杯を仰ぎ干した。
──その報せを聞いたマシニッサは、天幕でひとり膝をつき、静寂の中生涯で一度きりの慟哭を夜空へ放った──。




