第七十一話 大平原の戦い ── マシニッサの復讐
この時のカルタゴ軍は総数約二万五千。
シファクス軍と合流できぬままに、ローマ軍に捕捉される格好となり、やむなく大平原に野戦の陣を敷いた。
ジスコーネは中央に最精強のケルトイベリア傭兵部隊と急造のカルタゴ新兵を配し、左翼にはヌミディア騎兵、右翼にカルタゴ騎兵を置いて、全軍を横一線に展開させた。
対するローマ軍は、スキピオが厳しい選別を経て選び抜いた精鋭一万五千と、マシニッサのヌミディア騎兵四千。
中央に三段の重装歩兵を配し、右翼にレリウスのローマ騎兵、左翼にマシニッサ率いるヌミディア騎兵を据えて陣を引いた。
スキピオが右手を高く掲げ、号令を下す。
「前進──!」
両軍が衝突すると同時に、カルタゴ軍も左右の騎兵を一斉に突撃させてきた。
「各個に敵騎兵を突き崩せ!」
スキピオの叫びに応じ、左翼のマシニッサ、右翼のレリウス率いる騎兵隊が砂塵を巻き上げて迎え撃つ。
激しい打撃音が響き、馬と馬が正面から激突した。
だが、カルタゴ軍は騎兵が圧倒的に不足していた。
マシニッサは自ら先頭に立って敵の右翼騎兵を粉砕した。
レリウスも敵左翼騎兵を瞬く間に圧倒して敗走させた。
「深追いするな! 旋回せよ!」
マシニッサとレリウスは逃げる敵を追わず、すぐさま馬首を翻した。
左右で敵騎兵を散らした両翼の騎兵隊は、大平原に大きな弧を描きながら、中央のカルタゴ歩兵の背後へと回り込んでいく。
両翼の騎兵を失った瞬間、カルタゴの急造新兵たちは狂乱に陥り、武器を捨てて後方へ逃げ惑い始めた。ジスコーネが剣を振り回して制止しようとするが、潰走の波は止められない。
しかし──中央のケルトイベリア兵四千だけは一部の隙も見せずに戦っていた。
彼らは逃げ惑うカルタゴ兵をしり目に、槍を隙間なく外側へ向け、鋼鉄の円陣を組んだ。
死ぬまで陣形を崩さぬ最強の傭兵軍団は、退路を断たれてもなお、不気味なほどの静寂を保って獲物を待ち構えていた。
「慌てるな。正面から突っ込む必要はない」
スキピオは冷静に盤面を見渡し、歩兵部隊へ旋回指示を出した。
正面で第一列に敵を受け止めさせたまま、後方に控えていた第二列と第三列に左右への展開を命じる。
ローマ歩兵団が整然と翼を広げるように左右へ展開し、ケルトイベリア兵の側面へ回り込んでいく。
背後からは、マシニッサとレリウスの騎兵が迫る。
完全なる包囲陣が完成した。
四方から押し寄せるローマの鉄盾と槍、そして絶え間なく襲いかかるヌミディアの騎槍。
ケルトイベリア兵は円陣を固めたまま最後の一兵になるまで降伏せず、最強の傭兵軍団の名に恥じぬ戦いをして果てた。
ジスコーネはわずかな側近とともに、血煙の向こうへ逃げた。
──やがて、戦鼓が止み、叫び声が消えた。
大平原を覆っていた砂塵が、風にさらわれて晴れていく。
折れた槍、割れた盾、乾いた草地には、円陣の形のまま無数の亡骸が横たわっていた。
マシニッサは馬上で剣を収め、深く息を吐いた。
「……終わったのか」
スキピオは血と砂に汚れた戦場を見つめたまま静かに頷いた。
「ああ、終わった。カルタゴは片膝をついた。
……だが、最終の決戦はこれからだ」
その声は冷徹な勝利宣言ではなく、迫り来るハンニバルとの決戦を見据えた者の重い覚悟を帯びていた。
「スキピオよ。私の真の決戦はこれからだ。
シファクスとの決着をつける。
あの男を生かしておくわけにはいかない。東ヌミディアの王位継承に介入し、かつて婚約者だったソフォニスバを奪い、私を流浪の身に追いやった── あの男には、その罪を必ず償わせる」
スキピオは静かに頷いた。
「マシニッサ。君の戦いはヌミディアのためだ。
私の戦いはローマのためだが、進む道は同じだ。
レリウスの部隊も君に同行させよう。シファクスに引導を渡してくるのだ」
大平原の砂塵が晴れた後── スキピオはカルタゴ本国を圧迫すべく北東へ向けて進軍を開始し、レリウスはローマ騎兵千五百余を率いて西へと折れた。
その隣には、砂漠の風をまとったマシニッサの四千騎が並んでいる。
二つの騎兵隊は荒野を駆け、シファクスを打倒すべく、西ヌミディアの深部へと進んでいった。
西ヌミディアの丘陵地帯では、シファクスが軍の再編を必死に試みていた。
ウティカの夜襲で壊滅した軍の残骸をかき集め、疲れ果てた兵たちを鼓舞していたが、かつての威容はもはやどこにもなかった。
ウティカで敗れたシファクスの権威は地に落ち、西ヌミディアの各部族は敗北した王に従おうとはせず、兵は一向に集まらなかったのだ。
「ローマ軍が来るぞ!」
斥候の叫びが丘陵に響いた。
シファクスは外套を翻し、荒野の向こうを見つめた。
「カルタゴ軍は破れたか……」
その声には、敗北の影と、かすかな悔恨が滲んでいた。
荒野の風が吹き抜ける中、レリウスとマシニッサは馬を並べて丘陵の上に立った。
荒野の向こうに、シファクスの揺れる王旗が見える。
レリウスが地形を指し示した。
「我が騎兵が正面の中央を突く。マシニッサ殿の騎兵は左右から側面攻撃をしてほしい」
マシニッサは静かに頷いた。
「中央はローマが担い、側面から我らが包む。それでよい」
二人は短く視線を交わし、互いの役割を確認した。
重騎兵の衝撃力と、軽騎兵の機動力が、完璧な一つの戦術として結びついた瞬間だった。
ローマ騎兵が一直線に突撃した。
鋼鉄の蹄が荒野を叩き、シファクス軍の心許ない護衛列を瞬く間に粉砕する。
同時に、マシニッサの騎兵が左右から猛禽のごとく襲いかかった。
陣列も薄く、士気も衰え切ったシファクス軍に、この圧倒的な圧力を防ぐすべはなかった。
兵たちは悲鳴を上げて散り散りに逃げ惑う。
「全軍、退くな! 踏みとどまれ!」
シファクスは自ら馬を前進させ、崩壊する味方を繋ぎ止めようと叫び続けた。
しかし、そこへマシニッサの精鋭騎兵が一斉に襲いかかる。
集中砲火のような騎槍の突撃を受け、シファクスの乗馬が絶叫とともに崩れ落ちた。
大地に激しく叩きつけられたシファクスは、泥と砂に塗れながら立ち上がろうとしたが、瞬く間にローマ兵と東ヌミディア兵の槍先によって完全に包囲された。
護衛たちは恐怖に顔を歪め、武器を捨てて逃げ去っていく。
一人残された敗残の王は、馬上で自分を見下ろす若き王を仰ぎ見た。
その顔には、隠しようもない疲労と絶望が深く刻まれていた。
「……マシニッサか」
マシニッサは馬を止め、静かに見下ろした。
荒野の真ん中で、二人のヌミディアの王がついに対峙する。
「ここまでだ。シファクス」
シファクスは砂を噛むように息を吐き、周囲を見渡した。
逃げ道はない。丘陵の影も、荒野の広がりも、もはや彼を救わなかった。
「……マシニッサ。お前が、私を討つのか」
「いや」
マシニッサは静かに首を振った。
「私にはヌミディアの真の王としてお前を討つ理由がある。だが──お前を裁くのはローマだ」
その言葉に応じるように、馬を進めたレリウスが並び立った。
「シファクス王、ローマの敵としてあなたを拘束する。武器を捨てよ」
シファクスはしばらく動かなかった。
荒野の風が破れた外套を揺らし、その影が砂地に長く伸びていた。
やがて── シファクスは力なく膝をつき、その手に握られていた王の剣が、カラリと乾いた音を立てて砂の上に落ちた。
「……終わったな、マシニッサ」
レリウスが呟いた。
「ああ」
若き王は静かに前を見据えていた。
敗れた王は、ただ砂の上に影となって伏していた。
かつてシファクスが自分の領域だと疑いもしなかったアフリカの荒野。
その荒野の上を、無情な風だけが静かに吹き抜けていった。




