第七十話 シファクス軍はまだか ── 追い詰められたジスコーネ
ウティカの夜襲による焦土の煙が、カルタゴ本国の空までたなびいていた。
夜襲の地獄からわずかな従者とともに逃げ帰ったジスコーネが告げた報せは、市民たちを底知れぬ恐怖へと突き落とした。
元老院の議場は、怒号と悲鳴が交錯する修羅場と化していた。
「ローマ軍が来る! スキピオの軍勢が、今にもこの城壁の下まで押し寄せてくるぞ!」
講和派の長老たちが悲痛な声を張り上げた。
「ただちにスキピオへ使者を送るのだ! 降伏の条件を乞い、国を存続させることだけを考えよ!」
議場が雪崩を打って降伏へと傾きかけたその時、ジスコーネが、血の走った目で壇上へ躍り出た。
その手には一通の急報が握られていた。
「降伏など、スキピオの前に首を差し出すに等しい! 我らにはまだ、戦う術が残されている!」
「ジスコーネ将軍、何をもって戦うというのだ!」
講和派が食い下がる。
「兵は逃げ惑い、シファクス王も自国へ逃げ帰ったのではないか!」
「見よ!」
ジスコーネは書状を掲げた。
「いましがた港に入港した船団よりの報せだ! かつて我らがイベリア半島で雇い入れた精鋭──ケルトイベリア兵四千が、予定通りアフリカの地に到着した!」
議場が一瞬で静まり返った。
ケルトイベリア──鋼鉄の武具を身に纏い、一度契約を結べば死ぬまで陣形を崩さぬという最強の傭兵。
「四千の鋼鉄の歩兵だ」
ジスコーネは冷酷な笑みを浮かべた。
「市内から若い市民兵を徴募し、このケルトイベリア兵を中核に据えれば、まだ戦える軍を編成できる!」
「だが……」
長老の一人が震える声で反論した。
「歩兵だけではスキピオのローマ軍団と、マシニッサのヌミディア騎兵には太刀打ちできん」
「騎兵も手に入る!
シファクス王へすでに早馬を飛ばしてある。我が娘ソフォニスバが傍らにいる限り、シファクスが我らを見捨てることはない。再びヌミディア全土から騎兵を集め、駆けつけるはずだ!」
ジスコーネの眼光に、猛将としての熱い血が滾っていた。
己の手で必ずスキピオに雪辱を果たす──その凄みが、議場を圧倒した。
──それから数日後。
西ヌミディアから砂塵に塗れた使者が到着した。
提示された書状には、シファクスの王印とともに、誓約の言葉が刻まれていた。
『我らは再び立ち上がる。全軍を再集結させ、バグラダス川中流のアッバ近郊の大平原にてカルタゴ軍と合流する。
ここに王の名において誓う』
「……これで戦える!」
元老院は一転して沸き立った。
講和を叫んでいた者たちの声は消え去り、開戦の熱狂が議場を支配した。
「ジスコーネ将軍! 市内からの徴募兵とケルトイベリア兵を率い、ただちにシファクス軍と合流し、スキピオを撃滅するのだ!」
ジスコーネは静かに頭を垂れた。
「承った」
その一言に、猛将の覚悟が宿っていた。
彼は力強く背を向け、進発の準備へと歩み出した。
西から進軍してくるシファクス軍との迅速な合流を果たし、スキピオ軍を迎え撃つべく、再編されたカルタゴの軍勢はウティカ南西の平野部へと進発した。
この間、ウティカ夜襲の圧勝劇が北アフリカに響き渡ると、かつてシファクスや対立王族の軍門に降っていた東ヌミディアの部族長たちが、雪崩を打ってマシニッサのもとへ参集し、帰順を誓った。
マシニッサは彼らの戦力を束ね、スキピオの支援を得て自領内に残存するシファクス派の駐留部隊や対立王族の残党を徹底的に掃討。
名実ともに東ヌミディアの王位を奪還していた。
そして、シファクスが軍の再集結を測っているとの情報を掴むや、宿敵との雌雄を決するべく、新編成されたヌミディア騎兵の精鋭を率いてウティカのスキピオ陣営へと急行したのである。
砂塵をまとったヌミディア騎兵が、ウティカの陣営へ駆け込んだ。
その先頭で馬を止めたマシニッサは、スキピオの前に進み出ると静かに告げた。
「シファクスが再び立ち上がった。西方の部族を集め、再起を図っている」
スキピオは目を細めた。
「シファクス軍がカルタゴ軍と合流すると厄介だな」
そこへ、砂塵を巻き上げながら偵察隊が戻ってきた。
「カルタゴ軍、新たな軍勢を本国で編成、バグラダス川中流の大平原へ向けて進軍中」
「この動きは、間違いなくシファクス軍との合流を目指している」
スキピオは地図の上に手を置き、丘陵、谷、川筋、風向きを静かに読み取った。
「大平原。ここで合流する前に叩く! 全軍に伝えよ。明朝、進軍する」
翌朝── ローマ軍は乾いた丘陵を越えながら内陸へ向けて進軍を開始した。
赤い軍旗が砂漠の風に揺れ、その影が大地の上をゆっくりと伸びていく。
その後方には、黄金の馬標を掲げたヌミディア騎兵が続いた。
砂塵を巻き上げながら進むその姿は、まるで大地を駆ける風そのものだった。
乾いた丘陵と谷が果てしなく続き、ローマ軍は二日をかけて内陸へ進んだ。
そして最後の丘陵を越えた瞬間、眼前に広がる大地が陽光を受けて白く輝いた。
バグラダス川中流の大平原。
風が止み、世界が一瞬だけ静まり返った。
その遥か彼方、地平線の上に黒く蠢く影があった。
カルタゴ軍の布陣である。
スキピオは馬上で静かに息を吸い、その影を見据えた。
「……ここで決着をつける」
一方、カルタゴ本陣──。
砂塵の彼方に突如として現れた赤い軍旗を目にしたジスコーネは、絶句していた。
(馬鹿な……! なぜこれほど早くスキピオがここにいる!?)
自軍の陣形すらまだ組み上がり切っていない。
ウティカからの電撃的な南下は、ジスコーネの目論見を完全に裏切っていた。
(シファクス軍はまだか……!)
ジスコーネは、シファクス軍の気配を探るように遠く西ヌミディアの方角を見つめる。
そこには何も見えず、ただ大平原の乾いた風が、二つの大国の運命を告げるように吹き抜けるだけだった。




