第七十三話 スキピオの真の目的 ── 決戦への誘い(いざない)
大平原での戦いでカルタゴ軍を打ち破った後、スキピオはカルタゴ本国の城壁を遠望できる丘の上に立っていた。
視界に広がるのは、古来地中海最強と謳われる三重の堅固な城壁。
高くそびえる防衛塔がどこまでも連なり、その背後には白い建物群が密集している。
(この巨大な城塞都市を力攻めで落とすには、膨大な攻城兵器を仕立て、大軍勢で包囲したとしても何年もの年月を要するだろう。いまの我が軍の兵力では到底落とせない)
ウティカ近郊のローマ軍陣営。
スキピオはシルタより帰還したレリウスと今後の戦略について議論していた。
「スキピオ、今こそ一気に攻め込むべきだ。カルタゴはパニックに陥っている。城壁の内側も恐慌状態のはずだ!」
スキピオは静かに首を振った。
その眼差しは、地図のさらに向こう──地中海を越えたイタリア半島の方角を見据えている。
「レリウス。カルタゴのあの城壁は、我々がいま持つ力では破れない」
レリウスは驚いたように振り返った。
「だが、敵は敗れ、ヌミディアも失った。城内は混乱しているはずだ」
「巨大な城壁都市は、野戦の敗北だけでは落ちない。カルタゴは三重城壁だ。十分な攻城兵器もない我々が強攻すれば、逆に兵を失う。
それに…… 遠征の長引く我が軍には熱病の兆候もある。補給線も細く、包囲戦を続ける力はない」
レリウスは言葉を失った。
勝利の熱狂に酔い痴れる兵士たちとは対照的に、スキピオだけが冷徹に戦争の全容を俯瞰していた。
「レリウス。カルタゴを直接攻める必要はないよ。攻める『ふり』をすればいい」
「……ふり?」
スキピオは静かに頷く。
「そうだ。我々が城壁の前に姿を現し、脅威を与えれば、カルタゴは必ずや “あの男” を呼び戻す」
レリウスはその名を口にした。
「……ハンニバル」
スキピオの瞳がわずかに光った。
「そうだ。ハンニバルは十五年もの間、イタリアの大地で我が祖国を恐怖に陥れてきた。ローマは奴を恐れ、憎み、そして……自らの手で撃滅することを切望している」
スキピオは地図の上のカルタゴを指で叩いた。
「カルタゴを攻め落としても、ハンニバルがイタリアに留まり続ける限り、この戦争は終わらない。ローマに真の安らぎは訪れない」
レリウスは深く息を吐き、静かにうなずいた。スキピオの提示した戦略が、単なる作戦を超えた “歴史の必然” として胸に落ちていくのを感じていた。
「つまり……カルタゴを恐怖で追い詰め、ハンニバルをイタリアから引きずり出し、ここアフリカの平原で決着をつける……それが君の真の目的なのだな」
スキピオは力強く頷いた。
「そうだ。ハンニバルをイタリアから引き離し、ローマ本土の脅威を終わらせる。
そして──
この戦争を終わらせるのは、カルタゴの城壁ではなく、ハンニバルとの決戦だ」
夕陽がスキピオの横顔を鮮やかな茜色に染めた。
その佇まいは、もはや一国の将軍を超え、時代のうねりを力強く手繰り寄せる英雄そのものであった。
ジスコーネ率いるカルタゴ軍が、大平原の戦いで完全崩壊したという報せは、カルタゴ本国に落雷のような衝撃をもたらした。
城壁の上では兵士たちが顔を見合わせて戦慄し、市場では人々が声を潜め、元老院の巨大な円形議場には押し潰されそうな重苦しい空気が漂っていた。
「ジスコーネが敗れただと……?」
「軍はどうなった!? スキピオに勝てる将軍は誰が残っているのだ!」
「スキピオだ……スキピオ軍がすぐそこまで迫っているぞ!」
恐怖の波は、瞬く間に都市全体を呑み込んでいった。
緊急召集された元老院議場は、怒号と悲鳴で混乱の極みにあった。
ハンノ率いる和平派、バルカ家を支持する主戦派、日和見の商人貴族、そして神官階級──あらゆる派閥が不毛な罵声を飛ばし合う。
「ジスコーネは何をしていたのだ!」
「スキピオはシファクスを捕らえ、ヌミディアを奪った! 次は我らの番だぞ!」
「和平だ! ローマと交渉して条件を乞うしかない!」
「馬鹿者! ローマは我らを根絶やしにするつもりだぞ!」
議会が崩壊寸前に陥ったその時、バルカ派の議員が怒号を突き破って立ち上がった。
「静粛に! ……諸君、認めよ。ジスコーネは破れ、シファクスは囚われ、ヌミディアは失われた。
だが……我らには、まだ最後の『切り札』が残されている」
議場が一瞬で静まり返った。
議員は静かに、しかし地鳴りのような声で言った。
「ハンニバルだ」
その名が響いた瞬間、議場の空気が凍りついた。
即座に和平派の筆頭ハンノが立ち上がり、卓を叩いて叫ぶ。
「ハンニバルだと!? イタリアで十五年も戦いながら、結局ローマを滅ぼせなかった男だぞ! 今さら呼び戻して何になる! 戦争を長引かせ、カルタゴを更なる灰燼に帰すだけだ!」
「ハンニバルは一度も敗れておらん!」
バルカ派の議員が鋭い眼光で撃ち返した。
「敗れたのは、彼に十分な補給と兵を送らなかった我々だ! 彼は十五年間、敵地の中でローマを震え上がらせ続けた。
スキピオ軍と対等に戦える男は、世界でただ一人……ハンニバル・バルカしかいない!」
しかしハンノは引き下がらない。
「和平の道も探るべきだ。戦争を続けるかどうかは、ローマ側の条件を見てからでも遅くはないはずだ」
別の和平派の議員が追随する。
「……スキピオはもう目の前に来ている。今から、緊急の使者を送っても、ハンニバルが駆け付けられるのは数か月先だ。
ハンニバルが帰還するまでの猶予を得る『時間稼ぎ』としても、和平交渉は有益である!」
その言葉に、議場の空気が変わった。
カルタゴは今、戦える軍を持たない。ハンニバルが戻るまで、本国は裸同然だった。
議長が、重い溜め息とともに立ち上がった。
「……ローマの将軍スキピオへ、和平を求める使節団を送る。
そして同時に、イタリアのハンニバルとマゴーネへ即刻帰還の命令を下す。
この決定に異議あるものは?」
議場を沈黙が支配した。
翌日、カルタゴ元老院は、ハンニバルとマゴーネに緊急帰還命令を伝える使者を放つとともに、ウティカ近郊に駐屯するスキピオ陣営へ、和平交渉の使節団を派遣したのだった。




