第六話 アレキサンダー大王の戦跡──勝利の設計図
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ハンニバルは、アブディルとソポンを伴い、フェニキアの大型商船に乗り込んだ。
船はゆっくりと岸を離れ、地中海の青い海原へと滑り出していく。
シチリア、南イタリアの海を越え、かつてアレキサンダー大王が東征の第一歩を刻んだ小アジアへ。
長い船旅の間、ハンニバルはソポンが持つ書板に幾度も目を落とし、アブディルが調達してくる現地の地理情報に耳を傾け、まだ見ぬ戦場の地形を頭の中で幾度も組み立てていた。
カルタゴ・ノウァを発って二か月後。フェニキアの商船が補給のために立ち寄ったのは、小アジア西岸の大港ミレトスだった。
夕暮の港は、ギリシア語、フェニキア語、ラテン語、そしてカリア語が入り乱れ、怪しげな商人や傭兵、海賊まがいの連中が雑踏を埋め尽くしている。
ハンニバル一行が船を降りて街を散策していると、後ろに従っていたアブディルがハンニバルの近くへより、耳元で低く囁いた。
「若様……そのまま、自然に歩いてください。つけられています」
「つけられている?」
ハンニバルが表情を変えずに尋ねると、アブディルは周囲を警戒しながら続けた。
「船がこの港に着岸するまでの三日間、船室の隅で我々をじっと観察していた男が三人いました。
今、その男たちが、先ほどからこちらの様子をうかがいながら執拗についてきています」
「盗賊か?」
しかし、アブディルは静かに首を横に振った。
「違います。あれは ”品物に値段をつける目” です。
おそらく奴隷商人でしょう。
船内で若様の歩き方、腰にある剣の柄、そしてその端正な容姿をじっくりと品定めしていました。 “美しい少年” は、東方の市場では恐ろしいほどの高値がつきますから」
ハンニバルは歩みを止めず、フッと苦笑した。
「俺を奴隷に、か? 冗談だろう。誰を相手にしていると思っている」
「冗談ではありません。……若様、少しの間、場を離れるお許しを」
アブディルはそこまで言うと、人混みの隙間を縫うように、文字通り雑踏の闇へと溶けて姿を消した。音もなく、気配すら残さない、飢えた豹さながらの俊敏さだった。
ハンニバルたちが港の広場に差し掛かる頃、アブディルは何事もなかったかのように戻ってきた。
その端正な顔立ちは、冷徹なまでの冷静さを湛えている。
「若様、買い出しは中止し、すぐに船へ戻りましょう。
この地が奴らの本拠なのでしょう、更に五人の仲間と合流して、若様をさらう算段をしています。
奴らはギリシア語とラテン語の混じった、酷く濁った訛りで話していました。『あの綺麗な顔の小僧は高く売れる』と」
ソポンが「なんということだ……」と息を呑む。
ハンニバルは、目の前の四つ年長の若者の優秀さに、内心で猛烈に舌を巻いていた。
船内でのわずかな視線の違和感から危機を察知し、相手に気づかれずに近づき、港の雑音の中から特定の訛りすらも聞き分けて、正確な情報を掴んできたのだ。
(……なんて優秀な奴だ。こいつの眼と耳は尋常じゃないぞ)
ハンニバルは、胸の奥に、静かな驚嘆と深い敬意が広がる。
アブディルの才覚は、もはや一介の従僕という枠には収まらない。
いつか自分が軍を率いる時、こいつは絶対に手放せない右腕になる。ハンニバルは確信していた。
「よし、この街では俺たちが圧倒的に不利だ。無用な血を流す必要はない。船に戻って安全を確保しよう」
ハンニバル一行は、背後への警戒を怠らずに人混みを泳ぎ、足早に船へと戻っていく。
アブディルの鋭敏な危機察知能力によって、彼らは異国の地での危機を、刃を交えることなく未然に回避したのだった。
ミレトスでの危機を回避したハンニバル一行は、その後は何事もなく順調に航海を続け、ついに目的地であるミュリャンダへと到着した。
船が港へ滑り込むと、そこはミレトス以上に混沌としていた。
フェニキア語、ギリシア語、アラム語が入り乱れ、香辛料と海風の匂いが渦巻いている。
「……ここが、アレキサンダーが宿営した港か」
ハンニバルの胸が高鳴った。
ここからイッソスへは、徒歩でも半日の距離。アレキサンダーが実際に進軍した道を、自分も辿ることになるのだ。
ハンニバルは港の喧騒を背に、北へと続く道を見つめた。
その先にあるのは、書物の中でしか知らなかった “伝説の戦場” 。
そして── ついにその足は、最初の目的地へと足を踏み入れる。
――キリキア地方、イッソス。
紀元前三三三年、若きアレキサンダーがペルシアの巨王ダレイオス三世を破り、世界を震撼させた歴史的戦場跡のただ中に、十六歳になったハンニバルは立っていた。
ハンニバルは周囲を見渡した。
西側にはどこまでも広がるイッソス湾、東側には険しくそびえるアマヌス山脈。
その二つに挟まれた、幅三キロメートルにも満たない極端に狭い平地。
その中央を、まるで両軍の運命を分かつ境界線のように、ピナルス川が南北に滔々《とうとう》と流れている。
(この狭隘な地形に、ペルシア王ダレイオス三世は十万を超える大軍を詰め込んだ。
十万の兵など、この狭い平地では身動きの取れない烏合の衆にすぎない。
密集しすぎた大軍は互いの足を引っ張り合い、ろくに陣形を展開することすらできなかったはずだ。
数が多いことが、ここでは逆に致命的な足かせとなる)
(アレキサンダーは、初めからこの “地形の罠” に敵を誘い込んだ。
大軍の優位性を完全に無力化できる、この狭いイッソスへと――)
鳥肌が立つような興奮が、十六歳の少年の身体を駆け巡る。
書板の文字を追うだけでは決して得られなかった “生きた戦術” が、いま凄まじい濁流となって、ハンニバルの脳髄へと吸収されていく。
アレキサンダーの戦いぶりを頭の中に思い描く。
――開戦の太鼓が、地鳴りのようにハンニバルの耳底に響いた。
気がつけば、目の前の静まり返ったピナルス川が、赤黒い血と鉄の嵐に塗り替えられていく。
百年前の戦場の幻影が、少年の瞳の奥に鮮烈に蘇っていた。
戦いの序盤、中央の歩兵戦でマケドニア軍はペルシア軍の猛攻に圧され、防衛線が今にも崩壊しかけている。
だが、ペルシア軍は密集し過ぎていて、後続の兵力をろくに展開できず、自らの巨体に溺れるように硬直している。
自軍劣勢と見るや、大王自らが騎兵を率いて敵の左翼に向けて疾風怒濤の突撃を敢行する。
地形の狭さゆえに身動きの取れないペルシア左翼への、楔を打ち込むような一点集中の猛撃。
精鋭騎兵による側面からの一点集中突撃で一気に敵左翼を崩壊させる。
さらに大王は、休むことなく馬首を翻し、中央でマケドニア歩兵を苦しめていたペルシア軍の主力へと、真横から、まるで巨大な鉄槌のように襲いかかる──!
勝負は決した。
吹き抜ける風が、幻影の戦塵をさっと掻き消していく。
しんと静まり返った現在の戦場跡に立ち、ハンニバルは荒い息を吐いていた。
アレキサンダーが何を危険と見なし、どこで勝負の決断を下したのか。
大王の脳内にあったはずの “勝利の設計図” が、いまやハンニバルには手に取るように分かった。
狭隘な地形を利用し、大軍の優位を完全に封殺したイッソスの勝利。
だが、若き獅子の知的渇望は、これだけでは到底満たされなかった。
むしろ、一つの正解を得たことで、彼の胸の青い炎はさらに激しく燃え上がっていた。
(では、地形の利がない広大なガウガメラ平原で、あの圧倒的な大軍と戦ったとき……大王はどう戦ったんだ?)
その答えを求め、ハンニバル一行はさらに東へと進んだ。
ミュリャンダから、気が遠くなるような距離をひたすら東へ。
かつてペルシア帝国の心臓部へと破竹の勢いで突き進んだマケドニア軍の足跡を狂おしいほどに追う。
ユーフラテス川、そしてチグリス川を越え、現在のイラク北部にあたる、遮るものの何一つないガウガメラの広大な平原へと、彼らはついに到達した。
視界の果てまで砂塵と地平線が続くその圧倒的な荒野を見渡した瞬間、ハンニバルの肌をひりつくような緊張感が刺した。
こここそが、アレキサンダー大王がペルシア帝国の息の根を止め、世界を塗り替える決定的勝利を収めた究極の決戦場だった。
イッソスとは何もかもが違う。
大軍の身動きを封じる海も山もない。
遮るものの何一つないこの大平原で、ダレイオス三世はマケドニア軍の倍以上、二十万を超える大軍を完全に展開させて大王を待ち構えていたのだ。
普通にぶつかれば、マケドニア軍はあまりの数の差に、左右から包み込まれて圧殺される。
(俺ならどうする……? 数の暴力に対して、この平原でどう戦う?)
ハンニバルは砂を強く踏みしめ、目を閉じた。
地平線の彼方から、二十万の足音が地響きとなって脳髄を揺さぶる。
ペルシアの秘密兵器・鎌戦車の車輪の轟音が鳴り響く。
その幻影の中で、大王の軍勢が静かに動き出した。
アレキサンダーは、軍を敵に対して真正面ぶつかるのではなく、右斜め前方へ向かって、斜めに進軍させる。
(……誘っている。
自分の右翼に敵騎兵を引き寄せ、敵中央を薄くし、空白を作るために!)
マケドニア軍が右斜め前へと不気味に進軍していくのを見たペルシア軍は、自軍の左翼が包囲されるのを恐れ、これを阻止しようと、中央の陣形を崩して左へと横滑りに移動を始めた。
(これだ。この一見奇妙な斜め進軍こそが、ダレイオスの全軍の陣形を崩すための “巧妙な撒き餌” だ)
ペルシア軍が左へ釣られて動いたその時、鉄壁だった彼らの本陣と左翼の間に、ほんのわずかな隙間(空白)が生じた。
その瞬間―― アレキサンダーは主力の騎兵で、敵本陣への突撃を敢行する。
“斜線突撃”
敵の中央に生まれた ”空白” へ、アレキサンダー自らが率いる騎兵隊が 槍の穂先のように突き刺さる。
目指すはただ一つ、敵の総大将・ダレイオス三世の首のみ。
平原の全域では、数の上で圧倒的なペルシア軍がマケドニア軍を押し潰そうとしていた。
しかし、アレキサンダーが作り出した “一瞬の空白“ へ超局所的な一撃によって、ペルシアの指揮中枢は恐怖に叩き落とされ、ダレイオスはまたしても戦場から逃亡した。
総大将である王が逃げ出した二十万の大軍は、どれほど数がいようとも、ただの巨大な肉の塊へと成り下がり、総崩れとなった──。
吹き抜ける熱風が、脳裏の戦塵をさっと連れ去っていく。
目を開けたハンニバルの呼吸は、激しい疾走を終えたかのように荒くなっていた。
傍らに立つアブディルが、若き主君の異様な熱気を感じ取り、静かに息を呑んでいる。
「敵の数が多いなら、自ら陣形を崩すようにして相手の意表を突き、その連携を狂わせ、隙を作らせる。
どんな戦場だろうと関係ない。戦場を支配するのは数ではなく敵の心理だ」
ハンニバルは拳を固く握りしめた。
イッソスでは、 “地形の支配” を学び、ガウガメラでは、 “心理の支配” を学んだ。
アレキサンダー大王という偉大な師の魂と、時空を超えて完全に邂逅した瞬間だった。
(ローマよ。お前たちがどれほど強固な大軍を揃えようと関係ない。
俺がお前たちの心を操り、お前たち自身の足で、お前たちの陣形を崩壊させてみせる)
十六歳の胸の中に、のちに世界を震撼させる “カンナエの包囲戦術” の原型が、冷徹な勝利の閃きとなって、確かに産声を上げた。
「……若様」
張り詰めた静寂を破るように、アブディルの静かな声が響いた。
「そろそろ、日が暮れます。ソポン先生も、慣れぬ内陸の暑さで少々お疲れのようです」
我に返ったハンニバルは、深く息を吐き出し、自らの両手を見た。興奮で微かに震えている。
脳内で数万の軍勢を動かしていた意識が、ゆっくりと十六歳の少年の身体へと戻ってきた。
見上げれば、ガウガメラの広大な大平原が、燃えるような夕日に赤く染まり始めていた。
「ああ……そうだな。十分だ。大王が遺したものは、すべてこの目に焼き付けた」
ハンニバルはそう言うと、どこか晴れやかな、しかし以前よりも遥かに深みを増した瞳でソポンとアブディルを振り返った。
遊学の目的は果たされた。
アレキサンダー大王の戦術を完全に己の知肉として手に入れた少年の佇まいには、旅立つ前にはなかった、軍を率いる将帥としての凄みが微かに漂い始めている。
「よし、戻ろう。ミュリャンダの港へ引き返し、次の船を拾うぞ」
彼らはガウガメラの荒野に背を向け、再び地中海を目指して西へと進路をとった。
少年期のハンニバルが、アレキサンダー大王の戦跡を回ったという記述はこれまでに発見されていません。
てすが、記述がないからそのような事実は無かったとは言い切れないというのが私の考えです。
逆に、誰かが書き残していた記述も、その現場にいた人物が書いている訳ではなく、聞き知ったことを書いているのですから、それが事実を正確に書いているとは言い切れないとも思っています。
私は、ハンニバルの戦術を逆算して、これは確実にアレキサンダー大王の戦術を学んでいると感じて、第六話のエピソードを書きました。




