第五話 いつか帰る場所 ── 十五歳の不器用な告白
翌年、年明け早々に自邸で父ハミルカルと対面していたハンニバルは、ある遊学を願い出ていた。
「父上。私はアレキサンダー大王の戦術を、この目で確かめたいのです」
普段、仲間内で話すときは港町の不良少年のような軽口を利くハンニバルも、厳格な父を前にすると、カルタゴ貴族の子弟にふさわしい改まった口調になる。
強大なローマを打ち破るには、伝説のアレキサンダー大王のような、圧倒的な戦闘指揮能力が必要不可欠だとハンニバルは感じていた。
文献を読むだけでもおおよそのことは分かるが、自分の考えが正しいのか、十六歳のハンニバルには自信が持てなかった。
実際に激戦が行われた地に立ち、その地形を見た大王が何を思い、敵の陣形を見てどう判断し、各部隊にどう指示を出したのか。
それを確かめずにはいられなかったのだ。
息子のこの唐突な願いに、ハミルカルは驚かなかった。
むしろ、この息子ならいずれそのように思うであろうと予想していたかのようだった。
「理由を言え、ハンニバル」
「アレキサンダーは二十歳で世界を動かしました。
私は彼の戦術を書物で学びましたが、実際の地形を見ていないがために、理解が不十分です。
強大なローマを打ち破る力を得るには、大王の戦術を完全に我が身に吸収しなければなりません」
ハミルカルの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「よかろう。アブディルと、ソポンを連れて行け」
アブディルは深く頭を下げた。
バルカ家に仕える忠実な従僕アブディル。
その小柄ながら引き締まった体躯からは、音もなく闇を駆ける豹のような俊敏さが窺える。
端正な顔立ちに湛えられた思慮深い瞳は、知性を静かに物語っている。
まだ二十歳になったばかりのこの若い従僕は、その歳ですでにハミルカルから絶大な信頼を得るほど有能だった。
いつも人への評価が辛辣になるハンニバルですら、四つ年長のこの若者を見るにつけ《なんて優秀な奴だ》と感心し、一目置いていた。
学識高い初老の家庭教師ソポンは、書板を胸に抱え、静かに言った。
「若様、大王の戦跡は東方の地にございます。危険も多いでしょうが……あなたの望む知は、確かにそこにあるでしょう」
「二人が付いてきてくれるのなら心強い」
ハンニバルはアブディルとソポンを交互に見つめ、男女を問わずに魅了してしまうあの愛嬌たっぷりな笑顔を向けてから、父に向き直り、深く礼をした。
「父上。必ずや、私の糧として戻ってまいります」
父から許しを得たその夜、ハンニバルは自室の窓辺に立ち、遠くに広がる地中海の闇をじっと見つめていた。
その背に、控えめなノックの音が響く。
「兄貴、入ってもいいか」
声の主は次弟ハシュドゥルバル。その後ろにはまだ幼い末弟マゴーネも顔を覗かせていた。
「アレキサンダーの戦跡を巡るなんて、兄貴らしいな」
「ハシュドゥルバル。俺はアレキサンダー大王の戦術を、この目に焼き付けてくる。書物の中の軍略だけじゃない、実際の大王の戦術を、俺自身の血肉とするためだ」
「俺も兄貴と共に学びたかった。俺だってバルカの男だ、ローマへの復讐を、兄貴ひとりに背負わせたくはない」
「僕もだよ!」
そんな頼もしいことを言い出してきた二人の弟に、ハンニバルは満足げな笑みを浮かべた。
「焦るな、ハシュドゥルバル。
この先、ローマとの決戦の時が来たら、お前にはこのイベリアを守る『盾』になってほしいんだ。
だから今は、大軍を維持するための統治と、揺るがぬ防衛の戦術を学べ。
俺が攻めの『矛』なら、お前はバルカの『盾』となるんだ」
ハシュドゥルバルは息を呑み、兄のまっすぐな眼差しを受け止めた。
自分は置いていかれるのではない。
未来の決戦の時のために、ここに残って備えるという大役を与えられたのだと理解し、その瞳に強い覚悟が宿る。
「……分かったよ、兄貴。俺は兄貴が安心して背中を預けられる男になってみせるよ」
「頼むぞ」
ハンニバルは満足げに頷くと、次に末弟の跳ねっ返りの髪を乱暴に撫で回した。
「マゴーネ、お前はとにかく飯を食って体を大きくしろ。
俺が帰ってきたら、最高の騎馬隊の動かし方を叩き込んでやる。
敵の本陣を縦横無尽に踏み荒らす、疾風のような将軍になれ」
「うん! 任せてよ兄さん! 誰よりも強い騎兵になってみせる!」
幼いマゴーネは、得意げに胸を張った。
バルカの宿命を背負う三兄弟。
夜の静寂の中で、彼らは血の繋がりを超えた、鉄の結束を確かに結び合っていた。
――それから十日後。
キリキア地方の港町ミュリャンダへと向かうフェニキアの大型商船の手配がつき、ハンニバル一行の長い旅路の準備が整った。
ハンニバルが旅装を整え、アブディルとソポンを伴って屋敷の門を出ようとしたその時、背後から冬の朝の凍てつく空気をかすかに震わせる、小さな声がした。
「……ハンニバル」
振り返ると、アリサが立っていた。
冬の朝の冷たい空気の中で、彼女の頬は少し赤く染まっている。
「アリサ……どうしてここに」
「あなたが旅に出るって、聞いたの」
アリサはぎゅっと両手を握りしめ、勇気を振り絞るように言葉を紡いだ。
「どこへ行くの? ……いつ、帰ってくるの?」
ハンニバルは一瞬だけ、いつものように軽口で誤魔化そうか迷った。
だが、まっすぐ自分を見つめてくる朝露のような瞳に、嘘を吐くことはできなかった。
「……アレキサンダー大王の戦跡を巡る。戦術を学ぶためだ」
アリサの瞳が揺れた。
「じゃあ……しばらく会えないのね」
「しばらくどころじゃないかもしれない」
ハンニバルはしばらく逡巡し、静かに言った。
その声音には、少年らしい迷いと、宿命を背負う者の冷徹さが同居していた。
「戻ってきてからも、俺は軍務であちこちを飛び回ることになるだろう。
……だから、前みたいには会えなくなる」
アリサは唇を噛んだ。
「どうして……どうしてそんなに遠くへ行ってしまうの」
ハンニバルは答えられなかった。
”俺の未来にはローマとの死闘しかない” などと言えば、彼女をさらに傷つけ、この運命に巻き込んでしまうと分かっていたからだ。
代わりに、彼はそっとアリサの頭に手を置いた。
髪の柔らかさに、胸の奥がキリリと締め付けられるように痛む。
「アリサ。俺は強くならなきゃならない。バルカの男として、すべてを賭けて戦うために。……だから、俺のことなんか、待っていなくていい」
それは、彼なりの、最大級に不器用な ”愛の拒絶” だった。
「……私は、巻き込まれてもいいのに」
アリサは俯き、震える声で呟いた。
その言葉に、ハンニバルは息を呑んだ。胸を掻きむしられるような切なさが込み上げる。
しかし、その痛みを押し殺すように、彼はゆっくりと彼女の頭から手を離した。
アリサは静かに首を振った。
そして、真っ直ぐに顔を上げる。
その瞳はもう震えていなかった。
母親の腕の中で涙を拭い、静かに胸に灯したひとつの “覚悟” が、彼女の瞳を美しく、力強く輝かせていた。
「いいえ、待つわ。あなたがどれほど遠い海の向こうへ行っても……私は、あなたの帰る場所でいるわ」
アリサの口から毅然と放たれたその言葉は、ハンニバルの心を激しく揺さぶった。
彼女を遠ざけようとした自分。
しかし、この少女はそれすらもすべて包み込み、孤独な覇王の帰る港になると宣言してみせたのだ。
ハンニバルは降参したように、ふっと口元を緩めた。
自由気ままな表情の中にも、男女を問わずに魅了してしまうあの悪戯っぽい笑顔を浮かべる。
だが、その瞳に宿っていたのは、どこか照れくさく、どこか切なく、そしてどうしようもなく優しい光だった。
「アリサ。お前はいつのまにか、そんなに強くなってたんだな」
愛おしさを堪えるように、ハンニバルは静かに言葉を紡ぐ。
「……ありがとう。でも、やっぱり俺は行く」
それは、アリサの覚悟を真っ向から受け止めた、彼なりの最大の誠実だった。
(アリサ。お前が俺の帰る場所だというのなら、俺は必ず生きて、あのローマを討ち果してお前の元へ帰る)
胸の中で、決して消えることのない温かい約束を固く誓い、ハンニバルは踵を返した。
遠ざかっていく彼の背中を見つめながら、アリサの胸には、彼が最後に見せたあの眩しい笑みだけが、いつまでも、いつまでも温かく残り続けていた。
冬の低い光の中で、歩き出したハンニバルの背中へと、アリサの長い影が真っ直ぐに伸びていく。
彼女の胸に宿った “静かな灯火” が、これから孤独な覇道を征く少年の足元を、どこまでも優しく、どこまでも温かく照らし出していく。




