第四話 十五歳の誓い──アリサの決意
無事、銀鉱山から港へ銀を運ぶ隊商の護衛の任務を果たし、カルタゴ・ノウァへ帰ってきたハンニバルの評判は、日に日に街中に広がっていった。
護衛に参加していた兵士たちが、ハンニバルの戦いぶりを方々の酒場で、酒の勢いと共に話を盛りながら得意げに語るものだから、今やその武勇伝は街の噂を独り占めにしていた。
「おい聞いたか、バルカ家の跡継ぎの話」
「ああ、一人で十人の賊をあっという間に斬り伏せて、劣勢をひっくり返したって話だろ?」
「いやいや、俺が聞いたのは二十人って話だったぜ」
「ハンニバルってまだガキだろ」
「ああ、十五歳だってよ。その十五のガキが、まるで百戦練磨の老将のように隊を指揮したらしい」
「まったく末恐ろしいな、これでしばらくバルカ家の天下は安泰だな」
広場や市場のいたるところで、ハンニバルの名は一種の畏怖を込めて囁かれていた。
だが──。
街のいたるところで囁かれるハンニバルの武勇伝の噂話は、幼い頃からハンニバルを慕い続けてきたアリサの胸を冷たく締め付けていた。
彼を英雄のように褒めたたえる人々の声が高まれば高まるほど、かつて間近で自分に向けられていた無邪気な笑顔が、どんどん遠のいていってしまうのではないかという不安が募っていく。
このところ、幼い頃のように無邪気に笑い合うことが減り、ハンニバルがどこかよそよそしく、そっけない態度でアリサに接してくることを寂しくも思っていた。
みんなの英雄になればなるほど、自分だけのハンニバルが消えていってしまう……そんな思いが胸の奥でいつまでもザワザワと騒ぎ続ける。
(ハンニバルが……どんどん遠い存在になっていくわ)
台所で夕食の支度をしながら、そんな思いに駆られてぼんやりと火を見つめている娘の様子に、母クローディアはすぐに気がついた。
「アリサ、スープが焦げてしまうわよ」
「あっ……ごめんなさい、お母様」
慌てて手を動かす娘の、その頼りなげに揺れる肩を、母親は温かい手でそっと包み込んだ。
「心配事があるのね、アリサ」
娘のことはなんでもお見通しな、母の優しい眼差しに触れた瞬間、アリサの張り詰めていた心が音を立てて解けていく。
幼い頃から変わらない、母親のすべてを包み込んでくれるような温もり。
その絶対的な安心感に甘えるように、アリサは母の胸に顔を埋めて、せき止めていた気持ちを吐き出した。
「お母様……子供のころは、あんなに近くにいてくれたハンニバルが、最近はすごくそっけないの。
街では、みんなが彼を英雄みたいに誉めそやしているわ。
なんだか、私には手の届かない、すごく遠い存在になってしまったようで……寂しいの」
クローディアは優しく微笑み、娘の髪を愛おしそうになでた。
「ハンニバルはね、アリサ。
生まれながらにして、カルタゴという国そのものの運命を背負う宿命にあるのよ。
お父様のハミルカル様がそうであるように、バルカの血を引く男たちは、普通の穏やかな幸せの中に留まることはできないの」
「お母様……私は、どうすればいいの?
ハンニバルが私の手の届かない場所へ行ってしまうのを、ただ黙って見ているしかないの?
いつか、私のことなんて忘れてしまうのを、ただ受け入れるしかないの?」
アリサの瞳から、ついに堪えきれなくなった涙がポロポロとこぼれ落ちた。
クローディアは娘をきつく抱きしめ、その耳元で静かに語りかけた。
「忘れるわけがないでしょう。
あの子がどれほど偉大な将軍になろうと、どれほど冷徹な覇王になろうと、──その心の奥底には、このイベリアの地であなたと過ごした、純粋で穏やかな日々の記憶が必ず残るわ。
男の人が外でどんなに恐ろしい戦いに挑んでいてもね、アリサ。
彼らには帰る場所……たった一つの『心の拠り所』が必要なのよ」
母の温かい言葉は、アリサの痛む心に、じんわりと、深く染み込んでいった。
その夜、アリサは自室の窓辺に座り、月明かりの下、ハンニバルの住むバルカ家の屋敷から漏れる灯りを見つめていた。
(ハンニバル……あなたは今、何を思っているの?
私のことなんて、もう考えていないのかもしれない……)
そう思うと、胸の奥がぎゅっと痛くなり、また泣きたい気持ちになった。
(ハンニバルは、私のことをどう思っているのかしら……)
答えの出ない問いかけは、彼女自身の胸を刺す刃のようだった。
思い悩み、俯きかけたアリサの脳裏に、母が授けてくれた言葉が、静かに、しかし確かな温もりを伴ってよみがえってくる。
――彼らには帰る場所。たった一つの『心の拠り所』が必要なのよ。
アリサは小さく、深く息を吸い、涙を拭った。
(そうよ……私は、ハンニバルの帰る場所になる)
彼がどれほど遠い存在になってしまおうとも。
これからどれほど恐ろしい戦いの道を歩むことになろうとも。
自分だけは、ハンニバルがすべての鎧を脱ぎ捨てて帰ってこられる、世界でたった一つの『心の拠り所』であり続けよう。
それこそが、彼を愛した自分が選ぶべき道なのだと、アリサは夜空に誓った。
カルタゴ・ノウァの街の片隅で、少女の揺れる恋心は、切なくも、青き覇王をその一生をかけて包み込む──ひとつの固い『決意』へと、形を変えていくのだった。




