第七話 東方からの帰還──我が最高傑作の息子
大王の足跡を辿る東方の遊学を終え、ミュリャンダから再びフェニキアの大型商船に乗り込んだハンニバル一行は、イベリア半島のカルタゴ・ノウァへの帰路に就いていた。
船は順風満帆に地中海を西へと滑り、四十日後、ついに見慣れたカルタゴ・ノウァの港へと滑り込む。
港の役人からハンニバル一行が乗った船が帰ってきたという報せが屋敷に届けられると二人の弟が揃って飛び出して行った。
「兄さん! ハンニバル兄さん!」
息を荒くして最初に飛び込んできたのは、一番下の弟、まだ幼さの残るマゴーネだった。報せを聞いて屋敷から文字通り一目散に走ってきたのだろう、額にはうっすらと汗が浮かんでいる。
そのすぐ後ろから、ハシュドゥルバルが、息を整えながら、しかし嬉しさを隠しきれない笑みを浮かべて歩み寄ってきた。
「本当に帰ってきたんだね! アレキサンダー大王の戦場はどうだった?」
マゴーネはハンニバルに駆け寄ると、その逞しくなった肩に飛びつくようにして相好を崩した。
「おいマゴーネ、兄貴は長い船旅でお疲れだ」
ハシュドゥルバルが苦笑しながら弟をたしなめたが、その目はじっとハンニバルを見つめていた。
数ヶ月見ない間に、兄の佇まいから少年特有の浮つきが消え、研ぎ澄まされた刃のような覇気が漂っていることに、聡明な弟はすぐに気づいていた。
「無事でよかったよ、兄貴。ソポン先生も、アブディルも、無事で何よりだ」
「ああ、二人には何度も助けられたよ。お前たちも、留守中、父上をよく支えてくれたな」
ハンニバルは弟たちの肩を順に叩き、あの悪戯っぽい笑顔を向けた。
血を分けた弟たちの温もりに触れ、旅の緊張が心地よく解けていく。
「ハンニバル、逞しくなって帰ってきたな」
入港の報せを聞き、居ても立ってもいられず馬を飛ばしてきたハミルカルが、弟たちから少し遅れて姿を現した。
「父上。ハンニバル・バルカ、東方遊学よりただいま帰着いたしました」
最高司令官である父に対し、襟を正して報告する息子。
だがハミルカルは、満面の笑みでその肩を抱いた。
その目には、戦場では決して見せない、父としての温かい光が宿っていた。
「正式な復命は、皆の前で行え。……よく帰ったな、ハンニバル」
「承知しました、父上」
その瞬間、ハンニバルの胸の奥で、弟たちとの再会で緩んでいた心が静かに引き締まった。
――カルタゴ・ノウァ、ヒスパニア総督邸。
重厚な柱が立ち並ぶ広間には、先に引き揚げたハミルカル・バルカを筆頭に、一族の重臣や宿将たちがすでに居並び、厳粛な空気が張り詰めていた。
その中央、上座に座る父の前へと、ハンニバルは一歩、歩み出た。
後ろには、旅を共にしたソポンと、完璧な影として控えるアブディルがいる。
ハンニバルは旅装のまま、父の前で片膝を突き、拳を胸に当てて深く頭を垂れた。
「ハミルカル最高司令官閣下。ハンニバル・バルカ、東方遊学よりただいま帰着いたしました。これより復命いたします」
広間に、十六歳の少年の凛とした声が響き渡る。
ハミルカルは組んだ腕を解くことなく、椅子の背にもたれたまま、低く地鳴りのような声で応じた。
「うむ。文字を追うだけの旅ではなかったようだな。お前の瞳を見ればわかる。
……して、我が息子よ。世界を変えた覇王の足跡から、何を掴んできた」
ハンニバルは顔を上げ、父の鋭い眼光を正面から見据えた。
その瞳には、宿将たちをも気圧すような、冷徹で確固たる光が宿っている。
「大王の遺した “勝利の設計図” を、この頭に刻んでまいりました」
一歩も引かぬ息子の言葉に、並み居る宿将たちの間で微かにざわめきが起こる。
ハンニバルは淀みなく言葉を続けた。
「キリキアのイッソスにおいては、『地形の支配』を学びました。
狭隘な地形を用いて大軍たる敵の数を無力化し、防衛線が崩れる一瞬の隙に精鋭騎兵を一点集中で突撃させる戦術。
……そして、メソポタミアのガウガメラにおいては、『心理の支配』を学びました」
「心理の支配、だと?」
ハミルカルの片眉がピクリと動く。
「はい。遮るもののない大平原において、大王は主力部隊をあえて斜めに進軍させ、敵の動揺を誘いました。
敵が自ら陣形を狂わせ、本陣との間に生じさせたわずかな亀裂。そこへ楔を打ち込み、敵の心臓部を直接砕いたのです。
私は確信いたしました。戦場を支配するのは軍勢の数ではなく、敵の心理の動揺である、と」
ハンニバルが語り終えると、広間は水を打ったように静まり返った。
十六歳の少年が、アレキサンダーの戦術の本質 “地政の罠” と “心理戦の極意” を完全に自分の知肉として理解している。
その天才の片鱗に、宿将たちは畏怖すら混じった目でお互いを見合わせた。
ハミルカルはしばらく無言のまま、じっとハンニバルを見つめていた。
やがて、その厳格な鉄の仮面のような顔が、ゆっくりと、しかしこれ以上ないほど誇らしげに歪んだ。
「……ハッ、ハハハハハ!」
ハミルカルは大音声を上げて笑い、立ち上がった。
その巨躯がハンニバルに近づき、無数の傷に覆われた大きな手で、息子の肩をガシッと力強く掴む。
「よくぞ見抜いたハンニバル! 貴様はただの物見遊山ではなく、真に大王の魂をその身に宿して帰ってきたか!」
最高司令官としての威厳から、一人の “父親” の顔に戻ったハミルカルは、目を細めて息子の引き締まった身体を見つめた。
「背も伸びた。顔つきも精悍になった。
……我が最高傑作の息子よ。
お前はもう、ただの子供ではない。我らバルカの悲願を共に背負う、一族の希望だ」
「はい、父上。私はあなたの右腕となり、必ずやローマを絶望の淵へと叩き落とします」
「うむ! お前が加われば、バルカの獅子は無敵だ。
ハシュドゥルバル、マゴーネ、兄の背中をよく見ておけ!」
広間の隅で控えていた弟たちが、「はい!」と弾かれたように声を上げる。
ハミルカルは家臣たちを振り返り、堂々と宣言した。
「今夜は宴だ! 東方の覇王の魂を連れ帰った我が息子のために祝杯を上げよ!」
家臣たちの歓声が広間に響き渡る。
父の温かくも力強い手の重みを感じながら、ハンニバルは、
(この人のために、この家族のために、俺は世界を敵に回しても戦う)
と、胸の内で静かに誓い直していた。
この固く結ばれたバルカ家の絆が、わずか一年後に永遠に失われることになるとは、この時は誰も知る由がなかった。




