第六十四話 運命の書状 ── 因縁の二人
ハシュドゥルバルは、ハンニバルとの合流を目指し、散り散りになった敗残兵を集めながらイベリア北部を北上していた。
ガレシアの山岳民、一度は寝返りかけたイレルゲテス族の生き残り、カルタゴに忠誠を誓う古参の傭兵──。
集まった軍勢は疲弊し、士気は底をついていたが、彼らを見つめるハシュドゥルバルの眼光だけは死んでいなかった。
「我らは敗れた。だが──まだ何も終わってはいない!」
ハシュドゥルバルの放つ気迫が、敗残兵たちの凍てついた心に再びかすかな火を灯した。
軍を立て直したハシュドゥルバルはピレネー山脈を越え、ガリアへと足を踏み入れた。
かつて兄ハンニバルが通った道である。
ここで彼は、持ち前の外交手腕を発揮してガリア部族の一部を味方につけることに成功する。
「ハンニバルの弟か。あの巨大な象を連れてローマを震撼させた将軍の弟ならば、我らは喜んで力を貸そう」
ハンニバルの名声は、ガリアにも轟いていた。
「我らはイタリアへ向かう。ローマを滅ぼすために」
荒々しいガリアの戦士たちが歓声をあげる。
ローマ側の厳重な監視線を突破するため、ハシュドゥルバルは隠密行動を徹底した。
夜間行軍、補給隊の偽装、現地部族による抜け道の案内、そして底なしの沼地を進む行軍──。
ハシュドゥルバルは始終、兄の思考を追跡していた。
(ハンニバルなら、ここでどう動く……? どこに敵の隙を見出す……?)
兄の背中を追う絶対的な思考こそが、過酷な行軍の中で彼の精神を支えていた。
──紀元前二〇七年初春。
ハシュドゥルバル軍は、ついに巨大な白い壁──アルプスの麓へと到達する。
ハシュドゥルバルのアルプス越えは、かつてのハンニバルのそれに比べれば条件が恵まれていた。
協力的なガリア部族の案内があり、時期も猛雪の冬ではなく春の兆しが見える季節だったからである。
だが、それでもアルプスは甘くなかった。
落石、氷の急坂、急襲してくる不従順な山岳民、そして寒さによる凍傷──。
脱落者が相次ぎ、馬が崖下に滑落する凄惨な光景が広がった。
ハシュドゥルバルは自ら先頭に立ち、吹雪の中を進み続けた。
そして紀元前二〇七年、四月。
ハシュドゥルバル軍はついにアルプスを踏破し、北イタリアのパドゥス平原へと舞い降りた。
現地のガリア部族は地鳴りのような歓声をあげた。
「ハンニバルの弟が来た! これでローマは終わりだ!」
この報せを受け、ローマ本国は恐怖で激しく震え上がる。
南イタリアには、未だ無敵のハンニバルが鎮座している。
そして北イタリアには、アルプスを越えてきたハシュドゥルバル。
“二人が合流すれば……ローマはどうなる?”
今や、毎年軍団編成に苦慮するほど疲弊しているローマは、二人のバルカの獅子に恐れおののいていた。
現地カリア部族の協力をとりつけたその夜、ハシュドゥルバルは天幕の篝火の前で、一枚の羊皮紙に兄への思いを走らせていた。
『ハンニバル兄上へ。
私はあなたと合流し共に戦うため、アルプスを越え四月十八日、パドゥス平原へ到達しました。
これより七月初旬を目途にサムニウムへ南下いたします。
兄上も北上され、同地にて合流したく存じます。
我が軍三万五千──
我ら兄弟がひとつになれば、ローマを倒せます』
ハシュドゥルバルは固く封印を施すと、信頼できる極秘の伝令に書状を手渡し、その肩を強く掴んだ。
「ハンニバルは、南イタリアのアプリアからブルッティウムにかけての山岳地帯のいずこかに陣を張っているはずだ。
アドリア海側の街道を南へ辿れ。
この一通は我らカルタゴの命運がかかっている。
何があっても──必ず兄上へ届けろ」
「御意!」
伝令は夜の闇へと駆け出していった。
ハシュドゥルバルの瞳には、敗北の傷を乗り越えた熱い不屈の炎が宿っていた。
──しかし、運命はあまりにも残酷であった。
南イタリアのアプリア地方を目指して潜伏行軍を続けていた伝令は、途中のウンブリアで運悪くローマ軍の巡回斥候隊と鉢合わせてしまう。
「止まれ! 何者だ!」
伝令は馬を返して必死に逃走を図ったが、ローマ騎兵の投槍が馬の足を射抜いた。
短い抵抗の末、伝令は捕らえられる。
ローマ兵が伝令の所持品を改めると、厳重に封印された書状が転がり出た。
書状は直ちに、南イタリアでハンニバルと対峙していたローマ執政官ガイウス・クラウディウス・ネロのもとへと届けられる。
カルタゴ文字で記されたその文面を通訳官に解読させたネロは、内容を目で追うごとにみるみる顔色を失っていった。
手首が微かに震える。
「……ハシュドゥルバルが……北イタリアに到達しただと……!?
ハンニバルと合流するために、南下を開始している……!?
七月初旬にサムニウムで合流すると書かれている……!」
側近の将校たちが息を呑んだ。
「閣下、これは……一大事です! 二人が合流すれば、あのハンニバルが更に三万五千もの軍勢を得ることになります!」
ネロはハシュドゥルバルの書状の写しを元老院へ送り、早急に対策を講じるよう要請した。
しかし、戻ってきた返書は絶望的な内容だった。
“リウィウス軍は新兵多し、騎兵少なく、セナ・ガリカの地形は戦闘に不向き。
兵の士気は低く、敵の所在を把握できず。騎兵の充実した三万五千のハシュドゥルバル軍の南下阻止は困難な状態”
ネロは読み終えると、羊皮紙を力任せに握りつぶした。
「いかん。リウィウス軍だけではハシュドゥルバル軍を阻止出来ん」
その声は天幕の空気を震わせるほど重かった。
「だが、合流させてはならん。
例えこの身が滅びようとも! 何としても……絶対にだ!」
側近たちは蒼白になった。
ネロの言葉が意味するものを、誰もが理解していた。
任地離脱はローマ軍律における最大の禁忌──執政官であろうと死罪は免れない。
「閣下……! 任地を離れれば軍法会議は免れません! 死罪になります!」
側近が泣き叫ぶように叫んだが、ネロは冷徹に言い放った。
「ローマが滅びれば、法も名誉も灰となる。
──ローマを救うためなら、私は喜んで悪魔となろう」
その瞬間、ネロは軍律を踏み越えた。
死罪覚悟で、ローマを救うための “禁忌の強行軍” を決意したのだ。
「兵士諸君! ハシュドゥルバルが北イタリアに現れた! 南のハンニバルと合流すれば、我らの故郷ローマは焼き尽くされる!」
兵士たちに動揺が走る。
ネロは一歩前へ踏み出した。
「私は任地を離れる! 軍律を破り、北へ向かう! 元老院が私を処刑したければするがいい!
だが、その前に私はローマを救う! 精鋭六千、騎兵一千──私と共に来い! ハシュドゥルバルを討ち取り、ローマの未来をこの手で掴み取るのだ!」
一瞬の静寂の後、大地を叩き割るような凄まじい大歓声が巻き起こった。
「ローマのために!!」
「ネロ閣下に続け!!」
「カルタゴを叩き潰せ!!」
ここから、ローマ戦史上類を見ない狂気の強行軍が始まった。
ネロはハンニバルに察知されぬよう、本陣に十分な偽装兵力を残すと、選り抜きの精鋭だけを率いて夜陰に乗じて北上を開始する。
補給を極限まで削り、甲冑すら削ぎ落とした軽装での、昼夜を問わぬ強行軍。兵たちの足裏は裂け、血が土に滲んだ。
倒れ込む兵士を引きずり起こし、ただひたすらに北へ、北へ──。
そしてついに、セナ・ガリカへたどり着く。
北イタリアでハシュドゥルバルを迎撃すべく待機していたもう一人の執政官、マルクス・リウィウスの陣営に、泥まみれのネロ軍が奇跡的な速度で合流を果たした。
二人の執政官が並び立った瞬間、ローマ軍の空気がにわかに変わった。
泥と汗にまみれたネロの手を、リウィウスが強く握り返す。
──ハシュドゥルバルはまだ知らない。
兄と合流するはずだった己の行く手に、死罪すら恐れぬもう一人の執政官が立ちはだかっていることを。
ハシュドゥルバルとネロ。
ここから、イベリアから続く二人の因縁の対決が待っている。




