第六十三話 三者会談 ── ハシュドゥルバルの決意
バエティス川の戦いでハシュドゥルバルがスキピオに敗れ、窮地に陥ったカルタゴ軍。
各地に散らばっていたその三軍の将たちが、イベリア内陸部の都市カスタロ近郊に密かに集まり、今後の戦略を話し合っていた。
ハシュドゥルバル、そして彼の呼び出しに応じて駆けつけた、マゴーネとジスコーネである。
中央の赤々と揺れる篝火が、三人の影を不気味に揺らし、敗北の暗い影をその顔に落としていた。
ハシュドゥルバルは泥のついた甲冑を着たまま、長いこと沈黙していた。
肩には重く深い疲労が刻まれている。
彼がようやく重い口を開いた。
「……スキピオは、思っていた以上の男だった」
その低く掠れた声には、若き敵将に完全な敗北を喫した将の重圧と苦渋が滲んでいた。
「今は過去の敗戦を嘆く時ではない。いかにしてこの危地を打開するか──考えるべきだ」
続いてジスコーネが冷静に現実的な問題提起をする。
「危地を打開するか……。イベリアの諸部族は離反し、補給は途絶え、裏切りも続いている。まずはイベリアの再統制が必要」
マゴーネは悔しそうに拳を握りしめた。
ジスコーネは皮の羊皮紙に描かれたイベリア全土の地図を広げ、指先でラインをなぞった。
「スキピオはイベリアの心臓部を完璧に握っている。
カルタゴ・ノウァの港、膨大な補給物資、そして主要な地元部族の忠誠──すべてが彼のものだ。
翻って我々は、三軍に分かれたまま互いに距離があり、連携すらままならん。
このままイベリアに留まれば、スキピオに一軍ずつ各個撃破されるだけだ」
「ではどう対処する? 策はあるのか」
マゴーネが迫ると、ジスコーネは感情を押し殺した声で言った。
「イベリアは捨てるしかない。アフリカへ戻り本国を守るべきだ」
天幕の中に、重苦しい静寂が満ちた。
篝火が爆ぜる音だけが響く。
ハシュドゥルバルは膝の上で拳を強く握りしめた。
「……アフリカへ退けば、イベリアは完全にローマ……いや、スキピオのものとなる。
それでは、ローマの勢いが益々上がり、カルタゴの衰退を世界中へ印象付けることになる」
「その通りだ、兄さん。
今アフリカへ退いたら、我らに味方する者がさらに減り、ローマへ付く者が雪崩を打って増える。イベリアを完全に手放してのアフリカ決戦は、今以上に不利な戦いとなる」
「だが」
ジスコーネは引かなかった。
「ここで我らが全滅すれば、敗北どころか、カルタゴそのものの滅亡へと直結する」
マゴーネは苦々しく唇を噛み締め、兄を見つめた。
「……兄さん。兄さんは……どうするつもりだ?」
ハシュドゥルバルはゆっくりと立ち上がった。
その瞳に、消えかけていた将軍の鋭い光が宿る。
「……私は、イタリアへ向かう」
二人は息を呑んだ。
「ハンニバルのもとへ行く」
ハシュドゥルバルの声に熱が戻っていた。
「イベリアでの主導権は失われた。
だが、イタリアで俺がハンニバルの軍と合流できれば、まだ戦局を逆転させる勝機はある!」
「イタリアへ……!?」
マゴーネが驚愕に目を丸くした。
「ピレネーを越え、ガリアを抜け、あの猛雪のアルプスを越えるつもりなのか……」
「お前やハンニバルが越えた道だ。ならば、俺に越えられぬ道理はない」
ハシュドゥルバルの覚悟の深さを悟り、ジスコーネは深くため息を吐いた。
自らの全軍撤退案がもはや現実的ではないことを悟り、静かに頷く。
「……それが、我らに残された唯一の道か。
分かった。ハシュドゥルバルのイタリア進軍を支持する」
ここに、カルタゴ軍三将の生存を懸けた役割分担が決定した。
ハシュドゥルバルは、残存兵の精鋭を率いて北上。
アルプスを越えてイタリアへ侵攻し、兄ハンニバルと合流してローマ本国を叩く最後の賭けに出る。
マゴーネは、イベリア内陸に残り、各地に散った兵を再編。
ゲリラ戦を展開してスキピオの足止めを図る。
ジスコーネは、南部へ退き、要塞都市ガデスを中心に防衛線を維持。
イベリアにおけるカルタゴ勢力の最後の拠点を死守する。
三人は互いに視線を交わした。
カルタゴの未来を背負う将としての絆が、彼らを強く繋いでいた。
「我らは散る。……だが、カルタゴはまだ死なん!」
ハシュドゥルバルの声には、バエティスでの敗北で刻まれた痛みが残っていた。
しかし、その眼光にはバルカ家特有の不屈の炎が揺らめいていた。
──紀元前二〇八年、夜。
会談が終わると、ハシュドゥルバルは休む間もなく、生き残った精鋭を率いて闇の中へと出撃した。
北へ、ピレネー山脈を目指す過酷な行軍の始まりである。
彼は一度も後ろを振り返らなかった。
イベリアの地で積み重ねた敗北の痛みと恥辱を抱えながら、ただ前だけを見つめて夜道を進む。
(すまない、兄貴……。俺はバルカの『盾』になれなかった。イベリアを守るという約束を果たせなかった。だけど……ローマを滅ぼす最後の戦いだけは、兄貴と共に戦わせてほしい……)
敗北の重圧に押し潰されながらも、兄への絶対的な信頼を胸に進むその背中は、なおも戦い続ける気高きカルタゴの将そのものであった──。




