第六十二話 バエティス川の戦い ── ハシュドゥルバルとの決戦
カルタゴ・ノウァが陥落してから数か月後、港にはローマ本国へ向けて出航準備を進める一隻の船があった。
スキピオは親友レリウスの肩を軽く叩き、爽やかに微笑んだ。
「レリウスとしばらく離れるのは心細いけど、この勝利を正確に元老院へ届けられるのは君しかいないからさ」
レリウスは几帳面に報告書の束を抱え、真剣な面持ちで頷いた。
「任せてくれ。お前は十年苦戦していたヒスパニア戦線で、これほど鮮烈な勝利を挙げたんだ。
お前の最高司令官就任に不平を鳴らしていた元老院の石頭どもがどんな顔をするか、楽しみだ」
「早く帰ってきてよ。これからの戦いには、君の力が必要だ」
レリウスを乗せた船が青い地中海へと滑り出していくのを、スキピオはいつまでも見送っていた。
だが、その数日後──。
執務室で大量の書類の山に埋もれたスキピオは、頭を抱えて小さく呟いた。
「……レリウス早く戻ってきてくれ。僕はこういう細かい仕事には向いてないんだ」
困惑の声を上げるスキピオ。
彼の思考の大半は、次の戦い── ハシュドゥルバルとの決戦に向けた戦略で占められていた。
カルタゴ・ノウァを失ったハシュドゥルバルが、早々に巻き返しに転じてくるのは目に見えている。
親友不在の間、スキピオはローマ軍の常識を覆す軍団改革へと乗り出した。
まず変えたのは、兵士たちの訓練と装備であった。
スキピオはイベリア特有の短く、重く、両刃に厚みのある剣に目を付けた。
後に「グラディウス・ヒスパニエンシス(ヒスパニア剣)」と呼ばれるこの剣。
カンナエでの地獄を経験していた彼は、密集して戦う接近戦の時にこの剣が有効であると考えたのだ。
「見ていて。この剣は『斬る』のじゃない。『刺す』ための剣だよ」
スキピオは兵士たちの前で自ら手本を見せ、一瞬の踏み込みで木製の標的の真芯を深く貫いてみせた。
驚愕する兵士たちに、スキピオは愛嬌のある笑みを向けた。
「ハシュドゥルバル軍の盾は大きくて頑丈だ。大振りに斬りつけるより、隙間から刺す方がずっと早い」
次に、スキピオは兵の訓練内容を日ごとに固定化し、三日訓練を続けたのちに必ず一日休息日を設けるという日課制を導入した。
朝は山岳地帯を駆け抜ける軽装歩兵の訓練、その後はヒスパニア剣での密着戦訓練、午後は密集隊形から瞬時に散開する隊形転換訓練。
これらを繰り返し、兵士の肉体と隊形転換の機敏性を徹底的に鍛え上げた。
そして休息日には戦術議論の時間を設け、敵の弱点をどう突くかを皆で議論させた。
スキピオは兵士全員を “戦場の頭脳” に育てようとしていたのである。
「総司令官自ら、戦術の講義をするなんて聞いたことがないぞ……」
「だが、あの人の話は妙に分かりやすい」
型破りで親しみやすく、それでいて圧倒的に合理的な若き将軍に、兵士たちの心は完全に魅了されていった。
数の力ですぐにでもカルタゴ・ノウァ奪還に動くとスキピオが警戒していたカルタゴ軍は、この間、全く動くことができていなかった。
カルタゴ軍にとってカルタゴ・ノウァは、イベリアにおける武器、兵糧などの兵站の拠点でありバルカ家の富の象徴でもあったのだ。
軍資金を含めたそれらすべてをローマ軍に奪われたことで、バルカ家の威信も失墜し、カルタゴ軍は兵站の再構築すらままならず、軍の維持に苦しむ状態に陥っていたのである。
寄せ集めの傭兵や忠誠心の薄い部族兵たちは、富と補給を失った軍にいつ背を向けてもおかしくない。
兵力こそ多いが、質も統制も不安定な軍勢では、攻勢に出るどころか、駐屯地から動くことすら危険だったのである。
その年の冬、スキピオはアフリカへ向かう決断をする。
ハンニバルに勝つためには、今のローマ軍の力だけでは不十分だった。
スキピオは、どうしてもヌミディア騎兵の力が必要だった。
カルタゴ・ノウァの守備を、副官のルキウス・マルキウスへ任せ、少数の護衛をつけただけでアフリカ大陸へと渡る。
ヌミディア西部の王、シファクスと会談するためである。
スキピオが到着すると、シファクスは驚きと興味を隠さずに迎えた。
「ローマの若き将軍が、敵地へ自ら来るとは」
その声には、敵将を迎えるというより、 “未知の人物を見極めようとする王の好奇心” があった。
スキピオは礼を尽くしつつ、一歩も引かぬ堂々たる態度で王の前に立った。
「あなたの国の未来は、カルタゴの都合で決まるべきではない。ヌミディアはヌミディア自身のためにあるべきだ」
シファクスは目を細める。
「ローマは我が国を利用するつもりか?」
「利用するのではありません。共に戦うのです。あなたが望むなら」
この言葉は、シファクスの胸に深く刺さった。
カルタゴは常に命令するのみだったからだ。
会見は緊張に満ち、互いに一歩も譲らなかった。
最後にシファクスは言った。
「ローマの将軍よ。あなたの言葉は興味深い。だが……私はカルタゴとの関係を断ち切るわけにはいかん」
スキピオは静かに頷き、敵の王の力量を認めつつ、イベリアへ戻るために宮廷を後にした。
この冬の会見は、同盟を生むことはなかった。
しかし── ヌミディアには、二つに分かれていたもう一つの国があった。
先年、前王ガイアが崩御したことで王族同士の後継者争いが勃発し、いまなお混乱が続く東ヌミディアである。
スキピオは、本来の後継者である第一王子マシニッサを探していたが、その所在はいまだ掴めていなかった──。
──紀元前二〇八年、春。
元老院への報告と長い政治儀礼をやり終えたレリウスが、ついにイベリアへ戻ってきた。
「レリウス! やっと帰ってきたね!」
満面の笑みで迎えるスキピオに、レリウスは執務室に積みあがった書類の山を見て、深くため息をついた。
「……聞くのが怖いが、ひょっとしてこれは俺の仕事になるのか?」
スキピオは悪びれもせず、愛嬌たっぷりの笑顔を向けた。
「分かっちゃった? レリウス君が優秀で、ほんと助かるよ」
「予想はしていたさ」
呆れながらも、どこか嬉しそうに微笑む親友。
レリウスはやれやれと肩をすくめた。
レリウスも戻り戦う体制の整ったスキピオは、精鋭に仕上がった一万五千を率いて、敵将ハシュドゥルバルを討つべく進軍を開始する。
それに呼応し、ハシュドゥルバルは二万五千を率い、バエティス川上流の南岸にある強固な丘陵地に陣を敷いていた。
ハシュドゥルバルは地図の上に手を置き、川の流れと周囲の地形をじっと見つめていた。
「この高地を押さえていれば、ローマ軍は川を渡らねばならない。
渡河中の敵を叩けば勝機はある。」
一方、ローマ軍の本陣では、スキピオが地図の前に立ち、諸将を静かに見渡していた。
「ハシュドゥルバルは動かない。いや動けない──と言うべきかな」
スキピオは地図の南岸に指を置いた。
そこには、カルタゴ軍が陣を敷く丘陵地が描かれている。
「彼は防御に適した丘を選んだ。川を渡る我々を叩くつもりだ。川を渡っての戦いはこちらが不利になる」
諸将の顔に緊張が走る。
スキピオは、しかし柔らかく笑った。
「だから、単純には渡らない」
その一言に、軍議の空気が変わった。
スキピオは地図の上流を指差した。
「レリウス。君は夜のうちに、軽装歩兵と騎兵を率いて上流へ回り込んでくれ。
川幅が狭く、流れが緩む地点がある。そこから渡河し、夜のうちに敵の背後の高地に潜む」
「夜間渡河か……。敵の偵察は南岸に集中している。背後は盲点になっているはずだ。
いい作戦だ。スキピオ」
スキピオは続けた。
「翌朝、私が正面から渡河を始めれば、敵はこちらが思惑通りに動いたと全兵力を向け叩きに来るはずだ。
その瞬間、レリウスの隊が背後から襲いかかる。
正面と背後の二方向から同時に叩けば、ハシュドゥルバル軍は崩れる!」
軍議の場にざわめきが走った。
スキピオは諸将を見渡し、ゆっくりと右手を掲げた。
「この戦いで、ヒスパニアの命運は決まる」
諸将は一斉に立ち上がり、胸に拳を当てて敬礼した。
「スキピオ将軍に栄光あれ!」
スキピオは微笑んだ。
「栄光はローマに。そして──この戦いを共に戦う君たちに」
軍議は静かに終わった。
だがその静けさの奥には、嵐の前の緊張と、勝利への確信が満ちていた。
その夜──夜陰に紛れ、レリウス率いる別動隊が密かに動き出した。
冷たい川を音もなく渡り切った彼らは、息を殺してカルタゴ軍の背後にある高地へと潜伏する。
そして翌朝。
スキピオ率いる本隊が、正面から堂々と川を渡る構えを見せた。
「敵が渡河を始めたぞ! この好機を見逃すな! ローマ軍を叩け!」
ハシュドゥルバルはここが勝負どころとばかりに、ローマ軍の渡河を阻止すべく主力部隊の投入を指示した。
しかし、カルタゴ軍が眼の前の敵に全神経を集中させたその瞬間──背後の丘からレリウス隊の鋭い角笛が鳴り響く。
「敵が背後に!? 何処から湧いて出たのだ!」
前後を挟まれ大混乱に陥るカルタゴ軍。
その隙を逃さず、スキピオは掲げたヒスパニア剣を前方に振り下ろし、自ら濁流へと飛び込んだ。
「今だ! 渡るぞ!」
ローマ兵たちが一斉に川を渡り、崩れかけた敵陣へと襲いかかる。
鍛え上げられた集団戦術と、密着戦に特化したヒスパニア剣の鋭い刺突が、カルタゴ兵の大盾の隙間を次々と突き穿っていった。
予期せぬ挟撃に為す術を失ったハシュドゥルバル軍は、八千人以上の損害を出し、北方のピレネー山脈方面へ撤退するしかなかった。
──バエティス川の戦いは、ローマ軍の完全な圧勝。
川岸に腰を下ろし、血で染まる水面を眺めながらスキピオは微笑んだ。
「レリウス君の奇襲が綺麗に決まったね」
「スキピオの策があったからだよ」
「僕に感謝しているなら、これからも書類仕事はレリウス君にお願いしていいよね」
二人は顔を見合わせて笑い合った。
だが、勝利の余韻も束の間、スキピオの視線は遠く南の海──アフリカ大陸へと注がれていた。
「レリウス。ハシュドゥルバルには勝てた。
でもこのままでは、ハンニバルにはまだ勝てない。
ハンニバルに勝つためには、どうしてもアフリカのヌミディア騎兵の力が必要だ」
「シファクスはカルタゴとの関係が深い。それを覆すには、相応の手土産がなければ難しいだろうな」
「ヌミディア東部の前王ガイアの王子── マシニッサを見つけられればな。
ローマが彼の王位継承を後押しすれば、味方になってくれる可能性が高い」
スキピオはそう言って遠いアフリカの方角を見つめた。
彼らは、その後もマシニッサの行方を探し続けるのだった──。




