第六十一話 ローマの剣の誤算 ──英雄マルケッルスの気負い
紀元前二〇八年、春。
前年、ローマの老将ファビウスの知略によって重要拠点タラントを奪還されたハンニバルは、南イタリアに残された最後の安全地帯、ブルッティウム地方での冬営を余儀なくされていた。
揺らめく松明の光に照らされたハンニバルの天幕へ、影の軍団の長アブディルが静かに入室してきた。
その表情は、いつになく引き締まっている。
「ハンニバル様。ローマの新たなる執政官の情報が届きました。
クリスピヌス、そして……マルケッルス。いずれも南イタリアの担当と決定したとのことです」
「クリスピヌスか。いつもマルケッルスの後ろに控えている野郎だな。奴がとうとう執政官か」
ハンニバルは吐き捨てるように言い、卓上の地図を睨みつけた。
その眼には、前年カヌシウムで煮え湯を飲まされたマルケッルスへの、凄まじい敵意が宿っている。
「それと、ローマは今年も軍の編成に難航しております。
クリスピヌスが率いる新編成の軍団は、同盟兵を合わせても六千から八千ほどにしかならないとのことです」
アブディルの報告に、ハンニバルは鋭く口元を歪めた。
「そうか。ローマは確実に疲弊しているな。ここで奴らを一気に打ち破れば、再び南イタリアの主導権を取り返せるぞ」
その言葉を口にした瞬間、ハンニバルの脳裏に、前年カヌシウムでの激戦が鮮烈に蘇った。
──次こそ俺の手で、お前の剣を完全に叩き折ってやる。
あの誓いは、まだ胸の奥で燃えている。
「アブディル。今年こそ、マルケッルスと決着をつける」
ハンニバルは南イタリアの地図を睨み、指先で丘陵と平原の境界をゆっくりとなぞった。
その眼差しは、すでに “次なる決戦の地” を描き始めていた。
紀元前二〇八年、初夏。
駐屯地ヴェヌシアを出発したローマ軍は、ハンニバル本隊を求めてブルッティウム方面へ向けて進軍を開始していた。
「閣下! ローマ軍はヴェヌシアを出発し、アッピア街道を南下。カヌシウム南方を通過し、アプリア中央丘陵へ続くルートを進軍中です」
斥候隊長のカルタロから正確な情報が入ってくる。
ハンニバルは、ローマ軍の進軍ルートを掌握するため、カルタロ指揮下の偵察隊をあらかじめ各要所に張り巡らせていた。
「よし。マハルバルはヌミディア騎兵を引き連れ、この山道の死角となる丘の裏に潜め。
ハンノは歩兵部隊を率い、さらに手前の斜面に伏せろ。ローマ軍が隘路に入り込んだ瞬間、前後から挟撃して奇襲をかける」
「了解した!」
「はっ!」
ハンニバルは、ローマ軍がアプリア中央丘陵へ続くルートで進軍してきた場合に予定していた奇襲地点を二人へ指示した。
それぞれが、割り当てられた地点へと散り、獲物が罠にかかるのをじっと待ち構える。
だが、歴史はハンニバルの想定をも超える劇的な幕切れを用意していた。
潜伏地点で息を潜めていたマハルバルの目に、アッピア街道から外れ、遮蔽物の多い危険な丘陵地帯へと進んでくる少数の騎兵隊が映った。
本隊ではない。わずか数十騎の偵察部隊。
マハルバルは目を凝らし、次の瞬間、驚愕に身震いした。
赤いマント。
偵察隊の先頭で指示を飛ばす姿。
幾度も死闘を繰り返し、脳裏に焼き付いて離れない、あの男の顔──。
「……あれは間違いなくマルケッルスだ」
まさか執政官自らが、このような危険な最前線の偵察に出向いてくるとは。
マハルバルは興奮を押し殺し、周囲の騎兵たちに低く鋭く言い含めた。
「いいか…… あの赤いマントの男がマルケッルスだ。敵の大将を絶対に取り逃がすな!」
──その頃、緑に覆われた静寂の丘を、マルケッルスとクリスピヌスの二人の執政官は、周囲を警戒しながらゆっくりと馬を進めていた。
「閣下、やはり本隊の到着を待つべきでは。このあたりは死角が多すぎます」
クリスピヌスが馬を並べ、不安を隠せずにマルケッルスを引き止めようと提言する。
しかしマルケッルスは馬上から遠くの丘を見つめ、静かに首を振った。
「いや、死角が多い場所だからこそ、この目で確かめる必要がある。
相手はあのハンニバルだ。どんな罠を仕掛けてくるか見抜けずに進軍させるのは危険だ。
執政官たる私が、ここで臆しては奴の策略を見誤る」
数十年にわたり、戦場で泥をすすり、血を流しながら戦い続けてきた老将の体は、すでに満身創痍だった。
だが、その瞳にある炎だけは、あの日ノラ攻防戦でハンニバルを初めて撃退した時のまま、微塵も衰えてはいない。
しかし──そのあまりにも旺盛な責任感と果敢さが、この日の悲劇へと彼を導いていく。
二人が密林に挟まれた丘の斜面に差し掛かった、その時だった。
突如、周囲から、耳を劈くようなカルタゴの角笛が鳴り響く。
「敵襲──ッ!!」
潜んでいたヌミディア兵たちの投槍が、容赦なくローマの偵察隊に降り注ぐ。
左右の林から、凄まじい怒号とともに雪崩を打って突撃してくる伏兵。
退路はすでに遮断され、それは逃げ場のない、完全なる包囲網であった。
「慌てるな! 隊形を整えろ!」
マルケッルスは叫び、老骨を奮い立たせて剣を抜いた。
襲い来る槍兵を次々と斬り伏せ、執政官としての圧倒的な意地と武勇を見せつける。
しかし、多勢に無勢であった。
背後ではクリスピヌスが何本もの槍を浴びている。
ローマ兵たちは次々と倒れ、草地は血の海と化した。
ついに、マルケッルスの愛馬も槍に貫かれて倒れた。
激しく地面に叩きつけられ、無数の槍がその肉体を深く貫く。
草地の上に仰向けに倒れ込んだ老将の視界は、瞬く間に赤く染まっていった。
遠のいていく意識の中、戦列が崩壊する音が響く。
(ここまで、か……。私はついに、奴の首を取れなかった……)
兵たちの怒号が遠ざかり、戦場に奇妙な静寂が訪れた。
泥にまみれた重い足音が、ゆっくりとマルケッルスに近づいてくる。
薄れゆく視界の向こう、そこに立っていたのは、見紛うはずもない男──ハンニバルであった。
知らせを聞いて本陣から馬を飛ばしてきたハンニバルは、すでに事切れる寸前の宿敵を見下ろし、厳かにその場に膝をついた。
「……マルケッルス。ローマの剣よ。お前ほどの男が、なぜこのような少数の偵察などに出たのだ」
マルケッルスは口から血を溢れさせながら、ハンニバルの姿をその瞳に映し、自嘲気味に、しかし誇り高く微かに微笑んだ。
「お前は油断ならん、ハンニバル……。私の目で地形を捉えて、お前の戦術をはかるためだ……」
それが、ローマの剣が遺した最期の言葉となった。
ハンニバルは何も言わず、ただ深く、深く頷いた。
その眼に宿っていたのは、十年間、自分を執拗に追い回し、対等に戦い続けた唯一無二の好敵手への、最大級の敬意と哀悼であった。
「見事な生涯だった、マルケッルス。お前は間違いなく、英雄だった」
ハンニバルの手によって、その胸から静かに槍の穂先が抜かれた瞬間、マルケッルスは天を仰いだまま、静かに息を引き取った。
数日後、重傷を負って命からがら逃げ延びていたもう一人の執政官クリスピヌスも、その傷が元で死亡した。
ローマは、国の最高指導者である二人の執政官を同時に失うという、あのカンナエの悪夢以来の未曾有の衝撃と絶望に叩き落とされた。
元老院は沈黙し、民衆は恐怖に震えた。
ローマの剣は、完全に折れたのだ。
誰もいなくなった丘の上。ハンニバルは、自らの命令によって丁重に火葬されるマルケッルスの煙を見つめていた。
敵将の形見である高貴な金印環(指輪)を掌の中で見つめながら、彼はぽつり、と呟いた。
「マルケッルス……お前という剣を失い、ローマは今、怯えているだろう。だが……」
ハンニバルは、敵将の血の跡の残る指輪を掌に包み込みながら、十年に及ぶ宿命の戦いが、今まさに終わったことを悟った。
それと同時に、海の向こう──イベリアでカルタゴ・ノウァをわずか一日で陥落させたという、不気味な若き天才の姿がよぎる。
「次に俺の前に立ちはだかるのはお前か、スキピオ」
折れた前時代の剣の煙が空へと消えゆく向こう側に、ハンニバルは、まだ見ぬ新時代の “若き鷲” の影を、確かに、そして強烈に感じ取っていた。




