第六十話 カヌシウムの死闘 ── 折れぬ剣
紀元前二〇九年、春。
タラントの港にはまだ冬の名残の冷たい風が吹き、ハンニバルの執務室には、湿った石壁の匂いが漂っていた。
そこへ、影の軍団の長アブディルが静かに入室してきた。
羊皮紙を胸に抱え、深く頭を下げる。
「ハンニバル様。ローマの今年の執政官が決まりました。……マルケッルスと、あの老ファビウスでございます」
ハンニバルは地図の上から視線を上げた。
その瞳は、十年以上ローマと戦い続けた男の鋭さを宿している。
「『ローマの盾と剣』が揃い踏みか。……して、奴らの配置は?」
「共に南イタリア担当ということですが、主戦担当は、昨年に引き続きマルケッルスが担っております。
ファビウスは、別動隊を率いて独自の動きをする模様です。
……しかし、今年のローマは徴兵が難航しているようです。
ファビウスの軍勢は通常よりも少ない人数しか集められず、マルケッルスの軍勢は昨年の兵に少しばかり補充を受けても二万そこそこに留まるかと」
ハンニバルはにやりと笑った。
「二万そこそこか……。ローマもついに兵の枯渇が見えてきたな」
ハンニバルはゆっくりと立ち上がり、タラントの港を見下ろす窓辺へ歩いた。
「アブディル。今年こそ、マルケッルスと決着をつける。あの男はローマの剣だ。剣を折れば、ローマの戦意は大きく下がる」
アブディルは深く頭を下げた。
「御意」
──紀元前二〇九年、夏。
イベリアでのスキピオの快挙──カルタゴ・ノウァ陥落の報は、まだ南イタリアの山岳地帯に滞在しているハンニバルの元には届いていない。
アプリア地方、カヌシウム近郊。
焦熱の太陽が照りつける丘陵地帯に、ハンニバルは静かに陣を敷いた。
カヌシウムは、ローマ軍の補給線を守るための要衝であり、周辺都市をローマから離反させるための拠点として是非とも押さえておきたい都市だった。
ハンニバルの動きを察知したマルケッルスも、すぐさま精鋭を率いてカヌシウムへ迫ってきていた。
ハンニバルが丘陵地帯に布陣しているのを確認したマルケッルスは、敵に有利な斜面での戦闘を避けるため、手前の平原に強固な陣営地を築いてハンニバルの出方を待った。
ローマの陣営地は、伝統的に強固である。
ましてや相手はマルケッルスだ。
ハンニバルは、ヌミディア騎兵を繰り出して挑発する。
マルケッルスは重装歩兵を前に押し出して跳ね返す。
しかし、騎兵を引かせて誘っても、陣営地からは出てこない。
ハンニバルの狙いはことごとく外され、戦闘は日没まで続いたが、小規模な衝突に終始していた。
互いに探り合い、互いに退かず、次の一手を計る──静かな試し合いの一日であった。
「流石にマルケッルスは手強いな」
ハンニバルが地図を見下ろしながら呟くと、マハルバルがすぐに噛みついた。
「敵を誉めてる暇があったら、あの固い陣営地を何とかする方法を考えてくれよ、大将!」
ハンニバルは薄く笑った。
「陣営地はそう簡単には崩れねぇさ。……だから、奴らを自ら外へ出させる」
「なに? どういうことか説明してくれ」
「こちらの斜面から最も近いのが敵の右翼だ。
明日はそこへ、丘の上から軽装歩兵の投槍と投石を雨あられと叩き込む。
陣内にいようと、被害は避けられん」
「つまり……奴らはたまらず出てくる。
ってことか?」
「そうだ。
陣内に籠っていても徐々に被害は拡大していく。
奴らは、必ず状況打破のために打って出るしかなくなる」
マハルバルの口元が獰猛に吊り上がった。
「奴らが怒りに震えて出てきたところを、俺のヌミディア騎兵で突き崩すわけだな!」
「思う存分暴れてくれ。明日は俺たちの勝利だ」
翌日、ハンニバルが本気の攻勢に出た。
丘の上という高所の利を生かし、投石兵や投槍兵などの軽装歩兵を使い、低い位置にいるローマ軍右翼へ斜面の上から遠距離攻撃を浴びせる。
「上からの攻撃には、陣営の柵も役に立たん! このままでは被害が拡大する一方だ。本陣へ状況報告を!」
「はっ!」
ローマ軍右翼の同盟国部隊を指揮するアレンニウスは、すぐさまマルケッルスへ伝令を走らせた。
報告を受けたマルケッルスは、即座に出撃を命じる。
「アレンニウスへ伝えろ。前進して斜面の敵を押し返せ! 中央からも重装歩兵を繰り出す!」
マルケッルス指示を受け、アレンニウスは陣営地から打って出た。
しかし、ハンニバルはその瞬間を待っていた。
「重装歩兵を繰り出せ!」
ハンニバルは控えさせていた重装歩兵を繰り出し、斜面を登ってきたローマ軍右翼と中央から出てきた重装歩兵の足止めを図る。
カルタゴ重装歩兵の壁にぶつかり、ローマ軍の前進がピタリと止まった。
「よし……俺たちの出番だな」
前進を阻まれ足の止まった敵右翼へ、側面の死角からマハルバル率いるヌミディア騎兵が電光石火の勢いで突入していく。
ヌミディア騎兵に側面から切り崩され、更に背後へ回られて退路を断たれたアレンニウス隊は、パニックに陥り陣形が崩壊。
兵たちは散り散りになって逃げだした。
この混乱に中央から駆け付けてきた重装歩兵までもが巻き込まれ、ローマ軍全体が大混乱に陥っていく。
「退け! 陣地まで退け!」
ローマ軍は命からがら陣地へ逃げ帰ったものの、この一日だけで二千七百名に達する大損害を出した。
幕僚たちが青ざめる中、マルケッルスは、血を流し逃げ帰った兵たちを激しく叱咤した。
「恥を知れ! ローマの誇りはどこへ行った! 今日逃げた兵には大麦しか与えん! 明日の最前線には、今日真っ先に敗走した者たちを立たせる! 明日は死んでも誇りを取り戻せ!」
その声はただの怒号ではなかった。ローマの誇りを忘れて逃げ出した兵たちに、再びその矜持を取り戻させるための、闘将の魂の叫びであった。
屈辱と悔しさに震えながらも、兵たちの瞳に再び意地の炎が燃え上がる。
死をも恐れぬ猛反撃が始まろうとしていた──。
カルタゴ陣営では、アプリアの夜風が丘陵を渡り、遠くで戦象が低く唸っている。
マハルバルが天幕に入るなり、いつもの調子で声を上げる。
「今日は惜しかったな、ハンニバル。
で、明日はどう料理する?」
「明日は、生き残っている戦象を使う」
「今まで役に立たずただ無駄飯食いをしてきただけの連中が、ここで役に立つのか?」
ハンニバルは象の唸り声に耳を澄ませながら答えた。
「象は十年近く満足に使えなかった。
使える地形が限られ、暴れれば味方を踏み潰す諸刃の剣だからな。
だが──明日は違う。平原での決戦だ。
ローマ軍は疲れ切っている。象を投入する条件が、ようやく揃った。」
「連中にもやっと役に立ってもらう時が来たってわけだ」
「ローマ軍の最大の強みは、重装歩兵の一糸乱れぬ密集体系だ。
そこへ戦象を突っ込ませ隊列を乱す。
そこからが、お前たち騎兵の出番だ」
「いいじゃねぇか! 明日こそ俺たちの勝ちだな!」
ハンニバルはゆっくりと頷いた。
「マハルバル。明日──ローマの剣を折るぞ」
天幕の外では戦象が低く叫び声を上げ、アプリアの夜風が丘陵を渡っていった。
そして迎えた、運命の三日目の朝。
「閣下…… 丘の上で、カルタゴ軍が “何か” を動かしています。
あれは……象では?」
兵士たちがざわめく。
「象だと?」
マルケッルスは静かに兵たちを見渡した。
そこには、昨日の敗走を恥じ、痛む体を押して最前線に立つ兵たちの姿があった。
名誉回復の機会を与えられた彼らの前に進み出ると、マルケッルスは力強く告げた。
「聞け。象は恐れるに足らん。奴らは “我らを混乱させるための道具” だ。
象そのものが脅威ではない。」
兵士の一人が震える声で言う。
「閣下…… あんな巨体に突っ込まれたら、俺たち踏み潰されるんじゃ……」
「象の弱点は鼻だ。鼻を傷つけられれば、痛みに耐えかねて暴走する。
正面には立たず、横に避けてから鼻先を槍で突け!」
そのとき── 丘陵の上で、戦象が不気味な咆哮を上げる。
ローマ軍団の背筋が、一斉に震えた。
マルケッルスは、陣営地から出て決戦の構えを見せる。
「よいか! 今日、背を見せることは絶対に許さん! 死んでも誇りを取り戻せ!」
ローマ軍の陣形をみたハンニバルも、決戦の命を下す。
「戦象を前へ! ローマの重装歩兵を蹴散らせ!」
巨大な戦象部隊が地響きを鳴らし、ローマ軍の戦列へと突撃を開始する。
迫り来る巨獣の恐怖に、ローマ兵たちの盾が軋み、誰もが死を覚悟した。
その時、昨日の敗走を恥じ、名誉挽回に燃える一人の男が立ち塞がった。
突進してくる恐獣からも、絶対に逃げないと決死の覚悟で臨む。
彼は、先頭の巨象をギリギリまで引きつけると、脇へ避けるや否や手にした軍旗の重い竿を、力任せに頭部へと殴りつけた。
咆哮を上げてのけぞる巨象。
その隙を逃さず、鼻先を槍で深く突き刺す。
痛みに我を忘れた象は狂乱し、なんと後方の味方──カルタゴ軍へと向きを変えて突進していった。
その暴走は瞬く間に他の象にも伝染し、カルタゴ軍の隊列を内側から無残に粉砕していく。
「今だ! 前へ押せ!」
マルケッルスはこの好機を見逃さず、全軍に反撃の突撃を命じた。
形勢は一気にローマ側に傾いた。
この日、ハンニバル軍は八千名以上もの甚大な損害を出し、ついに後退を余儀なくされたのであった。
だが、ローマ軍の勝ち鬨もそこまでだった。
三日間にわたる地獄の消耗戦により、ローマ兵もまたほとんどが負傷しており、敗走するハンニバルを追撃する余力はどこにも残されていなかった。
夕陽が赤く平原を染める頃、両軍は血の海となった荒野を引き上げるしかなかった。
戦術的には、互いに致命傷を与えられぬままの痛みを分け合う形となった。
しかし、この凄惨な三日間の意味は、戦場の外で証明されることになる。
マルケッルスがカヌシウムの地で血を流し、死狂いの執念でハンニバルを正面から足止めし続けたその期間に──。
南イタリアのもう一方の戦線では、別動隊を率いる “ローマの盾” こと老ファビウスが、静かに、しかし牙を剥いて動いていた。
ハンニバルがカヌシウムに縛り付けられている隙を突き、ローマ軍はカルタゴの重要拠点であったタラント奪還へと動き、陥落させていたのである。
戦いの後、ハンニバルは再び山岳地帯の高所へ陣を移し、眼下で未だ不気味に陣営を保つローマ軍を見つめていた。
「マルケッルス……お前という男は、どこまで俺を阻みやがる……」
その眼に宿っていたのは、前年のような余裕の笑みではなかった。
自軍の小さからぬ損害からくる苛立ちの影があった。
「だが、マルケッルス、次こそ俺の手でお前の剣を完全に叩き折ってやる」
互いの肉体を削り合うような消耗戦を繰り広げたマルケッルスに、ハンニバルは雪辱の炎を激しく燃していた。




