第五十九話 カルタゴ・ノウァ陥落──若き鷲大地に立つ
紀元前二一〇年冬。
冷たい海風がイベリア東岸を叩き、灰色の波が岩肌を削っていた。
ローマ軍の輸送船団が静かにタラッコの港へ入る。
甲板から降り立った若き最高司令官プブリウス・コルネリウス・スキピオは、海岸の土を掴み、その冷たさを確かめるように握りしめた。
ここは── 父と叔父グナエウスがカルタゴ軍に敗れた因縁の地。
「……ローマの反撃の第一歩は、私がここから始める」
その声は復讐の炎ではなく、ローマの未来を冷徹に見据える司令官の声だった。
スキピオは冬の間、軍をタラッコに留めたまま一歩も動かなかった。
その間、敵の情報収集に時間を割いていた。
「スキピオ、戦場に出る気はないのか?」
父の仇を取りたいはずの若者の重い腰を訝しむように、老練の副将シルアヌスが尋ねる。
スキピオは上がってきた報告を整理していた手を止め、副将に顔を向けた。
「今は勝つ準備をしています。
戦場に出るのは、勝つ準備が整ってからです」
指揮官の経験が浅い二十四歳の若者の放つ自信に満ちた静かな言葉に、シルアヌスは “この若者は本物だ” と確信を深めた。
数か月に及ぶ情報収集の末、スキピオはカルタゴの主力三軍──
ハシュドゥルバル、マゴーネ、ジスコーネがそれぞれ二万五千を率い、互いに離れた場所で冬営しており、連携が十分でないことを見抜いた。
そして、カルタゴ軍の本拠地──カルタゴ・ノウァにはわずかな守備兵しかいないことも突き止める。
しかも、一番近いハシュドゥルバル軍でさえ、行軍に十日を要する距離で冬営していた。
敵の総数は自軍の三倍だが、分散して離れて冬営中の今なら三倍の敵が同時に動くことはない。
それらの情報を精査して、スキピオは一つの結論へとたどり着く。
春になり敵が合流する前に、一気に敵の『心臓』を突く。
カルタゴ軍の本拠地──カルタゴ・ノウァ電撃作戦。。
スキピオは、これまでの情報収集の成果で、ここを落とすための戦略をすでに練り上げていた。
紀元前二〇九年初春。
スキピオは親友であり知将のガイウス・レリウスと、事前に作戦の最終確認を交わしていた。
「レリウス。北側の浅瀬──潮の満ち引きは間違いなさそうだね」
「あぁ。昼過ぎになれば、北側の潟の潮が劇的に引いていく。
普段は胸ほどの深さがあるが、その時だけ膝ほどになり歩いて渡れる」
「それなら、当初の予定通り君は艦隊を率いて海側から猛攻を仕掛け、敵の目を港へ釘付けにしてくれ。
その隙に、僕が潟を渡り、北側の城壁を突く」
「潮が引いているのは夕方までだ。それまでに攻略してくれスキピオ」
「分かってるよ。相変わらず心配性だな、レリウス」
スキピオは、カルタゴ・ノウァの守備隊が海からの侵入は不可能と油断し、北側の城壁の防備を薄くしていることを事前の情報収集で掴んでいた。
地元の漁師から聞いた、北側の潟の浅瀬の情報も重ね合わせ、スキピオは確信を得ていた。
「神は僕たちに味方している」
レリウスは苦笑した。
「現地民の情報を調べ尽くしたお前の合理的な計算だろ」
翌朝。スキピオは兵士たちを集めると、 白い朝靄の中へ静かに歩み出た。
「勇敢なる兵士諸君。
昨夜、海神ネプトゥーヌスが私の夢に現れた。
この地で、ローマは必ず勝つ── 神はそう告げたのだ!」
「おぉ……!」
兵士たちの驚愕の声が響く。
「恐れるな! 神が我らを助けると約束された! 本日カルタゴ・ノウァはローマのものとなる!」
「うぉぉぉーーーッ!!」
スキピオの演説により、ローマ軍の士気は天を突くほどに高まった。
スキピオは、各隊長へ西側の正面城壁への攻撃準備を指示する。
主力を正面に展開し、偵察隊を送って城壁の高さを測らせていた。
兵たちは皆、正面からの攻城戦が始まると思い込んでいる。
カルタゴ・ノウァ守備隊もまた、正面からの総攻撃に備えて全体制を整える。
そして正午になるころ、レリウス率いるローマ艦隊が南側の港へ突入し、激しい攻撃を開始した。
全ては、敵の守備隊を北側以外へ集中させるための陽動である。
カルタゴの守備兵は、狙い通りに西側の正面と南側の海への防戦に全精力を注いでいた。
正午を過ぎたころから、北側の潟の潮が急速に引いていく。
スキピオはわずか五百人の精鋭を率いて、静まり返る北側の潟へ突入させた。
「急げ! 神が拓いてくれた道だ! 潮が戻る前に攻略するぞ!」
水をかき分け、膝ほどの浅瀬を進むローマ兵。
手薄になっている北の城壁へ迅速に梯子をかけ、一気に乗り越えていく。
城壁を越えた精鋭たちは、正面の防衛に夢中になっていた守備隊の背後を急襲し、内側から重い城門を力任せに開け放った。
「城門が開いたぞ! 突入せよ!」
正面に展開していたローマ軍主力は、この瞬間を見逃さずに一気に城内へ攻め込む。
大軍の侵入を許してしまったカルタゴ守備兵は、もはやなすすべもなく、次々と武器を捨てて降伏した。
イベリア最大の牙城カルタゴ・ノウァは、陸海を連動させたわずか一日の奇襲で陥落。
地中海全土を震撼させる、青年スキピオの鮮烈な電撃作戦であった──。
翌日以降──。
ローマとの戦争が激化して以来、ハシュドゥルバルが課してきた重税や徴兵に苦しんでいた地元部族──イレルゲテス族、エデタニ族、アウセタニ族などの使者が、噂を聞きつけて次々とスキピオのもとを訪ねてきた。
スキピオは柔らかい笑顔で彼らを迎える。
「遠路はるばるよく来てくれました。あなたたちの土地のことを、そしてカルタゴの苛政について、もっと詳しく教えてください」
使者たちは、その愛嬌のある笑顔と、実年齢よりもさらに若く見える美しい顔立ちの若者に、一瞬で毒気を抜かれた。
その横では、レリウスが几帳面に要望を記録し、兵站の提供条件や帰属の誓約を素早く整理していく。
「スキピオ、彼らの保護を約束すれば、全面的にローマへ帰順するぞ。騎兵戦力と補給も提供してくれるだろう」
「さすがレリウス君。僕が戦うための道を、全部整えてくれるね」
その日から── イベリアの勢力図は一気に塗り替わっていく。
カルタゴ主力三軍は本拠地とイベリア部族の人質を失って、長年カルタゴに与していた同盟部族が、雪崩を打つようにローマへ帰順していったのである。
ローマ軍の強固な兵站が確立され、 “若き鷹” スキピオの名声は、地中海全土へと轟いていくのだった──。




