第五十八話 ローマの剣 ──逃げぬ男マルケッルス
紀元前二一〇年春。
前年のヒスパニア戦線の崩壊、そして南イタリアにおけるハンニバルの不気味な沈黙は、ローマに再び重苦しい暗雲をもたらしていた。
元老院議場では、間近に迫った市民集会での執政官選出を睨み、誰を最高指揮官として推すべきか、派閥を超えた怒号が飛び交っていた。
「慎重派を選ぶべきだ! これ以上の損失は国家の死を意味する!」
「いや、ハンニバルの首を獲れる攻勢派を!」
「ファビウスの持久戦術はもう見飽きた!」
激論の末、元老院の宿老たちは一つの最適解を導き出し、市民集会へとお墨付きを与えた。
南イタリアでハンニバルを迎え撃つ攻めの剣として、マルクス・クラウディウス・マルケッルスを。
そして、カルタゴの反撃が懸念されるシチリア戦線を完全に平定し、背後の憂いを断つ守りの要として、冷静沈着なマルクス・ウァレリウス・ラエウィヌスを執政官に選んだ。
揺れる民意と元老院が、国家の命運を託した男──それこそが、マルクス・クラウディウス・マルケッルスであった。
ハンニバルをノラで三度撃退し、 “ローマの剣” と称えられる不屈の闘将。
彼が執政官に選出されたという報は、傷ついた市民たちを大いに奮い立たせた。
一方、ハンニバル軍はタラントで冬営を行っていた。
その執務室へ、影の軍団の長アブディルがローマの動向の報告へ入ってきた。
彼はいつも通りの冷静沈着な面持ちで主君の前へと進み出る。
「ハンニバル様。ローマの新たなる執政官の情報が届きました。
シチリア担当にマケドニアを封じた男、マルクス・ウァレリウス・ラエウィヌスを、そして、南イタリア担当に、あのマルクス・クラウディウス・マルケッルスと決定しています」
ラエウィヌスとマルケッルス。背後の海を完全に封鎖し、正面から肉薄してくるハンニバル包囲網。
報告を聞いたハンニバルは、驚く風もなく、むしろその燃えるような瞳に獰猛な光を宿して不敵に微笑んだ。
「俺の相手にマルケッルスを当ててきたか。いよいよローマも攻めに転ずる気のようだな」
これまではハンニバルが攻め、ローマが防戦一方だった。
しかし、カプアを奪還した今、ローマははっきりとハンニバルを圧殺するための攻めに転じると人選で明らかにしてきたのだ。
長引く消耗戦はハンニバルにとって最も避けたい。
ハンニバルの勝ち筋は、依然として会戦での完全なる大勝のみ。
彼は南イタリアの複雑な地形を完全に掌握していた。
包囲しようと迫るローマ軍の足並みを狂わせるため、山岳地帯の死角に快速のヌミディア騎兵を潜ませ、補給線を襲撃させて敵を揺さぶる。
すべては、敵の戦列を分断し、自らが最も得意とする決定的な野戦の好機を作り出すための罠であった。
南イタリアへ着任したマルケッルスは、すぐさまハンニバルの戦法を各個撃破が目的だと察知した。
「奴は我々を分断し、孤立させて叩く気だ。ならば、その手には乗らん!」
マルケッルスは精鋭を率い、ハンニバルの本隊が潜むと睨んだアプリア地方のヌミストラ近郊へと果敢に進軍していく。
焦熱の太陽が照りつけるヌミストラの地で、ハンニバルは近郊の丘陵地帯に陣を敷いた。
対するマルケッルスは、丘陵の手前の平原に布陣している。
「マハルバル。マルケッルスを挑発しろ」
「了解した。騎兵隊、ついてこい!」
戦闘は、ヌミディア騎兵の突撃から始まった。
マハルバルは騎兵隊を巧みに指揮し、叩いては離れるヒット&アウェイの攻撃を繰り返す。
「重装歩兵前へ! 敵騎兵を徐々に追い詰めていけ!」
マルケッルスは、ローマ軍伝統の重装歩兵による圧力をかける。
「よし、歩兵隊前へ。ローマ歩兵を受け止めろ!」
それに対応し、ハンニバルも歩兵を繰り出す。
「閣下! カルタゴ軍歩兵の後方で騎乗にて指揮しているのは、まさしくハンニバルです!」
マルケッルスと共に幾度もハンニバルと対戦してきた副官が、本陣で指揮を執るハンニバルを見つけ叫ぶ。
「なに!」
マルケッルスが目を凝らしてみると、歩兵の後方に陣取る一騎が、部隊へ指示を出している様子が見て取れた。
まさしく、ハンニバルだった。
「本隊を指揮しているのはハンニバルだ! 後衛の重装歩兵突撃! ハンニバルを押しつぶせ!」
歩兵部隊後方で指揮を執るハンニバルを確認したマルケッルスは、後続を投入して一気に勝負をつけに動いた。
「よし、後退だ。焦らずゆっくり隊を引け」
ハンニバルは押されてきた自軍を、計画通り整然と後退させた。
「逃がすな! ハンニバルを追い詰めろ!」
ローマ兵たちが色めき立つ。
「奴らに反撃する力はないぞ! 今ここで退路を断てば仕留められる!」
ローマ軍は、ハンニバルを逃げ場にない谷の奥へと押し込でいく。
狭い谷の入り口をローマの重装歩兵で完全に封鎖し、ハンニバルを袋の鼠に追い詰めた。
──しかし、それはハンニバルの仕掛けた罠だった。
誘い込まれた先は、逃げ場のない深い谷。
そこへ運命の悪戯か、南イタリア特有の濃い朝霧が立ち込める。
ハンニバルは谷の最奥部に、リビュア兵・イベリア兵の重装歩兵を分厚く配置し、ローマの突撃を食い止める盾とする。
そして、谷の両側に切り立つ丘の斜面、霧に隠れる絶妙な位置には、最強のヌミディア軽騎兵をあらかじめ待機させていた。
「ハンニバルの首を取れ!」
マルケッルスは勝利を疑わずに突き進む。
次の瞬間──濃い霧の向こうから突然、カルタゴの角笛が不気味に響き渡った。
「なんだ……? この角笛は」
その時、入り口を封鎖していたローマ軍の背後──丘の上から、霧を切り裂いてヌミディア騎兵が雪崩を打って駆け下り、ローマ軍の背後を完全に遮断した。
「伏兵だ! 包囲されるぞ! カンナエの二の舞いだ!」
悲鳴が上がる中、カルタゴ軍は動揺するローマの隊列を容赦なく蹴散らした。
視界不良の狭い谷の中、退路を断たれ、全方位から肉薄する刃を前に兵士たちは恐怖に慄いた。
だが、マルケッルスは怯まない。
「慌てるな! ここで退けば全滅だぞ! 前に、前に進むのだ!」
彼は声を枯らして叫び、混乱する兵士たちの先頭に自ら立って剣を振るう。
執政官自らが血煙の中で剣を振るって戦う姿が、兵たちに底知れぬ勇気を与え、戦列に冷静さを取り戻させた。
ローマ軍は果敢に攻め、包囲網の僅かな隙を突いてこれを突破。
辛くも軍を戦場から離脱させることに成功した。
遠ざかるローマ軍の背中を見送り、ハンニバルは呟いた。
「マルケッルス。さすがはローマの剣、容易には折れねぇな」
だが、死闘は終わらない。
ハンニバルは夜陰に紛れて静かに陣を引き、さらに険しい山岳地帯へと移動した。
マルケッルスを自らに有利な地形でさらに削るための、冷徹な誘いである。
マルケッルスもまた、負傷者を近くの町に収容すると、すぐさま執念の追撃を開始した。
その後数日間にわたり、南イタリアの険しい谷や丘陵地帯で、両軍は果てしない追撃戦と小競り合いを繰り返した。
ハンニバルは谷の死角からヌミディア騎兵を突撃させてローマの側面を脅かし、マルケッルスはそれを強靭な重装歩兵の陣形で耐え抜く。
互いに多数の死傷者を出しながらも、決定的な勝敗はつかず、この年は同時に引き下がる形で幕を閉じた。
結果は、完全なる引き分け。
ハンニバルは自らの健在を示して補給線を死守し、マルケッルスはハンニバルのそれ以上の進撃を阻んで同盟都市を守り抜いた。
互いに一歩も譲らぬ、名将同士の痛烈なチェスだった。
再び山岳地帯の高所へと陣を移したハンニバルは、遥か眼下のローマ軍の布陣を見つめていた。
「マルケッルス、見事だ。……ローマで唯一、逃げずに俺に挑んでくる男」
彼は静かに、しかし獰猛な笑みを浮かべた。
「だが──この南イタリアの山と谷は、俺の庭だ。次の一手で、その剣を叩き折ってやる」
ハンニバルの瞳の奥の炎は、カプアを失ってもなお、いささかも衰えてはいなかった。
門前に迫るハンニバルの恐怖を克服し、裏切ったカプアを奪還し盛り返すローマ。
しかし、 “怪物” ハンニバルは依然としてイタリアの地に深く根を張り、その眼光でローマを睨み続けている。
地中海の覇権を賭けた死闘は、若き新星スキピオがヒスパニアへ、そして決戦の地アフリカへと、舞台を広げていくのであった──。
───
第三部 ローマ進撃── 門前に迫る怪物
(完)




