第五十七話 二十四歳のプロコンスル ── 父の戦場を継ぐ者
ガイウス・クラウディウス・ネロは、ローマ政庁の冷たい石段を重い足取りで登っていた。
ハシュドゥルバルを完全に袋の鼠に追い詰めながら “偽りの講和” に油断して取り逃がした失態── その一件で、彼の軍団司令官としての信用は地に落ちていた。
議場の重い扉を開くと、元老院議員たちの冷ややかな視線が一斉にネロの全身へと突き刺さる。
「クラウディウス・ネロ」
宿老ファビウス・マクシムスが、ゆっくりと立ち上がった。
その声は低く、静かでありながら、研ぎ澄まされた刃のように議場を切り裂いた。
「貴公はヒスパニアにおいて、勝利を目前にしながら敵将ハシュドゥルバルを取り逃がした。
軍の総司令官として、決して許されぬ失態だ」
その言葉は叱責ではなく、ローマという巨大な国家の冷徹な判断そのものだった。
ネロは奥歯が砕けんばかりに歯を食いしばった。
「……講和を持ち掛けられ、条件を提示している間攻撃の手を止めていたのは事実です。
だが、奴の夜陰に乗じた撤退は──」
「言い訳は不要だ、ネロ」
ファビウスは、冷たい声音で言葉を遮った。
その静けさは怒号よりも重く、議場の空気を一瞬で凍らせた。
「スキピオ兄弟を失い、貴公が失態を演じた今、ヒスパニア戦線を任せるに足る指揮官が不足している。
ローマは今、命を賭してヒスパニア戦線を立て直す、新たな司令官を必要としている」
議場が重苦しい沈黙とざわめきに揺れる。
その膠着を破るように、扉が勢いよく開け放たれた。
入ってきたのは、実際の年齢二十四歳よりもさらに若く見える、美しい容姿の青年── プブリウス・コルネリウス・スキピオであった。
議場の空気が一瞬で張り詰める。
元老院議員となる資格を得られる、三十歳にも満たない若者が、元老院議場の中心へ歩み出るなど前代未聞だった。
スキピオは議事堂中央へとまっすぐに進み、静かに膝をついた。
「元老院の諸賢、そしてローマ市民の皆に願い奉る。……ヒスパニア戦線の最高司令官に、私を任命していただきたい」
どよめきが議場を揺るがした。
ネロが血走った目を見開き、怒号を叩きつけた。
「スキピオ! 父の仇を討ちたいという私怨でそのようなことを願い出るなら── おぬしも父親の二の舞いになるぞ!」
スキピオはゆっくりと立ち上がり、ネロの獰猛な視線を正面から受け止めた。
その瞳に宿る炎は、身内の死を嘆く青年のものではなく、地中海全体の盤面を見据える、真の戦略家のそれであった。
「分かっています、ネロ殿。
あそこで倒れた父と叔父グナエウスの仇は、この私が討たねばならない。
……だが、これは私憤ではない」
スキピオは議場全体を見渡し、凛とした声を響かせた。
「ハシュドゥルバルをそのまま放置すれば、ヒスパニアは完全にバルカ家の本拠地として機能し、イタリアにいるハンニバルへの兵力の供給源となる。
イベリアを制し、補給路を断つ。
それこそが、ハンニバルの勢いを止める唯一の道だ」
そして、静かに、しかし確固たる決意を込めて言った。
「私は父の戦いを、そしてローマの未来を継ぐために立つ!」
その言葉は、若者の無謀な叫びではなかった。
議場の空気がわずかに揺らぎ、ファビウスが静かに、しかし深く頷いた。
「若いが……この者の言葉には、国家を救う『理』がある」
「……だが、軍務経験の浅い彼に全軍を預けるのはあまりにも危険すぎる!」
なおも難色を示す老議員たちを制し、ファビウスは冷徹な妥協案を告げた。
「元老院は、プブリウス・コルネリウス・スキピオに臨時の指揮権を授与する。
ただし──スキピオには、戦場を知り尽くした “同格の補佐官” を付ける。
マルクス・ユニウス・シルアヌスだ」
議場が再びざわめいた。
シルアヌスは、岩のように頑強で老練な将軍である。
スキピオ兄弟と共にヒスパニアで戦い抜いた男だった。
「若造一人では不安だから、頼りになる “お目付け役” をつけるわけだな」
ネロは吐き捨てた。
自分が更迭された戦線に、こんな若造が就任するということがどうしても許せなかった。
しかし、スキピオは動じず、静かにシルアヌスへと歩み寄り、深く頭を下げた。
「共に戦っていただけるなら、これほど心強いことはありません。シルアヌス殿」
シルアヌスは、若き指揮官を値踏みするように鋭い目でスキピオを見つめた。
その眼差しは、幾度も死線を越えてきた男だけが持つ、冷たい鋼の光を宿していた。
シルアヌスは、この美しい容姿を持つ青年の瞳の奥に、言葉では言い表せない不思議な何かを感じ取っていた。
そしてゆっくりと視線をネロへ移し、低く言い放つ。
「勘違いするな、ネロ。
私はこの若者を縛るために行くのではない。
……彼がヒスパニアで思う存分その『剣』を振るえるよう、背後を支えるために行くのだ」
すでにシルアヌスは、この若者の可能性を感じていた。
「ならば、共に振るいましょう。我が父たちが命を懸けて守ろうとした、あの地で」
ローマの街に、まだ白い朝靄が立ち込める頃。
マルスの野に整列した軍勢の前に、新任司令官スキピオが静かに立っていた。
赤い軍マントを風に揺らすその背中には、まだ青年の細さを残しながらも、どこか畏怖すら覚える王者の風格が漂い始めていた。
その出陣を、元老院議員たち、そしてネロが少し離れた場所から見つめている。
ネロの瞳には、敗北の屈辱と若者への嫉妬、そして……どこか、己の無念を晴らしてくれるのではないかという奇妙な期待が混じっていた。
ネロは、スキピオの隣に並ぶシルアヌスに向かって、吐き捨てるように言った。
「シルアヌス。ハシュドゥルバルは俺を欺いた男だ。簡単に討てる相手ではない。
その若造を犬死にさせるなよ」
シルアヌスはかつての上官を思い出し、隣のスキピオへ視線を移した。
「聞いたか、スキピオ。俺はお前を全力で補佐する。
だが、戦場で死ぬなよ。そなたの父君に申し訳が立たん」
スキピオは微笑んだ。
その微笑みは若者らしい柔らかさを残しながらも、どこか静かな炎を宿していた。
「だからこそ、あなたが必要なのです。共に戦いましょう、シルアヌス殿」
スキピオは、軍勢の前に進み出ると腹の底から声を張り上げた。
「勇敢なる兵士たちよ! 我らはヒスパニアへ向かう! 我が父と叔父を倒した、バルカの獅子が支配するあの地だ。
……だが、恐れるな! 昨夜、私にローマを勝利に導く “神託” があった!
ローマの反撃は、ここから始まる! ハシュドゥルバルを討つ!」
神々しいまでに美しい容姿を持つ若き指揮官から放たれた、神託を受けたという魂を揺さぶるような叫び。
その瞬間、不安に揺れていた兵士たちの胸に爆発的な火がつき、数万の槍が一斉に天へと掲げられた。
「スキピオ! スキピオ! ヒスパニアへ!」
地鳴りのような歓声を背に受けながら、スキピオは一度も振り返ることなく、馬を進めた。
朝霧を割って進むその背中には、すでに未来の征服者──アフリカヌスの影が宿り始めていた。




