第五十六話 イルティルギスの戦い ── ハシュドゥルバルの罠とネロの不覚
スキピオ兄弟を失い、崩壊しかけたヒスパニア戦線を維持するため、ローマは即座に一人の将軍の派遣を決定する。
ガイウス・クラウディウス・ネロ。
苛烈な性格で知られ、本国ではかつて “若き猛犬” と呼ばれ恐れられていた男である。
ネロは任命の翌日から、ローマ市内で兵の徴集を開始した。
だが、度重なる大敗で凄惨な兵員不足に陥っているローマに、満足な成人男子など残っていない。
集められた兵の大半は、退役した四十七歳以上の壮年と十六歳以下少年であった。
これに同盟都市からかき集めた兵を加え、一万数千の軍勢がローマへ集められた。
猛犬ネロは、この弱兵たちを短期間で戦える兵にするべく、容赦のない地獄の訓練を課した。
街路に響き渡る怒号。訓練場で倒れ伏す兵士。苛烈な叱咤。血の滲むような過酷な行軍。
ネロは汗と泥にまみれた兵たちを前に、獰猛な笑みを浮かべて言い放った。
「ヒスパニアは地獄だ。……だが、その地獄へ踏み込むのは我らだ! ハシュドゥルバルを追い詰め、奴の首をローマへ持ち帰るぞ!」
紀元前二一一年夏。
数か月に及ぶ地獄の訓練により、どうにか軍隊として機能するまでに鍛え上げた軍団を引き連れ、ネロは海路イベリアへ向けて出発した。
イベリア南部イルティルギス近郊── 黒ポプラの谷を見下ろす丘の上で、ハシュドゥルバル・バルカは乾いた風を受けながら、遠くの地平線を静かに見つめていた。
その背後に、砂塵をまとった伝令が駆け込んできた。
「将軍──! ローマから新たな軍勢が上陸しました! 指揮官は……ガイウス・クラウディウス・ネロ!」
ハシュドゥルバルはわずかに目を細めた。
これまで捕らえたローマ軍の捕虜から、敵の将軍たちの情報はすべて頭に叩き込んである。
当然、ネロの名もその中にあった。
(ネロか……奴は戦場で “考える” タイプではない。戦場で “噛みつく” タイプだ)
ハシュドゥルバルは眼下に広がる深い谷の地形を見下ろしながら、冷徹に思考を巡らせる。
(若い頃に “猛犬” と呼ばれた男が、壮年になって牙を研ぎ直してきたか…… だが、人間の本質は変わらない)
ハシュドゥルバルの脳裏に、ローマ軍の行軍速度、補給路、ネロの性格、そしてこの谷の複雑な地形が一瞬にして組み上がっていく。
ハシュドゥルバルは静かに踵を返し、谷の奥へと足を進めた。
その背中には、兄ハンニバルとはまた異なる、冷徹なる戦術家の影が濃く落ちていた──。
タラッコへ上陸したネロは、現地に留まっていた残存部隊を吸収し、総勢二万数千の軍勢を率いて、ハシュドゥルバル軍を探し求めて果敢に行軍した。
そしてついに、イベリア南部の黒ポプラの谷と呼ばれる地帯に陣を構えていることを突き止める。
この時のハシュドゥルバル軍もほぼ同数の二万数千。
イベリアの乾いた風が吹く丘陵地帯を進軍しながら、ネロは獰猛に言い放った。
「ハシュドゥルバルを追い詰める。ハンニバルの弟をここで仕留めれば、ヒスパニア戦線は我がローマの勝ちだ」
黒ポプラの谷── その名の通り、黒々としたポプラの林が谷底を覆い、昼なお暗い影が不気味に揺れていた。
前後を川に挟まれ、側面を深い渓谷に守られた二段構造の高地。
ハシュドゥルバルは、この地形がゆえに、ネロの猛攻を正面からまともに受けずにいなすための、極めて合理的な防御陣地としてこの地を選び抜いていた。
カルタゴ軍は二段に整地した高地の上段と下段へ巧みに布陣している。
下段には投石兵と軽装槍兵を配して登ってくる敵を削り、上段には主力のリビュア重装歩兵とイベリア兵、そして騎兵を待機させる。
谷、川、段丘が重なる三重の防御構造であった。
一方、谷の縁に到達したローマ軍兵士たちの足がピタリと止まった。
眼前に広がる圧倒的な防衛陣地に、誰もが息を呑む。
「……ここを登るのか」
「側面は谷だ。騎兵は使えん」
「正面から、あの斜面を登るしかないのか……」
誰もが直感した。この地形は逃げ場のない死の坂道だと。
ネロは谷を見下ろし、その奥に潜むハシュドゥルバルの気配を鋭く睨みつけた。
(ハシュドゥルバル…… 地形を熟知した冷徹な陣を張る)
兵たちの背中に、じわりと冷たい汗が滲んでいく。
谷底の黒ポプラは風に揺れ、その影が兵たちの心を揺らした。
(ここを登れば、上から矢と石が降ってくる…… 下段で削られ、上段で叩き潰される……)
兵たちの脳裏に、自分が斜面を登る姿が鮮明に浮かんだ。
足場は悪い、盾を上げれば視界が消える、視界を確保すれば投射武器が降る、斜面を登る間は隊列が乱れる、乱れたところを上段の重装歩兵が叩く、それは、死の未来予測だった。
ネロは兵たちの肌を刺す怯えを感じ取った。
だが、彼の胸にあるのは恐れではない。
(いい陣だ。だからこそ、ここを突破できれば、ハシュドゥルバルの心臓を掴める)
ネロは敵陣を見上げ、獰猛な笑みを浮かべた。
「怯えるな。ここを登るのはローマだ。死ぬのは──カルタゴの方だ。」
兵たちは息を呑む。
ネロは言葉を重ねた。
「見ろ。奴らは二段の高地に陣を敷き、側面は谷、背後は川だ。
つまり── “逃げ場がない” 我らが押し上げれば、奴らは上段で踏みとどまるしかない。しかし、その先に補給路はない」
ネロの声は低く、しかし確信に満ちていた。
「ハシュドゥルバルは守るに絶好の地形を選んだ。
だが、その地形ゆえに “縛られた”。
この地形は守るには良いが、退くには最悪だ。
だから死ぬのは──カルタゴだ」
兵たちの胸に、ネロの言葉が重く沈み込んだ。
恐怖は消えない。
だが、勝てる根拠を示されたことで、兵たちの心は揺らぎから確信へと変わる。
ネロは斜面を睨みつけ、獰猛な声で叫んだ。
「行くぞ。カルタゴ軍を追い詰めるのだ!」
ローマ軍の前列が一斉に動いた。
足場の悪い坂を必死に登る兵たちへ、上段のカルタゴ軽装歩兵から一斉に石や槍、矢が雨のように降り注ぐ。
「ぐっ……!」
「盾を上げろ!」
「足が滑る──!」
ネロは、前列が苦戦する様子を見ても一歩も動じなかった。
(削られている…… だが、まだ崩れてはいない)
斜面を登る間に隊列は乱れ、ローマ軍は小隊単位でバラバラに進む形になった。
その乱れを、ハシュドゥルバルの軽装歩兵が見逃さない。
黒ポプラの影から、イベリア歩兵が飛び出した。
「来たぞ──!」
「側面だ、気をつけろ!」
斜面の途中で、ローマ兵は左右から矢と投槍の襲撃を受けた。
黒ポプラの影は、まるでカルタゴ軍の牙そのものだった。
兵たちの足が止まりかけた瞬間、ネロの怒号が響く。
「止まるな! ここで止まれば死ぬのは我らだ! 登り切れば死ぬのはカルタゴだ!」
兵たちに地獄の教練を課してきたネロの鬼のような怒号に、兵たちの背筋が震えた。
(行く先は地獄、引くのはもっと地獄か)
恐怖と昂揚が入り混じり、ローマ軍は再び斜面を登り始め、ついに斜面を登り切った。
だが、そこに待っていたのはリビュア重装歩兵の槍の壁であった。
その背後には騎兵の影が見える。
ハシュドゥルバルの本隊が、静かにローマ軍を待ち構えていた。
「構え──!」
「押し返せ!」
ローマ軍は疲労困憊のまま、カルタゴ重装歩兵の槍の壁に突撃した。
槍が肉を貫き、盾が砕け、兵たちが斜面へ転げ落ちていく。
猛犬ネロが兵をしったする。
「押せ! 押し潰せ! ここで止まれば全滅だ!」
死の淵に立ちながらも押し続けたネロの猛烈な攻勢により、ついにローマ軍はカルタゴの陣地を食い破り、ハシュドゥルバルの本陣を谷の奥へと押し込んだ。
狭い入り口で辛うじて防御線を張るカルタゴ軍は、何とかローマ軍の攻撃を持ちこたえているという窮地にまで追い詰めた。
「押せ! ハシュドゥルバルを逃すな!」
勝利を確信したネロのもとに、ハシュドゥルバルからの使者が白旗を掲げてやってきた。
『ローマとの講和を望む。条件を提示されたし』
ネロは会心の笑みを浮かべる。
「敵が弱り果てた証拠だ。条件次第では聞いてやる」
完全に勝利を過信し、ネロは一時的に攻撃の手を緩めてしまった。
──だが、それこそがハシュドゥルバルの恐るべき罠だった。
講和交渉の裏で、カルタゴ軍は夜になるとこの土地特有の深い霧に紛れ、少しずつ兵たちをローマ軍の目の届かない山岳の隠れた間道から、逃がしていった。
昼は使者を送って議論を引き延ばし、夜は霧に乗じて脱出する。
その繰り返しの中で、カルタゴ軍は静かに姿を消していった。
そして、全軍の脱出がほぼ完了した最後の夜、ハシュドゥルバル自身と少数の本陣兵も、霧に紛れて静かに谷を抜け出していた。
翌朝、条件を突きつけるために本陣へ踏み込んだネロの眼前に広がっていたのは、風に揺れるもぬけの殻の天幕だけだった。
「……騙されたか! 講和のふりをして逃げおったか、あの卑怯者がぁッ!」
激高するネロの叫びが、虚しく谷にこだまする。
山脈の向こう側で、撤退を完了したハシュドゥルバルは静かに振り返り呟いた。
「ネロ……お前は悪くない。だが、バルカの血を引く俺の策を読むには、まだ経験不足だ」
この偽りの講和によるネロの凄まじい屈辱は、数年後、イタリア全土の運命を決する『メタウルスの戦い』での、二人の血みどろの因縁へと繋がっていく──。




