第六十五話 メタウルス川の落日 ── バルカの獅子、散る
その頃──ハンニバルは南イタリアの最南端、ブルッティウムの山岳地帯に潜んでいた。
要衝タラントを奪い返され、貴重な補給港を失ったカルタゴ軍は、それまでカルタゴ側についていた同盟都市もほぼ離反し、補給も困難な状況に陥っていた。
打開策を見出せず、重苦しい沈黙の中で地図を睨みつけていたハンニバルのもとへ、影の軍団の長アブディルがいつになく急な足取りで駆け込んできた。
「ハンニバル様! ローマに潜入させている配下より、緊急の報告が入りました!」
ハンニバルが鋭く顔を上げた。
「今、ローマ市内は蜂の巣をつついたような大騒ぎになっております! ハシュドゥルバル様の軍勢がアルプスを越えて、イタリアへ踏み込んできたという噂で持ち切りです!」
「なに……!? ハシュドゥルバルがイタリアに来ているだと!? いつだ、いつの出来事だ!」
戦場の怪物と恐れられたハンニバルの声が、驚愕と期待で大きく跳ね上がった。
アブディルは息を整えながら報告を続けた。
「四月頃のことにございます! 現在、ローマの精鋭軍団は我々を包囲するために南イタリアへ集中配置されております。
そのため、北イタリアでハシュドゥルバル様を迎え撃つ執政官リウィウスの軍団は、徴用されたばかりの少年兵や新兵が大部分を占めているとのこと……! 『ハシュドゥルバル軍を止められるはずがない』と、ローマ市民は皆、恐怖で震え上がっております!」
「そうか……! ならば一刻の猶予もない。何としてもハシュドゥルバルと合流せねばならん! アブディル。お前自身がハシュドゥルバルの元へ行き、俺との合流の手助けをしてくれ」
「はっ。承知しました」
アブディルは、ローマからの報告を持ってきた配下の隊商に紛れ込み北イタリアにいるはずのハシュドゥルバル軍を求めて北へ旅立った。
(ハシュドゥルバル……! 我ら兄弟の手で戦局をひっくり返すぞ!)
南の山中で遠い北の空を見つめるハンニバルの瞳には、逆襲の炎が揺らめいていた。
……しかしハンニバルは、この時まだ知らなかった。
弟が放った密使がすでにローマ軍に捕らえられ、南にいるはずの執政官ネロが、悪魔のような強行軍でアブディルよりも遥かに速く北へ向け駆け抜けているという悲劇の事実を──。
パドゥス平原に降り立ったハシュドゥルバル軍は、ガリア部族の協力を得て補強された軍勢を従えて南下していた。
だが、セナ・ガリカに差し掛かった時、その進路を塞ぐようにローマ軍が堅牢な陣地を構えていた。
「あの陣はそう簡単には破れない」
敵の陣営地の堅牢さを確認したハシュドゥルバルは、迂回して南イタリアへ進軍できるルートがないか、ない場合はいかにして突破するか、偵察隊を放って慎重に観察を続けていた。
その日、ハシュドゥルバルが敵陣を深く観察していると、いつもなら一度の軍号が二度響くのを彼の耳がとらえた。
「軍号が二度響いた……執政官が二人いるのか?」
さらに目を凝らすと、陣地の奥に、泥と汗にまみれた兵の一団が見えた。
馬具は汚れ、兵の肩は疲労で沈んでいる。
「まさか……南にいるはずの執政官が、俺の進軍を阻むためにここまで来ているというのか」
その “まさか” が、どう考えても現実だった。
ハシュドゥルバルは悟った。
目の前にいるのはリウィウスだけではない。
泥まみれのその兵こそ──強行軍で駆けつけたネロ軍。
この倍増した敵軍と真っ向から戦うのは危険だ。
今夜のうちに闇に乗じて退き、北のメタウルス川を渡って仕切り直すしかない。
ハシュドゥルバルは即座に決断した。
「夜になったら、隠密行動で撤退する」
カルタゴ軍は、闇に溶けるようにセナ・ガリカから姿を消した。
北のメタウルス川を目指す、隠密の夜間撤退が始まった。
メタウルス川上流──。
夜の闇を縫っ てセナ・ガリカを離れたカルタゴ軍は、丘陵と森の境界を進みながら、静かに、しかし確実に北へと距離を稼いでいた。
やがて、月光に銀色の筋を描くメタウルスの川面が見えてきた。
だが、ここで予期せぬ悲劇が襲う。
闇に乗じ、地理を知る現地人の案内人たちが密かに逃亡したのだ。
目の前を流れるメタウルス川は、山脈から押し寄せる水量を湛え、黒々とうねっている。
「浅瀬はどこだ……! 渡れる場所を探せ!」
ハシュドゥルバルの焦燥をよそに、カルタゴ軍は渡河点を見つけられぬまま、暗闇の川沿い(南岸)を右往左往して迷走することとなった。
ガリア兵が闇の中でざわめく。
リグリア兵が荷を解き、焦りで足並みが乱れる。 渡れぬまま時間が過ぎ、東の空が白み始めてしまった。
そして── その背後から、地響きが迫っていた。
ハシュドゥルバルの撤退に気づいたネロとリウィウスは、猛スピードで南から追撃を開始していたのだ。
「敵軍、発見! メタウルス川の南岸で渡河点を探しています!」
「逃すな! 追撃せよ!」
ネロは激情のままに叫び、全軍を急がせた。
騎兵が先陣を切り、歩兵が密集隊形を保ちながら押し寄せる。
川を前にして立ち往生していたカルタゴ軍の後方から、ローマ軍の上げる土煙が近づいてくる。
ハシュドゥルバルが振り返る。
そこには── 二つの執政官旗が、同じ風に揺れていた。
「……背後を塞がれたか」
ハシュドゥルバルは、胸の奥で何かが軋むのを感じた。 渡れぬ深い川を背に負わされたまま、運命の戦場に静かに朝日が差し始めた。
ハシュドゥルバル軍を追い詰めたローマ軍は、中央にポルキウス指揮の重装歩兵一万二千、左翼はリウィウス指揮の軽装歩兵八千、右翼をネロ率いる騎兵一千と軽装歩兵六千を配置し決戦の構えを見せる。
北にメタウルス川を背にして、追い詰められたハシュドゥルバル軍は、中央にリグリア兵一万、西側のローマ左翼に対してガリア兵九千、東側のローマ右翼に対してハシュドゥルバル直接指揮のイベリア精鋭八千を配置し対応する。
そして、ついに両軍中央の激突からメタウルス川の戦いの幕が切って落とされた。
西側にはメタウルス川の支流が流れ、川が削った細い谷や岩が露出してデコボコの小さな段丘が続き、段差や割れた地面の地形のため、左翼のリウィウス軍はなかなか前進できない。
東側は灌木が散在し、小さな段差が続く足場が不安定な丘陵地帯。
中央の平坦さとは異なり、丘陵の裾が波のようにうねっている。
その斜面の上に、ハシュドゥルバルのイベリア精鋭が静かに陣取っていた。
ネロは悟った。
(ここは突破できない)
中央ではすでに、ポルキウスの重装歩兵がリグリア兵と激突し、鉄の壁がぶつかり合う音が響いている。
ネロは丘陵の斜面を見つめたまま、静かに決断した。
「全軍丘陵を迂回する。敵の背を撃つ」
ネロは馬に飛び乗り、右翼七千を率いて丘陵の影へと消えていった。
その背に、午前の陽光が長い影を落とした。
丘陵の影を縫うように進んだネロ軍七千は、ついにイベリア精鋭の側面へと回り込んだ。
午前の陽光はまだ低く、陵の稜線が長い影を落としている。
その影の中を、ローマ軍の赤い軍旗が静かに揺れた。
ネロは馬上で息を整えた。
眼前には、イベリア精鋭の背面が見える。
彼らはまだ気づいていない。
ネロは槍を高く掲げた。
「——ここが戦場だ。我らが作る戦場だ」
その声は低く、しかし丘陵の影に響き渡った。
次の瞬間、ネロ軍七千は丘陵の斜面を一気に駆け下りた。
斜面を踏みしめる音が、大地を震わせる。
イベリア兵が振り返った。その顔に、初めて驚愕の色が走る。
背面から迫るローマ軍の密集隊形。
槍の穂先が陽光を受けて閃き、盾が斜面を滑るように前へ突き出される。
ネロは叫んだ。
「突撃——ッ!」
七千の咆哮が丘陵を揺らし、そのままイベリア精鋭の背面へ突き刺さった。
イベリア兵は精鋭だった。正面ならば決して崩れない。
だが背後からの衝撃は、どんな精鋭でも耐えられない。
「背後から敵だ!」
カルタゴ兵は狼狽し、陣形は瞬く間に崩壊していく。
中央で戦っていたポルキウス軍が、その崩れを見て歓声を上げる。
「ネロだ! ネロが来たぞ!」
戦場の空気が変わった。
さっきまで押されていた中央が、一気に勢いを取り戻す。
ネロ軍七千は、背後からイベリア精鋭を押し潰し、そのまま中央へと雪崩れ込んだ。
絶望的な乱戦の中、ハシュドゥルバルは馬に鞭をあて、最前線へと駆け出した。
「カルタゴの勇者よ! 恐れるな! 最後まで戦い抜け!」
自ら剣を振るい、迫りくるローマ兵を次々と斬り伏せる。
だが、周囲をローマ兵に囲まれ、もはや絶望的な戦いになっていた。
その時、一本の投槍が愛馬の脇腹を貫いた。
いななきと共に馬が倒れ、ハシュドゥルバルは泥まみれとなって地に叩きつけられる。
甲冑の重みに耐えて立ち上がろうとしたその瞬間──激しい衝撃が彼の胸を貫いた。
視界が赤く染まり、空の青が遠のいていく。
溢れ出る血の中で、ハシュドゥルバルは遠い南の空へ向けて手を伸ばした。
「兄貴……。申し訳……ありません……。俺は……ここまでです……」
ハシュドゥルバル・バルカ。
イベリアを守り抜き、アルプスを越えて兄を助けようとした気高き獅子は、メタウルスの泥土の中で静かに息を引き取った。
──ひと月後。南イタリア、アプリア地方。
ハンニバルはハシュドゥルバルとの合流のために、ローマ軍の包囲を破ってここまで移動してきていた。
(ハシュドゥルバルが来れば……戦局はすべて覆る)
その時、アブディルが配下の隊商と共に陣営へ戻ってきた。
「アブディル、よく戻った。 ハシュドゥルバルはどうだった?」
アブディルは顔を上げられず、絞り出すような声で告げた
「ハンニバル様……間に合いませんでした。
さる六月に、ハシュドゥルバル様は北イタリアのメタウルス川周辺にて、ローマ軍と交戦。カルタゴ軍は破れ、ハシュドゥルバル様は討ち死にいたしました……」
ハンニバルは膝をつき、その場に崩れ落ちた。
愛する弟の死──日頃から死が日常である戦場に身を置くハンニバルであっても、最愛の家族の死は、最高司令官としての威厳を保つ余裕すら奪い去るほどの凄まじい衝撃だった。
「……ハシュドゥルバル」
その声は、かつてカンナエでローマ軍を完膚なきまで叩き潰した大将軍のものではなかった。
ただ一人、最愛の弟を失った男の、深すぎる絶望の搾りかすであった。
ハシュドゥルバルの死と共に、カルタゴの反撃の希望の火も潰えた。
陣営から歌声も笑いも消えた。
夜の山並みを見つめながら、ハンニバルはぽつりと呟いた。
「ハシュドゥルバル……。お前は、来てくれたのだな……」
答える者は誰もいない。
ただ、イタリアの冷たい夏の風だけが、孤独な天才の背中を吹き抜けていった。




