第十九話 ローマの狼狽 ── センプローニウスの奇策
「ハンニバルがエブロ河を越えただと!?」
ローマ元老院の議場は、かつてない激しい動揺と、悲鳴に近い怒号に包まれていた。
「奴らはサグント戦の痛手で、今年は動けないはずではなかったのか!」
イベリアからもたらされた凶報は、元老院が描いていた完璧な戦争シナリオを、根底から粉砕した。
ローマの当初の戦略は、合理的かつ攻勢的な二方面作戦であった。
執政官プブリウス・コルネリウス・スキピオが二個軍団を率いて海路でイベリアへ向かい、ハンニバルを現地に釘付けにする。
その隙に、もう一人の執政官ティベリウス・センプローニウス・ロングスがシチリアからアフリカへと渡り、防衛の手薄なカルタゴ本国を直接突いて降伏させる――はずだった。
しかし、ハンニバルは、十万の大軍と戦象を率いて、国境を侵略してきたというのだ。
北方のガリア人の反乱によって出航が遅れていたスキピオは、ようやく軍船を整え、トスカーナ沿岸のピサを出航。
地中海の北岸を西へと進み、イベリア遠征の中継基地である、ガリア南部の同盟都市マッシリア(現フランスのマルセイユ)へと入港していた。
そこで受け取った報告に、彼は驚愕する。
ハンニバルは、すでにローヌ河のすぐ近くまで迫っているというのだ。
信じがたい急報に、スキピオはただちに精鋭の斥候を放った。
ローヌ河畔でハンニバル側のヌミディア騎兵と突発的な遭遇戦となり、激しい白兵戦の末にこれを撃退したものの、捕らえた捕虜の口から出たのは、紛れもない現実であった。
カルタゴの大軍は、すでに目の前まで肉薄している。
───
マッシリアの司令部天幕。
広げられた地中海西部の地図を前に、スキピオは、手にした青銅の文鎮を叩きつけるように置いた。その顔は焦燥に歪んでいる。
「バカな……奴は何を狙っているのだ?」
その声には、名将と呼ばれた男の誇りが崩れ落ちる音が混じっていた。
イベリアでローマ軍を待ち受けるはずの敵が、なぜこのような行動をとっているのか。
名将であるはずの父が、予測の枠を超えた怪物の動きに惑わされ、思考の泥沼にはまり込んでいる。
「父上。敵が動きを捕捉されずにここまで来ているという事実から、ハンニバルは、発展した都市の付近を避けて、わざわざ人の少ないガリアの森林を進軍するルートを選んでいたと思われます」
そう切り出したのは、見る者の関心を引かずにはいられない美しい容姿の若者だった。
この年成人し、父の幕僚として従軍していた十七歳の息子――後のスキピオ・アフリカヌスである。
「自分がハンニバルだったらと考えた場合、こんな行動をとる目的はただ一つ。
我々に気付かれずに、陸路ローマへ進軍するためです」
「陸路ローマへ進軍?」
「はい。ポエニ戦争で敗れ、制海権を我がローマに握られている以上、ハンニバルにとって海戦を挑んでイタリアへ上陸するより、陸路を選ぶ方がはるかに確実です。
となると、これからの敵の進軍ルートは――アルプス越えです」
「……アルプス越えだと!?」
スキピオは息を呑み、思わず声を荒らげた。
「狂気の沙汰だ! あそこはただの山ではない。冬になれば凍土と化し、獰猛な山岳部族が目を光らせる、人間の通行を拒む天然の障壁だぞ! 万単位の軍勢、ましてや戦象を連れて越えるなど、神々の加護があっても不可能だ」
「ハンニバルはそれを可能にする何らかの確信――山岳地帯に住む部族との密約などを、すでに持っているのかもしれません。
奴は、我々が『絶対にあり得ない』と油断しているアルプスという隙を突き、我が国の防衛線を根底からひっくり返す気です」
スキピオはハッとして、息子を見つめた。
今年成人して、指揮官見習い(軍事護民官)となったばかりの十七歳の少年が、まるで数十の戦場をくぐり抜けてきた老将のような鋭さで、ハンニバルの奇妙と思える行動を、異論をはさませない程、完璧に解析してみせたのだ。
息子の分析が正しいとすれば、一刻の猶予もない。敵が山を降りてくる前に、網を張らねばならない。
スキピオは地図上のマッシリアからピサへ、そして北イタリアへと視線を移した。
「ならば、ここで奴の後ろを追いかけて山に入るのは下策だ。
私は今すぐ数名の部下だけを連れて海路でイタリアへ引き返す。
奴がアルプスを降りてくるその出口、パドゥス平原で待ち受ける!」
スキピオはその場で、鮮烈な軍令を下した。
軍の本体は、本来の戦略通りに弟のグナエウスに託してイベリア半島へと進発させ、バルカ家の足場を根こそぎ奪う作戦を続行させる。
そして自分は、わずかな側近だけを連れて海路でピサへと引き返し、北イタリアの防衛部隊をかき集めてハンニバルを迎撃する――。
その父の迅速な決断に、若きスキピオは深く頷いた。
ハンニバル・バルカという、地中海世界を揺るがす最大の脅威。
その恐るべき戦略を誰よりも早く理解し、その影を最も濃く脳裏に刻み込んだのは、ローマの元老院でも、歴戦の将軍たちでもない。
今まさに、その怪物を打倒するための最初の階段を上り始めた、若きスキピオであった。
───
ハンニバルの想定外のアルプス越えの報がローマに届いたとき、もう一人の執政官ティベリウス・センプローニウス・ロングスは、シチリアの東端、メッシーナにいた。
センプローニウスは、百六十隻もの軍船がひしめく広大な港湾を見下ろし、溢れんばかりの野心に胸を焦がしていた。
「ついに、この時が来たな」
自らの甲冑に触れながら不敵に笑った。
元老院が描いた戦争シナリオにおいて、彼は栄光ある主役に選ばれていた。
もう一人の執政官スキピオがイベリア半島でハンニバルを釘付けにしている間に、センプローニウスが率いる精鋭軍団がシチリアからアフリカ本土へと渡り、防衛の手薄な敵の本国カルタゴを直接叩き潰す――。
すでにシチリア近海でカルタゴ海軍を撃退し、マルタ島を占領した彼の名声は絶頂に達しようとしていた。
あと一歩、海を渡れば、戦争を終わらせた不滅の英雄としてローマの歴史にその名が刻まれるはずだった。
しかし、運命の女神は気まぐれだった。
まさにアフリカへ向けて船団が出航しようとしたその瞬間、港の端から馬の激しい蹄の音が響き渡った。
現れたのは、汗と泥にまみれ、息も絶え絶えになったローマからの急使であった。
手渡された元老院からの親書を開いた瞬間、センプローニウスの顔から血の気が引いた。
そこに記されていたのは、文面から悲鳴が聞こえるような、信じがたい緊急命令であった。
『アフリカ遠征は全面中止。全軍、ただちに北上せよ。ハンニバル、アルプスを越えつつあり。イタリア本土が危うい』
「バカな……! 奴はイベリアにいるはずではなかったのか!」
センプローニウスは怒号を上げた。
彼は極めて自尊心が強く、攻撃的で、一度決めた栄誉への道を邪魔されることを激しく嫌う性格であった。
目の前まで迫っていた「カルタゴ征服者」という極上の手柄が、一瞬にして掌からこぼれ落ちようとしている。
その怒りと困惑は凄まじかった。
だが、元老院の狼狽ぶりから、事態が致命的なまでに深刻であることだけは理解できた。
ハンニバルという怪物が、ローマの不意を突いてイタリアの懐へと飛び込もうとしているのだ。
「……困惑している時間はない。手柄が消えたのなら、北の平原でハンニバルを討ち取って我が名声を証明するまでだ」
怒りは一瞬だった。
次の瞬間には、彼の脳はすでに北イタリアの地図を描いていた。
しかし、大きな問題が立ち塞がっていた。
今いるシチリアの南端から、ハンニバルが降りてくるであろう北イタリアのパドゥス平原までは、イタリア半島を丸々縦断する千キロメートル以上の途途方もない距離がある。
この大軍を軍船に乗せてイタリア西岸を北上させていては、逆風や潮の流れに阻まれ、到着までにどれほど時間を要するか分からない。
それでは確実に手遅れになる。
ここでセンプローニウスは、並の将帥には到底真似できない、大胆極まりない奇策を決断した。
彼は全軍の兵士たちを広場に集めると、その並外れた行動力と雄弁さで、声を張り上げた。
「我が勇敢なる兵士たちよ! 我々は海を渡るのではない。陸を駆けるのだ! 敵はアルプスから我が故郷を狙っている。
── これより諸君らを一度解散する。
各自、最短のルートで、自力で北イタリアのプラケンティアに集結せよ!」
兵士たちの間に驚愕のどよめきが走った。
軍団の隊列を解き、個々に千キロの道を走らせるなど、軍隊の統制を失わせる自殺行為に等しい。
だが、センプローニウスは彼らに神々への厳粛な誓いを立てさせた。
「必ず、定められた日までにプラケンティアへ集結すると、ローマの神々に誓え!」
兵士たちは執政官の覇気に圧され、次々と涙を流しながら誓いを立てた。
こうして軍団は一時的に解散され、陸路での容赦なき大強行軍が始まった。
兵士たちはそれぞれの足でイタリア半島を北へ北へと、文字通り死に物狂いで駆け抜けていった。
センプローニウス自身は、最低限の護衛とともに軍船でアドリア海を急行し、北へと急いだ。
それから、わずか四十日後。
プラケンティアの街には、約束通り、息を切らせ、泥にまみれたローマ兵たちが次々と姿を現した。
シチリアから北イタリアまで、わずか四十日間で移動するという、古代の軍事史上でも類を見ない驚異的なスピードの大移動を、彼らは成し遂げた。
衣服は汚れ、足は血に染まっていたが、センプローニウスの強烈なリーダーシップと兵士たちの執念が、この奇跡的な結集を可能にしたのである。




