第二十話 ローヌの濁流の先── ここからが本当の地獄だ
ピレネーの血煙を背に、カルタゴ軍は北へ向かった。
山岳戦の凄惨さ、そして一万以上の兵を帰した直後の行軍──その足取りは決して軽くはない。
だが、ハンニバルは疲労の影すら見せず、むしろ獲物を追う獣のように前方の荒野を睨み続けていた。
行く手には、ガリアの諸部族が割拠している。
彼らはローマと交易し、あるいはカルタゴを警戒し、容易に道を開ける相手ではない。
だがハンニバルは、戦闘ではなく “外交” で道を切り開くことを選んだ。
「我々はローマを討ちに行くのであって、諸君らと争う気はない。ただ通行の礼として、いくらか置いていくだけだ」
黄金、銀器、貴重な交易品──バルカ家の莫大な富を背景に差し出される宝物に、多くの部族は沈黙を選んだ。
ローマの同盟都市マッシリアの影響が届かぬ森林地帯に、金で買われた “沈黙の道” が伸びていく。
しかし、すべてが金で動くわけではない。
「話が通じねぇ頑固者か。なら、俺の出番だな」
大剣を担いで笑うのは、猛将マハルバル。ハンニバルの右腕にして、騎兵隊の鬼神。
「マハルバル。拒む部族は討て。一人も逃がすな。ローマに情報が漏れるのだけは許されん」
「任せときな、大将」
交渉に応じる者には黄金を。拒む者には死を。
この徹底した二面性により、カルタゴ軍は “気づかれぬまま” ガリアを駆け抜けていった。
───
「マッシリアは避けるぞ」
ハンニバルは地図を指でなぞり、海沿いの大都市を大きく迂回する内陸ルートを選んだ。
「海沿いを歩けば、ローマ艦隊に丸見えだ。奴らに『今からイタリア行きますよ』なんて教えてやる義理はねぇ」
マゴーネは深く頷く。
彼は、早く兄の思考、物の見方を吸収して、兄のような戦略眼を持ちたいと必死だった。
やがて、眼前に巨大な濁流──ローヌ河──が姿を現す。
幅広く、流れは速い。しかも最悪なことに、対岸にはヴォルカエ族が、盾を打ち鳴らし、鬨の声をご上げて待ち構えていた。
「正面突破は無理だよ……あの流れじゃ一度に小人数しか渡れない。岸に着いたら格好の餌食だ」
マゴーネの声に、ハンニバルは笑った。
「正面から行く必要はねぇ。戦場ってのはな、作るもんだ」
その夜。ハンニバルは正面にダミー部隊を残し、主力を密かに上流へ移動させた。
先頭に立つのは、斥候隊長カルタロ。冷静沈着で、規律を重んじる男だ。
「声を出すな。波の音に紛れろ。……俺の足跡だけ踏んで来い」
彼らは即座に筏を組み、闇に溶けるように渡河を敢行。
カルタロ隊は対岸へ渡りきると、夜陰に紛れて南下し、ヴォルカエ族の背後へと回り込んだ。
───翌朝。
角笛の鋭い音が森を震わせた。
「今だ──背後から叩き潰せ!」
カルタロ隊が怒涛の奇襲を仕掛け、同時に敵陣に火を放つ。
完全な不意打ち。
ヴォルカエ族は背後からの炎と槍に混乱し、陣形は瞬時に崩壊。
命からがら敗走していく。
「敵は崩れた! 本隊、渡河開始!」
ハンニバルの号令とともに、象を乗せた巨大な筏が進み、カルタゴ軍は遮るものなくローヌの濁流を渡りきった。
───
だが、渡河の興奮も冷めやらぬその時、想定外の事態がカルタゴ軍を襲う。
「閣下! 南方よりローマの軽装騎兵部隊! 我が方の斥候と激突しました!」
カルタロが血相を変えて馬を走らせ、報告に飛び込んできた。
「ローマの軽装騎兵部隊だと……!?」
ハンニバルの顔から笑みが消え、一瞬にして冷徹な戦術家の目が戻る。
それは完全な遭遇戦──互いに相手の正確な位置を掴みきれぬまま、放った斥候同士が荒野の真ん中でバッタリと鉢合わせたのだ。
南方から迫るローマ騎兵数百に対し、ハンニバルが放っていたのはヌミディア騎兵の偵察隊。
乾いた荒野で、地中海最強の二大騎兵が正面から激突した。
砂煙が狂ったように舞い、金属がぶつかる凄まじい音が響き渡る。
ヌミディア騎兵は持ち前の軽快な機動力で翻弄しようとするが、執政官直属のローマ騎兵もまた訓練された本国の精鋭。
逃げるヌミディア騎兵を執拗に追い詰め、激しい白兵戦のなかで次々とカルタゴ兵を馬から叩き落としていく。
短くも、凄惨を極めた流血の遭遇戦。
数に勝るローマ軍の猛攻の前に、さすがのヌミディア騎兵も戦線維持は不可能と判断し、死体を残して本陣へと撤退していった。
戦闘的には、敵を敗走させたローマ側の勝利であった。
だが──。
息を整え、勝者としてカルタゴの退路を追ったローマ兵たちが、数キロ先で目にしたのは、言葉を失うほどの絶望的な光景だった。
「……いない……? 本隊が……消えた……?」
勝ったはずの彼らの背筋に、凍りつくような恐怖が走った。
そこには、もはや戦いの痕跡しか残されていない、無人の荒野が広がっているだけだった。
ハンニバルは遭遇戦の報を聞いた瞬間、一瞬の躊躇もなく全軍に激しい強行軍を命じた。
ローマの斥候がヌミディア騎兵との戦闘に目を奪われ、勝利の鬨を上げているわずかな隙に、数万のカルタゴ軍本隊と三十七頭の戦象は、すでに遥か北へ向けて疾風のごとく姿を消していたのだ。
───
追撃を完全に振り切り、カルタゴ軍はついにアルプスの麓へ到達した。
見上げる視線の先には、人間の侵入を拒む白銀の壁。
しかしハンニバルは、それを見上げて少年のように悪戯っぽく笑った。
「さあ行くぞ。ここからが本当の地獄だ」
マゴーネは寒さに震えながらも、その兄の背中を見て確信した。
(兄さんは……この魔山すら戦場に変えるつもりなんだ)
こうして、 世界の歴史を揺るがす “伝説のアルプス越え” が幕を開けた。




