第十八話 ピレネーの血煙── 最高の戦士たち
総大将ハンニバル・バルカは、眼前に横たわる不敵な境界線――エブロ河の流れを睨み据えていた。
この川を越えれば、ローマとの全面戦争が幕を開ける。
ハンニバルは抜いた長剣の切っ先を、ゆっくりとエブロ河の対岸へと向けた。
その瞳には、狂気とも言える極彩色の野心がギラギラと輝いている。
「この河を越えれば地獄。ローマとの死闘が待っている。
――だが、引き返せば『確実な破滅』だ。
なら進むしかねぇ。
神々がサイコロを振る前に、俺がこの手で盤面ごとひっくり返す。
お前らの命、このハンニバル・バルカが預かった!
俺の背中に遅れるな、全軍進発っ!!」
破天荒で自信に満ち、泥臭い兵士たちを惹きつける圧倒的なカリスマ。
それはまさに、己の腕一本で乱世をのし上がろうとする傭兵隊長のような覇気であり、同時に、天命すらも手懐けようとする絶対的な王の風格であった。
地平線を埋め尽くす十万の軍勢から、地鳴りのような歓声が沸き起こる。
――しかし、このエブロ河を渡ってからの行軍は、文字通りの地獄だった。
エブロ河を越えた瞬間、風の匂いが変わった。
それは、戦場の匂いではなく、山が獲物を待つ匂いだった。
カルタゴ軍を待ち受けていたのは、天を突くようにそびえ立つピレネー山脈の険しき絶壁。
それはただの山ではなかった。
侵入者を殺すために神々が造った巨大な罠であり、そこに巣食う凶暴な処刑人たちが牙を剥く。
イルゲルゲテス族、バルグシイ族──
ローマと内通し、あるいはバルカ家の支配を嫌う山岳部族たちが、険しい崖や鬱蒼とした森林に身を潜め、ゲリラ戦を仕掛けてきたのだ。
カルタゴ軍が山道へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わる。
湿った冷気が肌にまとわりつき、木々のざわめきが、まるで獣の息遣いのように聞こえた。
最初の悲鳴は、前衛のイベリア兵から上がった。
「上だ──!」
崖の上から、天から落ちる隕石のような巨岩が降り注ぐ。
轟音とともに岩が跳ね、砕け、兵士の身体を紙のように押し潰していく。
「隊列を崩すな! 盾を上げろ!」
リビュア重装歩兵が盾を掲げるが、 山岳部族の攻撃はそれだけでは終わらない。
木々の影から矢、投げ槍、石が雨のように飛び出し、狂気に満ちた叫び声が鼓膜を刺す。
「ローマの金を受け取った手先どもだ!」
マゴーネが叫ぶ。
部族たちは、崖の上から、横から、背後から、まるで山そのものが意志を持って襲いかかってくるかのように猛威を振るった。
ヌミディア騎兵が馬を進めようとするが、山道は幅が狭く、片側は断崖絶壁。
馬が一度足を滑らせれば、騎兵もろとも谷底へ吸い込まれる。
「くそっ……ここじゃ馬が使えねぇ!」
マハルバルが悔しさを滲ませ吐き捨てる。
地中海最強と畏怖されるヌミディアの名騎兵たちが、初めて “無力” という屈辱を味わっていた。
その間にも、巨大な丸太が転がり落ち、兵士を十人まとめて吹き飛ばす。
骨が砕ける音が、山の静寂に不気味に響いた。
マゴーネが血まみれの顔で叫ぶ。
「兄さん、このままじゃ全滅だ! 一度退いて、交渉するか、別の道を探すべきだ!」
しかし、ハンニバルは断崖を睨みつけ、獰猛に笑った。
「交渉だぁ? ローマの軍団がガリアで網を張る前に、この山を抜けなきゃならねぇんだ。時間は金より重い。なら──力で買うしかねぇだろうが!」
ハンニバルは長剣を抜き、全軍に向けて咆哮した。
「リビユア重装歩兵、前へ! 盾を重ねて壁を作れ! イベリア兵は崖をよじ登れ! 山の上を奪い返せ! 包囲も戦術もいらねぇ! 力任せに叩き潰して進むぞ!」
その声は、山岳部族の戦意をも震わせるほどの狂気を帯びていた。
イベリア兵たちは、崖に打ち込まれた木の根や岩の裂け目を掴み、まるで蜘蛛のように垂直の壁を登り始めた。
上からは矢が降り注ぎ、投げ槍が突き刺さり、岩が落ちてくる。
一人が落ちれば、その下の兵士を巻き込み、十数メートル下の谷底へ消えていく。
だが、イベリア兵は勇敢に叫んだ。
「俺たちはバルカの兵だ! 山ごとぶっ壊してやる!」
崖上に辿り着いた兵士が、部族の戦士と組み合い、互いの喉を噛みちぎるような死闘を繰り広げた。
血が岩肌を伝い、赤い筋となって流れ落ちる。
下では、リビユア重装歩兵が盾を重ね、巨大な “鉄の壁” を作って前進していた。
丸太が転がり落ちてきても、盾壁が受け止め、兵士たちは歯を食いしばって踏みとどまる。
「押せぇぇぇぇっ!」
盾壁が前へ進むたびに、山岳部族は押し潰され、悲鳴を上げて逃げ惑った。
戦いは一日では終わらなかった。
落石、火矢、奇襲、夜襲。
山岳部族は、ありとあらゆる手段でカルタゴ軍を削り続けた。
兵士たちは眠れず、食料も乏しく、死体の臭いが山風に乗って漂う。
だが、ハンニバルは一歩も退かない。
「ここを抜ければ、ローマの喉元はすぐそこだ。死にたくねぇ奴は、俺の後ろにいろ!」
その狂気の鼓舞に、兵士たちは再び立ち上がった。
数日後。
崖の上には、部族の死体が折り重なり、血が黒く固まっている。
カルタゴ軍は、ついにピレネーの頂を制した。
山岳部族は壊滅し、生き残りは森の奥へ逃げ去った。
ピレネーの風は、血と煙の匂いを運びながら、静かに吹き抜けていった。
───
だが、部族どもをねじ伏せた後も、ハンニバルはただ通り過ぎることはしなかった。
彼は頂の天幕に、一族の将軍であるハンノを呼び出した。
「ハンノ。お前に歩兵一万、騎兵一千を預ける。このピレネー一帯を完全に制圧し、監視下に置け」
(ここを放置すれば、ローマは必ず利用してくる。ハシュドゥルバルの背中を守る “第二の盾” が必要だ)
ハンニバルの脳内にあるのは、この遠征を絶対に成功させるための、冷徹なまでの現実主義であった。
ハンノは深く頷き、その大役を引き受けた。
───
しかし、試練はさらに重なる。
山岳戦の凄惨さを目の当たりにし、さらに故郷イベリアから引き離される恐怖に耐えかねた、イベリア人のカルペタニア族の兵士約三千人が、突如として夜陰に紛れ、行軍を拒否して逃亡──敵前脱走を図ったのだ。
「大変です、総督! カルペタニアの連中が武器を捨てて故郷へ逃げ出しました! ただちに騎兵を放ち、軍律に則って一人残らず処刑すべきです!」
色をなして天幕に飛び込んできた幕僚の言葉に、軍議の場は水を打ったように静まり返った。
軍律違反のなかでも最も重い、敵前逃亡。
全軍の規律を維持するためには、見せしめの処刑が必要不可欠──それが戦場の常識だった。
マゴーネは最悪の事態を想像して身を震わせた。
だが、ハンニバルは──ふっと、声を出して笑った。
「ははっ、ハハハハハ! 故郷が恋しくなったか」
「に、兄さん……!? 笑い事じゃないよ!」
「放っておけ、マゴーネ。故郷が恋しくなった奴の足を引きずって、アルプスを登れると思うか?
そんな奴らは、ここでウミとして出しちまった方がマシだ」
ハンニバルは立ち上がると、天幕を出て、不安と動揺に揺れる残された兵たちの前に姿を現した。
そして、不敵に、しかしすべてを包み込むような包容力を持って語りかけた。
「最高の戦士たちよ! 聞け! カルペタニアの野郎どもは逃げたんじゃねえ。
……実はな、俺が奴らにイベリアへ引き返せと命じたんだ。
ハシュドゥルバルの守備隊が手薄だからな、故郷を守るために送り返してやったのさ!」
兵士たちの間に、驚愕のどよめきが走る。
あからさまな嘘──しかし、ハンニバルの言葉には、それを真実と思わせる圧倒的なカリスマの魔力が宿っていた。
「戦いたくない奴、故郷が恋しい奴は、今すぐ名乗り出ろ! 今までよく戦ってくれた恩賞だ、俺が正式に退役を許可し、たっぷりの報奨金を持たせて故郷へ帰してやる! バルカの男は、未練がましい奴を無理やり連れていくようなケチな真似はしねえ!」
その言葉に、さらに七千人ほどの兵士が、恐る恐る、しかし救われたような顔で名乗り出た。
ハンニバルは本当に彼らを咎めず、笑顔でイベリアへと送り返した。
一万を超える兵力を一日で失ったカルタゴ軍。
だが、その光景を見ていた残りの精鋭たちの瞳からは、一切の迷いが消え失せていた。
「総督……俺たちは、どこまでもあんたに付いていくぜ!」
「アルプスでも地獄でも、あんたと一緒にひっくり返しに行ってやる!」
震えるような歓声が山々にこだまする。
マゴーネは、兄の横顔を見てゾッとした。
(……最初から、これが狙いだったんだ)
恐怖で縛るのではない。自らの意思で「ハンニバルと地獄へ行く」ことを選ばせ、軍の不純物をすべて削ぎ落としたのだ。
ここに、ローマを倒すためではなく、ただハンニバルという個人のために命を投げ出す、文字通りの『狂気の精鋭』が完成した。
歩兵五万、騎兵九千に減り、数の面では大きな痛手だ。
だが、その密度は出発したときとは比べ物にならないほどに研ぎ澄まされている。
ピレネーの血煙の残影を背に受けながら、覇王の軍勢は、いよいよ未開のガリアの荒野、そして白銀の魔山アルプスに向けて、一切の躊躇なく進軍を再開した。
ピレネーの風は冷たかった。
だが、その風の向こうにあるのは── ローマという巨大な獲物だった。




