第十七話 エブロ河を越えて── 矛と盾の誓い
サグントの陥落により、バルカ家は莫大な富を得た。
長年の交易と堅牢な防備によって蓄えられていた要塞都市の財宝を前に、ハンニバルは冷徹かつ見事な裁断を下す。
彼は得られた莫大な財の三分の一を、八ヶ月の苦闘を耐え抜いた兵士たちへその場で残さず分け与えた。
「これはお前たちの血と汗の対価だ。遠慮なく受け取るが良い」
若き総督の気前の良さに、全軍から割れんばかりの歓声が沸き起こる。
さらに、もう三分の一の財宝は、本国カルタゴの元老院へと送られた。
ローマの脅しに怯え、戦争を躊躇していた本国の老人たちも、目の前に積まれた黄金の山を見せつけられては、もはやハンニバルの戦いを全面的に支持せざるを得なかった。
そして、最後の三分の一は、これから始まる未曾有の大遠征の戦費として、厳重に軍資金の荷馬車へと積み込まれた。
恩賞によって兵たちの士気は天を突くほどに高まり、バルカ家の権威はイベリア全土に轟く。
役者は揃い、資金は満ちた。
ついに、ローマが待つ北の空へ向けて、牙を剥く時が来たのだ。
───
それから数週間後。
イベリア半島のカルタゴ・ノウァにある総督邸は、嵐の前の不気味な静けさに包まれていた。
重厚な円柱が並ぶ広間の大卓には、地中海世界を網羅した巨大な羊皮紙の地図が広げられている。
その地図を囲むのは、バルカ家の三兄弟──ハンニバル、ハシュドゥルバル、マゴーネ──である。
「……サグントは落ちた。ローマは必ず動く」
ハンニバルが、不敵な笑みを浮かべて地図を指さした。
「だが、海戦じゃあ俺たちはローマには勝てねぇ。今や制海権は完全に奴らの手にあるからな。
だからこそ奴らは海路を使い、ここイベリアとアフリカのカルタゴ本国を同時に叩き潰しにくる。マゴーネ、奴らの狙いは何だ?」
「……僕たちの動きを封じ、本国を脅して早期降伏させることでしょう」
マゴーネはゴクリと息を呑み、兄を見上げた。
「その通りだ。だから俺たちは、逆に奴らの思いもつかない進路からローマを攻める。本国がヤバいときに、他国へ侵攻なんてしちゃいられないからな」
「思いもつかない進路って……どこから?」
ハンニバルは、ゆっくりと指を北へ滑らせ──神々の防壁たる険峻な山脈をトントン、と叩いた。
「ガリアの荒野を陸路で突き進み── アルプスを越えてローマ本土に殴り込む」
「なんだって!?」
マゴーネが椅子を蹴るようにして立ち上がった。その大きな瞳が驚愕に揺れる。
「兄さん、正気!? そんなこと可能なの!?」
「可能さ。アルプス周辺の部族は、交易のためにあの山を越えてるんだからな。
……かつて親父がピレネーを越えた時、イベリア北部の部族長からこう教わったそうだ。『冬でも山を越える者はいる。だが、道を知る者と、山の機嫌を読む者が必要だ』とな。
山は牙を剥くが、必ず道はある。アルプスだって同じだ」
ハンニバルの不敵な言葉に、マゴーネは震える手で地図を見返し、「アルプスを、越えるのか……」と呆然と呟いた。
「そこで問題は、このイベリアだ」
ハンニバルは立ち上がり、ハシュドゥルバルの逞しい肩をガシッと掴んだ。
「俺が不在の間、イベリアを守れるのはハシュドゥルバル、お前しかいない」
「……!」
ハシュドゥルバルは息を呑んだ。胸の奥が熱く震える。
脳裏に鮮烈に蘇るのは、まだ若き日に兄と交わした、あの夜の約束。
──『俺が攻めの「矛」なら、お前はバルカの「盾」となるんだ』
──『分かったよ、兄貴。俺は兄貴が安心して背中を預けられる男になってみせるよ』
あの夜、兄が言った「俺が矛なら、お前は盾だ」その言葉が、今ようやく現実になる。
あの日から十年。
大軍を維持するための統治を、揺るがぬ防衛の戦術を、ただこの瞬間のために学び、備えてきた。
「まさか兄貴……十年も前から、すでにこの戦略を考えていたのか?」
「朧げにだがな」
ハンニバルは不敵な笑みを浮かべた。
「外で戦っていくら勝っても、奴らは毎年新しい軍団を編成して送ってくる。キリがねぇ。
ローマを倒すためには、ローマ本土に侵攻し、同盟都市を離反させること。
──ローマ軍を倒すんじゃなく、『ローマ連合』そのものを崩壊させる。これしかねぇ」
ハンニバルは、目に絶対的な信頼を込め、次弟を見つめた。
「だが、そのためには、俺たちの兵站の基盤であり、経済の基盤でもあるこのイベリアが絶対に無事じゃなきゃならねえ。
ハシュドゥルバル。お前は今日から、この拠点のすべてを支配する最高司令官──俺の、そしてバルカ家の、揺るがぬ『盾』となれ」
重すぎる大役に、ハシュドゥルバルは一瞬だけたじろぐ。
しかし、すぐに最高に頼もしい不敵な笑みを浮かべてみせた。
「……ハッ、ようやくその時が来たか、兄貴。
いいでしょう。あの日誓った通り、兄貴がイタリアを地獄の底に変えるまで、このイベリアは俺が死守します。
ローマの軍勢が海を渡って来たら、徹底的に泥沼に引きずり込んで、一人残らず砂漠の砂にしてやりましょう」
「頼んだぜ、俺の最高の『盾』よ」
ハンニバルは満足げにハシュドゥルバルの胸を拳で叩くと、マゴーネに視線を向けた。
「マゴーネ、お前は俺と一緒に来い。お前は副将として時には俺の代わりを務めてもらう」
「任せてよ。兄貴たちの描く未来のためなら、僕はどんな地獄にだって付き合うよ」
マゴーネの瞳に、恐怖を乗り越えた純粋な覚悟の光が灯る。
史実において、イベリアと本国カルタゴの防衛のために残した兵を、ハンニバルはイベリア兵をアフリカへ、アフリカ兵をイベリアへと回した。
互いの故郷を人質とし、裏切りを封じるための冷徹な配置である。
全てを整え、バルカの三兄弟の意思は、いま完全に一つへと結集した。
「よし、全軍に通達しろ!」
ハンニバルは腰の長剣を引き抜き、地図のエブロ河の線を越えてアルプスを指した。
「これより我が軍勢はエブロ河を越える! 目指すはローマの心臓だ。世界を、ひっくり返しに行くぞ!」
───
そして、紀元前二一八年、春。
カルタゴ・ノウァの背後に広がる大平原は、地平線の彼方まで蠢く、鉄と肉の巨大な海と化していた。
ハンニバルが呼び集めた軍勢は、歩兵九万、騎兵一万二千。
それは単なる一国の軍隊ではなかった。
ハンニバルの父ハミルカルの代から、バルカ家がその武威と知略によって従え、鍛え上げてきた、地中海西部の猛者たちの混成大軍勢である。
最前列には、屈強な肉体に円盾を構えたイベリア人の歩兵が並び、その後ろには、長く鋭い槍を突き出したリビュア人の重装歩兵が鉄の壁を築いている。
さらに両翼を固めるのは、馬と一体となって荒野を駆ける、世界最強の呼び声高いヌミディア人の軽騎兵たちであった。
男たちの放つ熱気と、磨き上げられた無数の槍先が、地中海の強烈な太陽を反射してギラギラと輝いている。
そして軍列のなかでも、ひときわ異彩を放ち、周囲を圧倒していたのが、三十七頭の戦象の群れであった。
アフリカの地から連れてこられた巨獣たちは、その巨大な牙に鋭い鉄の刃を仕込み、背には象使いが乗り込むための強固な櫓を背負っている。
一頭が鼻を高く掲げて咆哮をあげると、大地がビリビリと震え、周囲の馬たちが怯ていなないた。
踏み潰せぬものなど何一つないと思わせるその巨躯は、まさに生きた戦車であり、ローマ軍を恐怖のどん底に陥れるための、ハンニバルの秘密兵器であった。
地鳴りのようなざわめきが響く大軍勢の前に、緋色のマントを翻したハンニバルが愛馬を駆って姿を現した。
十万の兵の目が一斉に、若き総督へと注がれる。
「最高の戦士たちよ!」
ハンニバルが高らかに声を張ると、地平線まで広がる軍勢がピタリと息を呑んだ。
「ローマの傲慢なる使節どもは、我がカルタゴに宣戦を布告した! 奴らは今頃、海を渡って俺たちの故郷を焼き、このイベリアを奪い取るための軍団を編成しているだろう!」
ハンニバルは剣を抜き、遥か北――エブロ河の向こうに広がるピレネーの山並みを指し示した。
「だが、奴らの思い通りにはさせねぇ! 敵が来るまで待っているなど俺の性分じゃねぇ。こちらから打って出る!」
ハンニバルが馬首を北へと巡らせ、力強く手を挙げた。
――進軍開始。
歩兵が歩度を速め、騎兵が砂煙を上げ、巨大な戦象たちが重々しい足音を響かせて歩き出す。
地中海世界の運命を塗り替える十万の “人間の津波” が、国境であるエブロ河の濁流を越えんと動き始めた。




