第十六話 ローマ市民集会── 義務とステータス
紀元前二一九年の暮れ。
冬の冷たい風が、ローマの中心地フォルム・ロマヌム(共和政ローマの広場)の石畳を吹き抜けていた。
しかし、そこに集まった無数の群衆が放つ熱気は、冬の寒さなど一瞬で吹き飛ばしていた。
――サグント、陥落。
八ヶ月に及ぶ凄惨な包囲戦の末、ローマの同盟都市サグントは、カルタゴの若き総督ハンニバル・バルカの手によって完全に破壊され、灰燼に帰したという。
ローマ元老院は、この報を受け、カルタゴと戦争すべきか否かを問うため、急遽『市民集会』を招集した。
当時のローマには、 “職業軍人” というものは存在しない。
平時であれば、毎年春に集められた兵士たちは、近隣の部族との小競り合いや国境の警備をこなし、秋の収穫期を迎える前には解散を許されて故郷の畑へと帰っていく。
動員するのは基本的に年に四個軍団、およそ二万人足らず。任期は原則として一年、最高司令官である執政官の任期と同じであり、市民にとっても、それは毎年の税金のような一時的な義務に過ぎなかった。
また、一度兵役に就いた市民は、次の年は招集を免除されるという、生活への配慮もあった。
しかし、国家の存亡を賭けた ”戦争時の招集” となれば、これらの生ぬるいルールはすべて焼き捨てられる。
元老院が ”トゥムルトゥス(戦時非常事態)” を宣言した瞬間、ローマはすべてを戦争へと注ぎ込む狂気の国家へと変貌するのだ。
年に四個軍団という制限は即座に撤廃され、必要とあらば十個、二十個軍団の同時編成が行われる。
一年という任期の縛りも消滅し、戦争が終わるまで、あるいは命が尽きるまで、市民は家に帰ることを許されない。
収穫期であっても畑に戻ることはできず、残された妻や子供たちだけで必死になって収穫を終わらせ、銃後を支えることになるのだ。
これほど重い代償を払う国家だからこそ、当時のローマでは、戦争の開始や法律の制定といった国の命運を左右する大事な決定は、平民も含めた市民全体の集会、 ”市民集会” での投票によって決めるという厳格な鉄則があった。
歴史を少し遡れば、もともとは貴族が好き勝手に政治を動かしていた時代もある。
しかし、「自分たちが命を懸けて国を守っているのに、政治に参加できないのはおかしい」と憤った平民たちが、幾度も兵役を拒否して都市を占拠するストライキを起こし、国家を破滅の危機に陥れた。
広場を埋め尽くす熱気は、そんな平民と貴族が血で血を洗うような長い闘争の末に勝ち取った、権利の証でもあった。
当時のローマにおいて、国家とは王のものでも貴族のものでもない。
“市民そのものが国家の主” という概念であり、ゆえにローマ市民に納税の義務は存在しなかった。
その代わり、国家を守ることこそがローマ市民の絶対の義務であった。
戦争が始まれば、一定の資産を持つ市民は、自前で武器や鎧を調達して国家防衛のために前線へ赴く。
一方で、自らが働かなければ家族を養えず、武器を買う余裕もない貧民層は兵役から除外されていた。
すなわち当時の兵役とは、 ”自分の土地(資産)を持ち、それを守るために自費で武器を買える市民” だけに与えられた義務であり、一種のステータスでもあったのだ。
だからこそ、広場に集まっている市民たちは、単なる傍観者や有権者ではなかった。
彼らは数日後には鎧をまとい、命を懸けて戦場に立つ当事者そのものなのだ。
『命を懸けて戦う覚悟はあるか』と問い、市民自身の口から “戦う!” という喝采を引き出さねば、軍団は編成できなかった。
───
フォルム・ロマヌムは、怒りと、屈辱と、そして底知れぬ興奮の坩堝と化していた。
石造りの演壇の周囲には、トガを纏った市民、埃にまみれた平民、退役したばかりの老兵たちがひしめき合い、互いに声を荒らげて議論を戦わせていた。
「聞いたか! サグントの男たちは皆殺し、女子供は奴隷として売り飛ばされたそうだぞ!」
群衆の中で、靴職人を営む平民のマルクスが、顔を真っ赤にして拳を突き上げた。
ローマ人にとって同盟都市を守ることは、国家の誇りそのものだった。
同盟都市を見殺しにするという行為は、ローマの存在意義そのものを否定する最大の恥辱となる。
「ローマの同盟国が、バルカの若造に蹂躙されるのを、ただ見ていただけか! 元老院は一体何をやっていたんだ! 使節を送って口先だけで警告している間に、街が一つ消えちまったじゃないか!」
「落ち着け、マルクス! 軽挙妄動は禁物だ。それが相手の思うつぼの国家の危機につながるぞ」
隣にいた、かつてポエニ戦争でシチリア島を転戦した老兵クィントゥスが重々しくマルクスを諭した。
「国家の危機につながるだと!?」
平民であり、民会での発言力もあるルキウスが、クィントゥスに食ってかかった。
「同盟国を見殺しにしたという不名誉こそ、ローマにとって最大の危機だ! 周辺のサムニウム人やエトルリア人がこの失態を見たらどう思う? 『ローマは仲間を守らない』と見限られて、我がローマ連合そのものが解体しちまうぞ! 今すぐ執政官に軍団を組織させ、あのカルタゴの狂犬を叩き潰すべきだ!」
「そうだ! 青二才が好き勝手に暴れてやがる! 奴をこのままにしておくことこそがローマの恥辱だ! 危機だ!」
「ハンニバル討つべし!」
「カルタゴの息の根を止めろ!」
市民たちの議論が暴動寸前の熱を帯び始めたその時──。
白亜のトガを厳格にまとい、冷徹な威厳を放ちながら演壇に姿を現した男がいた。
カルタゴ本国へ赴いていた全権使節団の長であり、元老院の重鎮――後に「ローマの盾」と称されることになる、クィントゥス・ファビウス・マクシムスであった。
「ローマ市民よ、静まれ!」
ファビウスの地響きのような威厳のある声に、広場はしんと静まり返った。
彼は市民たちの興奮を宥めるように両手を広げた。
手そして、纏ったトガの裾を大きく持ち上げ、群衆の前に突き出した。
そのトガの重厚な皺を見つめ、市民たちが息を呑む。
「私はこのトガの皺の中に、二つのものを持ってきた。──『平和』と、『戦争』である」
ファビウスの冷徹な眼光が、何万もの群衆を射抜く。
「カルタゴの傲慢なる元老院に、我らは選択を迫った。だが奴らは、サグントの破壊をハンニバルの独断とし、責任を逃れようとした。……ローマ市民諸君。どちらを取り出すかは、諸君らの喝采に委ねられている」
その言葉に、若い市民ティトゥスが真っ先に叫んだ。
「カルタゴは我々の同盟都市をそれと知って攻め滅ぼしたんだ! ローマの正義を示せ!」
続いて、ルキウスが昂って拳を突き上げる。
「そうだ! ハンニバルなど恐れるに足らず! 我々は先の戦争で勝ったではないか! バルカの小僧に我がローマ軍団の力を再び思い知らせてやれ!」
「ルキウスの言う通りだ!」
「今すぐ軍団を編成しろ!」
「カルタゴを滅ぼせ!」
地響きのような大歓声がフォルム・ロマヌムを揺るがし、何万もの拳が冬の青空を突いた。
ファビウスはそれを見つめ、静かに目を細めると、突き出していたトガの皺を、無造作に、力強く振り払った。
「ならば、受け取るがいい。諸君らが望む『戦争』を、私は今、ここに広げた!」
うおおおおおっ、と広場が割れんばかりの絶叫に包まれる。
圧倒的な喝采によって、カルタゴへの正式な開戦決議が可決された。
ローマという巨大な国家そのものが、ハンニバルの仕掛けた政治的トラップへと、自ら歓喜の声を上げながら足を踏み入れた瞬間であった。
───
熱狂のうちに幕を閉じた市民集会。
広場を後にする市民の誰もが、「数ヶ月で終わる、ローマの圧勝劇になる」と信じて疑わなかった。
その油断の裏で、地中海世界を血の海に沈めることになる第二次ポエニ戦争の過酷な幕が、いま静かに上がろうとしていた。
歴史書では見えてこない、ハンニバルという人物の内面を描くこと。
それが本作の主題です。
史実の流れを踏まえつつ、彼の心に宿る影火、葛藤、誓いの重さを
一話ごとに丁寧に追っていきます。
皆さまの感想やご意見は、物語をさらに深める大きな力となります。




