第十四話 オルキス族討伐──太陽と地獄
紀元前二二〇年。
本拠地カルタゴ・ノウァを発って三日目。
ハンニバル率いるカルタゴ軍は、北方の険しい山岳地帯へと足を踏み入れていた。
目指すは、前総督ハスドルバル暗殺の混乱に乗じてカルタゴへの反旗を翻した、イベリアでも屈強で知られる獰猛な部族――オルキス族の討伐である。
山々は鋭く切り立ち、谷は深く、朝霧が立ち込めるこの地形は、ゲリラ戦を得意とする現地部族が牙を隠すには格好の舞台であった。
ハンニバルは馬上で冷徹に周囲の稜線を見渡し、副官として付き従うマゴーネに声をかけた。
「マゴーネ、ここは奴らの得意な地形だ。このまま進めば谷底で矢の雨を浴びることになるかもしれねぇぞ」
兄からの突然の問いかけに、マゴーネは馬を並べながら必死に周囲の地形を睨みつけた。
兄の戦術をすべて吸収しようと頭をフル回転させるが、自分ではすぐには有効な策が思い浮かばない。
「……どうすればいい? 兄さん」
「いいかマゴーネ、奴らは正面から戦う気なんかねぇ。
山の影に潜んで、こっちが不利な場所に足を踏み入れるのを今か今かと待ち構えているんだ。
だったら――逆にこっちが奴らを狩る側に回る戦法を考えるんだ」
兄の助言を聞き、周囲の地形と地図を交互に見ながらマゴーネは必死に思考を巡らせた。
(狩る側に回る──待ち伏せている奴らの、さらに裏をかくということか)
「兄さん、あそこに狭い尾根がある。
オルキス族が我が軍の頭上を襲うために伏兵を置くなら、ここが最善の場所になるはず。
逆に言えば、ここを先回りして押さえさえすれば、我が軍の本隊はこの谷を安全に通れるんじゃないかな?」
マゴーネは自分の導き出した答えに、確信は持てない様子で兄の問いかけに答える。
「その通りだ、マゴーネ。満点だ」
「よし、ハシュドゥルバルの率いる軽装歩兵部隊を先行させ、あの尾根を裏から回り込んで強奪しろと伝令を出せ。
隠れている奴らは、自分たちの方から奇襲されるとは夢にも思ってねぇだろう。
尾根を奪われたオルキス族はパニックを起こし、必ずこの谷の出口へと逃げ出してくる。――そこを、俺たちの本隊が背後から一網打尽に叩く」
「了解しました!」
兄に認められた喜びで、マゴーネの瞳に強い光が宿る。
彼はすぐさま馬を返し、敏捷な伝令兵たちに的確な指示を飛ばした。
若き新総督の命令は、瞬く間に、しかし確実に軍全体へと伝わっていった。
尾根の状況を確認するためにしばらく待機していると、 尾根の上で鋭い叫び声が上がった。
「オルキス族だ!」
「伏兵がいたぞ」
先行させていたハシュドゥルバルの部隊が、尾根に潜んでいたオルキス族を見つけ、そのまま一気に突撃を敢行したのだ。
不意を突かれたのは、待ち伏せていたはずのオルキス族の側だった。
隠れていた岩陰から這い出し、必死に抵抗したものの、策略が事前に露見していたという動揺は隠せず、その攻撃にはまるで力がなかった。
すぐに不利と悟ったオルキス族の戦士たちは、瞬く間に蜘蛛の子を散らすように谷へと逃げ出していった。
「マハルバル! 騎兵を率いて先回りし、谷の出口を完全に塞げ!」
その瞬間を逃さず、ハンニバルは、屈強なヌミディア騎兵を率いるマハルバルへ指示を出す。
「本軍はこのまま前進、ヌミディア騎兵と敵を挟み撃ちにしろ! 逃げ道を塞げ!」
カルタゴ軍は統率された動きで前進を開始した。
風よりも速いと謳われるヌミディアの軽騎兵たちが、尾根から転げ落ちるように逃げてくるオルキス族をあっさりと追い抜き、谷の出口をまたたく間に鉄の壁で塞ぐ。
出口を両側から完全に遮断され、袋のネズミとなったオルキス族は完全にパニックに陥った。
主だった戦士や将が次々とカルタゴ軍の槍に組み伏せられ、イベリアで屈強と恐れられた部族の抵抗は、わずか半日で文字通り崩壊したのである。
血煙が収まり、戦場に静寂が戻る。
ハンニバルは、泥と血にまみれて捕虜となったオルキス族の長の前に、堂々と歩み寄った。
「俺がハンニバルだ。どうだ、俺は弱いか?」
族長は屈辱に歯噛みしながら、無言でハンニバルを激しく睨みつけた。
すると、ハンニバルはその端正な顔に、あの見る者すべてを魅了する、陽気で愛嬌のある微笑みをふっと浮かべた。
「そう睨むな、剣を交える時間はもう終わったんだ。これからは同じイベリアの地の隣人として、仲良くやっていこうじゃないか」
この時代、戦いに敗れた者は、殺されるか奴隷として売りさばかれるという凄惨な運命が当然であった。
「……どういうことだ、ハンニバル。刃向かった我らを許すというのか?」
族長は、ハンニバルの口から飛び出した言葉が自分の予想を裏切りすぎていて、ただただ困惑して理解が追いつかずにいた。
「これ以上、刃向かってこなけりゃ、過去の過ちはすべて水に流すと言っているのさ」
あまりの寛大さに、族長は狐につつまれるような顔のまま、何も答えられない。
だが、その刹那──。
ハンニバルの顔から、陽気な太陽のような笑顔が嘘のように消え失せた。
「だが、二度目はねぇ」
愛嬌のある笑顔が消え、冷酷な表情に変わったハンニバルの一段低く凄みのある声が族長の背筋を凍り付かせた。
「俺に二度、牙を剥いた部族は、赤ん坊に至るまで一人残さず首を刎ね、その地を不毛の荒野に変えてやる。肝に銘じておけ」
一瞬で見せつけられた底知れぬ地獄の恐怖。
その圧倒的な器の大きさと冷徹さに完全に気圧された族長は、たまらずその場に激しく跪いた。
「我らオルキス族はハンニバルに従います……!」
「そうじゃねぇ」
ハンニバルは冷たく遮った。
「俺の亡き親父はハミルカル・バルカだ。
今日お前らを尾根から追い立てたのは、次弟のハシュドゥルバル・バルカだ。
そして俺の横にいるのが、お前らの伏兵の策を見事に見破ってみせた、末弟のマゴーネ・バルカだ。
――俺たち兄弟は、いずれも劣らぬ戦上手だ。
親父の代から、このイベリアで血を流し、重きをなしてきたのは俺たちバルカ家だ。俺個人にではない。俺たちバルカの血に、服従を誓え」
その言葉の重みに、族長はさらに深く首を垂れる。
「我らオルキス族は、バルカ家の血に絶対の忠誠を捧げます!」
「よし、ならばオルキス族の反乱はこれをもってすべて赦す! これからは良き隣人として、共に美味い酒を飲もうじゃないか」
ハンニバルの顔に、再びあの眩いばかりの愛嬌のある笑顔が戻った。
そのあまりの鮮やかな変貌に、族長は恐怖しながらも、この若き覇王に完全に魂を魅了されてしまっていた。
すべての戦後処理を終え、夕闇が迫るなかを帰還の途についた。
その途上、ハンニバルは馬を歩ませながら、遥か西の、燃えるような山の端に沈んでいく夕日を静かに見つめていた。
その横顔は、先ほどまで部族長を圧倒していたものとは違い、深く、どこか遠い世界を見据えている。
「待っていろよ、ローマ」
若き総督の唇から、静かな、しかし確固たる呟きが漏れた。
「そう遠くないうちに……お前たちの目の前に、この俺が直々に現れてやる」
その瞳には、すでに目の前のイベリアの山並みなど映っていなかった。
アルプスの険しき白峰を越えたその先にある、宿敵ローマの巨大な城壁が、静かに、しかし鮮烈に燃え盛っていたのである。
歴史書では見えてこない、ハンニバルという人物の内面を描くこと。
それが本作の主題です。
史実の流れを踏まえつつ、彼の心に宿る影火、葛藤、誓いの重さを
一話ごとに丁寧に追っていきます。
皆さまの感想やご意見は、物語をさらに深める大きな力となります。




