第十三話 ローマに勝つために── 影の軍団を組織せよ
紀元前二二一年暮れ。
ハンニバルは総督府の奥深く、重い扉に閉ざされた一室で、アブディルと対面していた。
アブディルは、バルカ家に仕えるリビュア人の従僕である。
だがその才は従僕の域をはるかに超えていた。
イベリア語、フェニキア語、ラテン語、ギリシア語を自在に操り、馬術も剣術も一流。
地中海世界の情勢を読み解く洞察は、諸将の誰よりも鋭い。
ハンニバルにとっては秘書官であり、懐刀であり── 絶対の信頼を置ける男だった。
「アブディル。お前は優秀だ」
ハンニバルは静かに言った。
「地中海の情勢をお前ほど正確に読めるやつは、将校連中にも一人として存在しねぇ」
「もったいなきお言葉です、ハンニバル様」
アブディルは恭しく頭を下げたまま、余計な言葉を一切挟まない。
主の次の言葉を、ただ静かに待つ。
「……お前ほどの男を手元から離すのは、俺にとっても痛手だ」
ハンニバルはゆっくりと立ち上がり、アブディルへ歩み寄った。
「だがな。お前にしか託せない仕事がある。戦いの勝敗を左右する、極めて重大な仕事だ。
バルカ家の命運は──お前の才にかかっている」
アブディルはそっと顔を上げた。
ハンニバルの瞳の奥に宿る、狂気にも似た熱量を見つめる。
「俺には、これからローマとの決戦が待っている。
だがローマという国は、正面から力比べをしたところで勝たせちゃくれねぇ。
敵の情報を正確に掴み、敵の強みを避け、敵の力を半減させる── そういう戦い方をしなければ、いずれこっちが力尽きる」
「……私に、ローマの情報を集める役目をお任せになる、ということでしょうか」
ハンニバルは満足げに口元を吊り上げた。
「やはりお前は最高だな、アブディル。一を聞いて十を知るってやつだ」
ハンニバルはアブディルの肩にそっと手を置いた。
「アブディル。お前にはバルカ家の従僕という身分を捨ててもらう。
今日よりカルタゴ軍の『情報将校』として働いてほしい。
商人、旅人、……必要とあらば何にでも姿を変え、ローマ社会の奥深くへ入り込め。
そして俺の “眼” となりローマの動きを探る影の軍団を、お前の手で築き上げてくれ。
……どうだ。引き受けてくれるか?」
アブディルはしばし沈黙した。
主の手の重みと、これから踏み入れる闇の深さを、静かに噛み締める。
やがて、覚悟を秘めた声で、しかし揺るぎなく答えた。
「――この命、とうにバルカ家へ捧げております。
ハンニバル様が、ハミルカル様の無念をお晴らしになるその日まで、私は影となり、ローマのすべてを探り尽くしましょう」
「お前の覚悟──確かに預かった。頼んだぞ、アブディル!」
ハンニバルは肩に置いた手へ力を込め、信頼と期待のすべてを込めた笑みを返した。
「資金はいくらでも用意する。それだけこの任務は重大だ。
平凡な奴らじゃ務まらねぇ。
軍団員には傭兵の倍の給金を出す。
その条件で、目端の利く者を二十──できれば五十に近い数を集めろ。
商人、旅芸人、あらゆる姿に偽装させ、ローマと同盟諸都市へ潜り込ませるんだ」
「畏まりました」
「俺が最も欲しいのは、奴らの『指揮官の情報』だ。
これからローマで執政官や法務官なんかの軍を指揮する立場になる可能性の高い有力者は、貴族、平民を問わず、そいつらの名前、年齢、軍歴、趣味から、ローマ社会での風評まで残らず洗い出せ。
さらに、慎重に軍を動かす男か、手柄を焦って突っ込んでくる無鉄砲な男か、その性質まで分析してくれ。
その情報こそが、奴らの大軍を打ち破るための最大の鍵になる」
「承知しました。ハンニバル様」
アブディルは、それだけ聞くと、主の意図をすべて理解した者の静かな眼で頷いた。
「よし。アブディル──その影の軍団の指揮はお前に一任する。
今日からお前は、影の軍団を束ねる軍団長だ」
「はっ。さっそく、人選に取り掛かります」
天才ハンニバルの恐るべき情報戦術の歯車が、この名もなきリビュア人の手によって、静かに、しかし確実に回り始めた瞬間であった。
それから一年── アブディルは闇の底で動き続けた。
地中海世界のあらゆる階層から人材を選び抜き、冷徹な観察眼と、徹底した諜報の技術を叩き込んでいった。
紀元前二一九年。
初夏の陽光が注ぐ、カルタゴ・ノウァの港。
喧騒に満ちた波止場を背に、数隻の商船が静かに地中海へ滑り出していく。
その甲板に立つのは、シチリアの穀物商、くたびれた物売り、うらぶれた旅芸人── どこにでもいる、取るに足らぬ人々にしか見えなかった。
港の誰も、彼らに視線を留める者はいない。
船影は、夕陽の海へ溶けるように静かに消えていった。
だが── 彼らこそは、のちにローマを全滅寸前まで追い詰めることになる、ハンニバルの奥の手。
若き覇王のために海へ散った、影の軍団であった。
彼らがもたらす情報の海の上で、ハンニバルの戦術は、まもなく世界を震撼させることになる。
歴史書では見えてこない、ハンニバルという人物の内面を描くこと。
それが本作の主題です。
史実の流れを踏まえつつ、彼の心に宿る影火、葛藤、誓いの重さを
一話ごとに丁寧に追っていきます。
皆さまの感想やご意見は、物語をさらに深める大きな力となります。




