第十二話 三兄弟の決意── 同じ月を見上げて
和平交渉の席上で前総督ハスドルバルが暗殺されるという、未曾有の衝撃から数ヶ月──。
二十六歳という異例の若さでヒスパニア総督、そして軍最高司令官への就任を本国カルタゴ元老院から正式に承認されたハンニバル・バルカは、自邸の奥にある石造りの広間で、二人の弟を待っていた。
広間の大きなテーブルには、地中海世界を網羅した巨大な地図が広げられている。
壁には、父ハミルカルの形見である、傷だらけの青銅の戦盾が掛けられていた。
(父さん。父さんに誓った約束は、必ず果たすよ……)
父の形見を前にすると、あの冬の日の父の壮絶な最期の姿が、昨日のことように甦ってくる。
窓の外では、イベリアの夜風が松明の炎を激しく揺らし、夜空には、美しい満月が瞬いていた。
「兄貴、大事な話かい?」
静寂を破って現れたのは、次弟のハシュドゥルバルだった。
「あぁ。マゴーネもそろってから話す」
少し遅れて、末弟のマゴーネもやってきた。
地中海のすべてが描かれた地図を囲み、バルカ家の三人の兄弟がそろった。
「これで俺は、正式にヒスパニア総督と軍最高司令官の地位を手に入れた。
お前たちに、俺がこれからやろうとしていることを話しておきたい」
二人の弟は、いつもの兄とは違う、肌を刺すようなピリピリとした空気感に、息を呑み次の言葉を待っている。
「俺は親父と約束した。生涯ローマを憎み、ローマを許さず、ローマを敵とすると、バアル神殿の祭壇で、親父とともに血の誓いを立てたんだ。
……血の誓いを立てたのは俺だけかもしれねぇが、親父はお前らにも同じ覚悟でいてほしかったはずだ。
俺が道半ばで倒れたらハシュドゥルバル、お前に。ハシュドゥルバルが倒れたらマゴーネ、お前に後を託したいと、親父は思っていたはずだ」
ハンニバルは一度言葉を切り、二人の弟の顔をじっと見つめた。
そして──長靴の形をした地図の一点を指し。
「――俺は、ローマを討つ」
ハンニバルが積年の思いを静かに、しかし確固たる声で告げた瞬間、二人の弟の全身に緊張が走る。
恐れを感じたからではない。
父が遺し、兄が育み、そして自分たちもまた胸の奥で絶やさずに燃やし続けてきたバルカ家の宿願が、ついにこの部屋で、明確な言葉となって解き放たれたからだ。
その言葉は、静かに広間の空気を変えた。
まるで運命そのものが、今この瞬間に動き出したかのように。
「……だが、今すぐじゃねぇ」
ハンニバルは大きな地図の上に視線を落とした。
「ローマとの戦端を開く前にやるべきことがある。
俺たちがローマと戦って勝つためには基盤が重要だ。
イベリアを俺たちの強固な基盤とし、ローマを打ち破るための戦力と財を蓄える」
兄の冷徹な現実主義に触れ、マゴーネがその理知的な目を鋭く輝かせた。
「つまり、最初の一手は海の向こうのローマではなく、まずは足元のイベリアを完全に掌握するということだね。兄さん」
「その通りだマゴーネ。今、北のオルキス族が従わなくなってきている。
俺が若造だと舐めているのさ。
元老院の承認なんてイベリアの部族には効かねぇ。
叩きのめして俺の力──いや、俺たちバルカ家の力を見せつけてやらなけりゃ、奴らをねじ伏せることはできねぇ」
「だったら兄貴、奴らにバルカ家の力を思い知らせてやろうぜ」
ハンニバルによく似た意志の強そうな精悍な顔立ちのハシュドゥルバルが、獰猛な笑みを浮かべて力強く言った。
「そうだハシュドゥルバル、俺だけじゃなくて俺たちバルカ家の兄弟が強いってことをイベリア全土に知らしめて、ここでの統治は揺るがないってイベリアの全部族に徹底的に叩き込む必要がある」
(──ハスドルバル、やっぱりお前は分かっているじゃないか)
ハンニバルは頼もしげな顔で次弟に頷きを返した。
「その通りだね、兄さん。俺たち三人の力でイベリアを完全に統一して、イベリアの主人はバルカ家なんだって示す。
ローマに対抗するためには、それこそが絶対に必要なことだ」
思慮深げに、しかしその眼奥に兄たちと同じ熱い炎を宿しながら、マゴーネが続く。その瞳にはまだ若さが残るものの、バルカ家の血筋特有の、鋭い知性の光がギラギラと宿り始めていた。
「あぁ、マゴーネ。俺は年が明けてからイベリアを統一するための戦を始める。
最初の相手はオルキス族だ。
そこから反抗的な部族を全部叩いて、イベリアでのバルカ家の統治を揺るぎないものにする。
──ハシュドゥルバル、お前は副将として一軍を率いれ」
ハンニバルは、軍事面でも政治面でも自分の代わりが務まると絶大な信頼を置いている次弟に、一軍の将としての全権を託した。
「了解だ、兄貴」
「マゴーネ、お前は副官として俺のすぐ傍にいろ。俺の戦術、俺の呼吸、そのすべてを今から吸収するんだ」
ハンニバルは、まだ若い末弟の成長を期待して副官に任じる。
「分かったよ、兄さん」
末っ子らしく、まだどこか甘さの残る若いマゴーネだったが、兄の隣で、これからの幾多の激戦をくぐり抜けていけば、彼もまた世界を震撼させるバルカ家の男へと成長していくに違いない。
「頼むぜ、お前ら」
ハンニバルが微笑み、テーブルの上に右手を差し出した。
そこに迷わず、ハシュドゥルバルの固い手が重なり、さらにマゴーネの若い手が重なる。
三つの手が、地中海の地図の上で一つに固く結ばれた。
まずはイベリアを完全に固める。
その先には、ローマとの決戦がある。
三兄弟は互いに目を合わせた。
その瞳には、同じ炎が宿っていた。
バルカ家の炎――ローマを焼き尽くすための、宿命の炎である。
───
「……ふぅ」
弟たちがそれぞれの任務へ戻り、広間が静寂を取り戻すと、ハンニバルは自室に戻り、深く息を吐いた。
カルタゴ本国からの承認も得て、名実ともにヒスパニア総督となり、誰もが畏敬する若き傑物ハンニバルが、二十六歳の一人の若者に戻る瞬間だった。
己が選んだ道。
亡き父への誓い。
自室で一人になると、それまで体を覆っていた呪縛が、少しずつ離れていく。
孤独な頂に立つ彼が、ただの二十六歳の男へ戻るとき―― いつも胸の奥に浮かぶ顔がある。
(……アリサ)
思い出すのは──。
『いいえ、待つわ。あなたがどれほど遠い海の向こうへ行っても……私は、あなたの帰る場所でいるわ』
真っ直ぐな瞳でそう告げた、愛おしい少女の姿。
ハンニバルは窓辺に立ち、 満月の光を浴びながらぽつりと呟いた。
「アリサは今、どうしてるんだろう。……もう、こんなに時間が経っちまったし。…… もう待ってちゃくれねぇよな……」
イベリアの夜風が前髪を揺らす。
その風は、はるか東の海を越え、カルタゴの本国へと繋がっている。
──その頃。
海を渡ったカルタゴ本国。
タニト神殿の静謐な庭に、アリサの姿があった。
ハンニバルが背負う宿命の重さを知った彼女は、彼の足手まといにならぬようカルタゴ・ノウァを去り、ただ彼の無事を神に祈るため、大神殿で奉公する道を選んでいた。
夜露に濡れた石畳が月光を返す庭で、アリサは一人、イベリアの方角の空を見上げる。
「ハンニバル……あなたは今、何を考えているの……
もう私のことなんか忘れてしまった?……」
胸元をぎゅっと握りしめ、切なげに、それでも確かな光を瞳に宿す。
「私は……ずっと変わらず、あなたを想っているわ」
――もう待ってちゃくれねぇよな、と寂しげに呟く男。
――ずっと変わらずあなたを想っているわ、と夜空に誓う女。
同じ夜、同じ月を見上げながら、これほど深く想い合っているのに、二人の想いが相手に届くことはなかった。
ただ、地中海を渡る夜風だけが、切ない二人の熱を乗せて、暗闇のなかを静かに吹き抜けてゆくだけだった。




