第十一話 カルタゴ元老院── 権威の屈服
紀元前二二一年、初夏。
カルタゴのビュルサの丘に立つ元老院議事堂は、朝からまるで嵐の前の海のような重苦しい緊張に包まれていた。
地中海を渡ってきた一隻の快速船が、夜明け前に港へ滑り込み、その船から降り立った急使が “ヒスパニア総督ハスドルバル暗殺” の報を携えていたからである。
急遽招集された元老院議員たちが、ざわざわと持っている情報や噂話を交わし合っている。
地中海交易の富を象徴するティルス紫の豪奢なトガをまとった議員たちの顔は、どれも一様に険しい。
議長が木槌を叩いて会議の開始を告げると、それが自身の特権だといわんばかりに、長老ハンノが真っ先に手を挙げた。
彼は “反バルカ派” の重鎮であり、ハミルカル以来のバルカ家の台頭を誰よりも苦々しく思っている男だった。
ハンノは深く刻まれた眉間の皺をさらにひそめ、冷徹な声を響かせた。
「和平の席で殺されるとは、あまりに無防備、あまりに無様ではないか。ヒスパニア統治をバルカ家に任せすぎた報いだ」
ハンノの声には、バルカ家の台頭を誰よりも恐れ、嫉んできた男の焦りが滲んでいた。
それに対して、新興の商人階級を代表するハスドルバル・ギスコが、座席から静かに立ち上がり反論した。
「しかしハンノ殿、ヒスパニアの富は今や我がカルタゴの生命線です。
先の戦争(第一次ポエニ戦争)の莫大な賠償金をローマに支払い終えられたのも、ハミルカル将軍以来、バルカ家が泥をすすりながら築いた鉱山のあがりがあったからこそ。
我らはその富を貪っておきながら、いざとなれば後ろから石を投げるのですか」
議場の空気は重く沈み、誰もが次の言葉を待っていた。
議長が手元の書状に目を落とし、重々しく告げる。
「……ヒスパニアからの報告には、もう一つ、看過できぬ一筆がある。
現地カルタゴ軍は、全会一致でハスドルバルの副官だったハンニバル・バルカを、後継総督に推挙した、と」
その瞬間、議場を揺るがすようなざわめきが沸き起こった。
「ハンニバルだと?」
「まだ三十にも満たぬ若造ではないか」
「しかし兵の信頼は絶大と聞く」
「イベリアの部族長たちも彼を支持しているらしい」
重鎮たちの困惑の声が交錯する。
カルタゴ元老院は、形式上は地中海世界で屈指の権威を誇る最高政治機関であった。
だが、ヒスパニアはあまりに遠い。
そして何より、現地の軍隊は本国の命令を待つことなく、すでに自分たちの最高司令官を選んでしまっているのだ。
長老ハンノが激昂し、傍らの手すりを叩いた。
「軍が勝手に後継者を選ぶなど前代未聞だ!
元老院の権威を軽んじるにもほどがある。
そのような勝手を許せば、ヒスパニアはカルタゴの領土ではなく、バルカ家の王国になってしまうぞ!」
しかし、老練な政治家ハスドルバル・ギスコは、冷ややかな視線をハンノに向けたまま言った。
「ではハンノ殿、あなたが今から海を渡り、現地軍を解散させてこられますか?
ヒスパニアの現状は、この議事堂から見える平穏な海ほど甘くはない。
いま現地で一刻でも指揮官不在となれば、イベリア全土が反乱の火の海と化す。
ローマはその隙を絶対に逃さぬでしょう。
軍が即座に新たな司令官を担ぎ上げたのは、むしろ現場の知恵です」
バルカ家と縁戚関係にある、本国の重鎮ボミルカルも同調するように口を開く。
「それに、ハンニバルはあのハミルカル将軍の長男だ。九歳から父と共にイベリアの泥と血の中で育ち、兵士たちの信頼も厚いと聞く。
……いま、このカルタゴに、彼以上にヒスパニアをまとめられる将軍が一人でもいるかね?」
議場は、水を打ったように静まり返った。
ボミルカルのその問いに、視線を逸らさずに答えられる議員は、誰一人としていなかった。
バルカ家を憎むハンノでさえ、ヒスパニア全軍の支持を覆すほど、推挙するにふさわしい別の後継者候補を挙げることができなかったのである。
元老院の誇る権威が、海の向こうにある圧倒的な現実の前に、音を立てて屈した瞬間だった。
議長がゆっくりと立ち上がり、苦汁をにじませた声で言った。
「……では、元老院はヒスパニア現地軍の推挙を追認し、ハンニバル・バルカを、ヒスパニア総督として正式に任命する。異議ある者は?」
沈黙が議場を支配した。
挙がる手は、一つもない。
議長は傍らに控えていたヒスパニアからの急使へ向けて、諦念の混じった声を投げかけた。
「急使よ、元老院の決定をヒスパニアへ伝えよ。我らはハンニバルに、イベリアの安定と……カルタゴの繁栄を託す」
急使は深く頭を下げ、再び海へ向かうため、大理石の床を鋭い足音で鳴らしながら議事堂を後にした。
ビュルサの丘に、アフリカ大陸の乾いた熱風が吹き抜ける。
その風は、ただの新しい時代の到来を告げているのではなかった。
本国の老いた政治家たちの手を離れ、牙を剥いた若き獅子が、地中海世界を文字通りの地獄の戦乱へと引きずり込み始める──その、破滅的な嵐の前触れのようであった。
カルタゴは、若き将軍ハンニバルの時代へと、否応なしに歩み始めていた。




