第十話 熱狂── カリスマの言霊
将校たちが評議の間で固唾を呑んでいたその頃、カルタゴ・ノウァの兵舎は、底冷えする冬の霧よりも冷たい動揺に包まれていた。
総督ハスドルバルがイベリア人の凶刃によって暗殺されたという凶報が伝わると、兵士たちの間に瞬く間に動揺が広がっていった。
「おい、聞いたか? ハスドルバル様が殺されたって」
「ああ、部族の若造にいきなり刺されたらしいな。個人的な恨みだって話だが……」
「これから俺たちはどうなるんだ?」
「まさかお払い箱になるんじゃねぇだろうな。そうなったらどうするよ?」
兵士たちの口から漏れるのは、行き場のない不安ばかりだった。
古代の戦争において、敗北はすなわち都市の破壊と住民の奴隷化を意味する。
ローマとの戦いや、部族間の抗争によって故郷を失った男たちには、守るべき財産も、耕すべき土地もない。
まともに生きる道を絶たれた彼らにとって、残された唯一の財産は、己の肉体と、戦う技術だけだった。
飢え死にするか、奴隷に落ちるか、それとも剣を取って戦うか。
彼らにとって傭兵とは、生き残るための最後の手段だったのだ。
絶対的な大黒柱を失った今、誰もが心のどこかで「大丈夫だ」と誰かに否定してほしくて、互いの顔を不安げに見つめ合っていた。
そのとき、兵舎に鋭い角笛の音が鳴り響いた。
「おい、全軍招集だ! 大広場へ集まれ!」
伝令の声に、数千の兵士たちが一斉に動き出す。
不安に顔を曇らせながらも、彼らの足取りには「どうか悪い知らせではありませんように」という、祈るような一縷の望みが混じっていた。
広場を埋め尽くす男たちの顔ぶれは、実にも多様だった。
故郷をローマに焼かれ、戦うことでしか飯を食えないガリアの難民。
故郷の家族へ仕送りをするために身を投じてきたバレアレスの投石兵。
そして、バルカ家との同盟の証として送り込まれたイベリアの精鋭たち。
出自も言語もバラバラな彼らを繋ぎ止めていたのは、カルタゴへの愛国心などではない。
ただ一つ、 ”バルカ家” ならば、命を賭けるに足る取り分(給料)をくれるという、絶対的な信頼だけだった。
その大黒柱を失ったのだ。男たちが未来を悲観し、怯えるのも無理はなかった。
砂塵の舞う広場の中央。
急造された演壇の上に、一人の男が歩み出てきた。
ざわざわと波打っていた数千の兵士たちの視線が、一瞬でその若者に釘付けになる。
「……おい、あれって」
「ハンニバル様か?」
演壇に立った二十六歳のハンニバルは、歴史書に描かれるような厳格なカルタゴ貴族の礼装を着ていなかった。
総督らしい豪奢な外套こそ羽織っていたが、その下に着ているのは、兵士たちと何ら変わらない泥に汚れた革の胸当てだけだ。
その姿を見た古参の兵士たちの脳裏に、鮮烈な記憶が蘇る。
兵士たちと同じ衣服をまとい、同じ冷たい地面に寝そべり、美味い酒があれば誰とでも豪快に笑い飛ばした、あの偉大なる父ハミルカル・バルカの姿が。
ハンニバルは、広場を埋め尽くす兵士たちの、すがるような、しかし熱い視線をその大きな黒い瞳で一身に受け止めた。
その佇まいは不敵で自信に満ち溢れ、どんな絶望をも極上の余興に変えてしまうような、見る者すべてを魅了してしまう威厳と愛嬌が同時に備わった、若きカリスマそのものだった。
ハンニバルは演壇の端まで歩み出ると、集まった兵士たちへ不敵な笑みを浮かばせながら見回した。
「おいおい、どいつもこいつも、まるで明日にでも処刑される罪人みたいなツラをしてやがるな!」
ハンニバルの陽気な声が、大広場の隅々にまで響き渡った。
「お前らは何も心配することはねぇ!
この地にこれまでの繁栄をもたらしたのは誰だ?
俺の親父、ハミルカル・バルカだ!
その後を引き継いだのは誰だ?
俺の義兄ハスドルバルだ!
そして、ハミルカルの血を最も濃く受け継ぎ、お前たちと泥水をすすり、同じ地面で寝てきたのは──この俺、ハンニバル・バルカだ!
お前らとともに戦ってきた俺がいる限り、お前らは何一つ心配することはねぇんだ!」
ハンニバルは緋色のマントを翻し、一歩前へ出た。
その瞳に、狂おしいほどの野心と、絶対的な勝利への自信が炎となって燃え盛る。
「俺の手を見ろ! 前たちと同じ戦いのタコがある! 俺の身体を見ろ! お前たちと同じ戦いの傷がある!
――俺は、お前たちと同じだ!」
ここでハンニバルは、自分の声が皆の心へ届いているのか確認しているかのように、大広場を見回した。
水を打ったように静まり返る数千の群衆。
ハンニバルはその完璧な沈黙を十分に引き絞ってから、さらに声を張って演説を再開した。
「だがな、俺にはお前たちとは違うものもある。
親父譲りの、戦いを勝利に導く力だ!
俺はハミルカル・バルカの戦術をすべてこの頭に叩き込み、さらに実戦で磨き上げた!
今の俺は誰にも負けはしない。
例えローマの軍団が何倍もの数で戦いを挑んできても、この俺が木端微塵に打ち破ってみせる!」
荒くれ物も多い傭兵たちが、皆、演壇の若者の言葉に釘付けになっていた。
彼の言葉には、まるで魂を縛り付ける魔力があるかのように、誰一人として視線を外せない。
「俺はお前たちに約束する。
豊かな未来を、栄光の日々を。
けっして退屈はさせねぇ。
俺についてくればお前たちに、美味い酒と、大金の分け前、そして数々の栄光をその手に掴み取らせてやる!
どうだお前ら、俺に命を預けてついてきてくれるか!」
ハンニバルが言葉を止めた瞬間、兵士たちの胸の奥で、何かが爆発した。
彼らの行き場のない不安は、若きカリスマの眩しいばかりの光の前に一瞬で消し飛んでいた。
彼らの目の前にいるのは、ただの二十六歳の若者ではない。
自分たちを栄光の絶頂へと導いてくれる、軍神の申し子だった。
「ハンニバルだ……! 俺たちにはハンニバル様がいるぞ!」
一人の兵士が、我を忘れて叫んでいた。その顔は興奮で真っ赤に染まっている。
「そうだ! ハミルカル様の息子だ! あの御方についていけば、俺たちは絶対に負けねえ!」
「ハンニバル!」
「ハンニバル・バルカ!」
「我らが総督! 我らが王!」
地響きのような歓声が、カルタゴ・ノウァの大地を揺るがした。
数千の剣と盾が打ち鳴らされ、その金属音が天を衝く。
その熱狂は、本国の元老院の承認など待つまでもない、現場の兵士たちによる圧倒的な ”選出” の瞬間であった。
総督の椅子などという窮屈な器には収まりきらない、若き覇王の輝きを放つハンニバルは、その熱狂の渦を、両腕を広げて全身で受け止めていた。
「よし! その意気だ! 俺は絶対にお前らを見捨てねぇ! 俺についてきてくれ!」
「ハンニバル!」
「ハンニバル・バルカ!」
兵士たちの、爆発した熱狂は、ハンニバルが演壇を後にし、その姿が見えなくなってからも、止むことはなかった。
不安に怯えていた軍勢は、たった一人の青年の演説によって、熱狂と喝采に包まれ――全軍一致で、ハンニバル・バルカのヒスパニア総督就任を猛烈に支持したのである。




