第九話 総督ハスドルバル暗殺――バルカ家の責務
ここから第二部に入ります。
今後登場する人物も含めた主要キャラクターを紹介します。
ハンニバル・バルカ
主人公。カルタゴの若きカリスマ。
アリサ
ヒロイン。カルタゴの名門令嬢。
クローディア
アリサの母。娘の揺れる心をすべて見透かし、包み込むような温もりを持つ聡明な女性。
マハルバル
カルタゴ軍の若き騎兵将校。
野性味溢れる凄腕の戦士。
ハンニバルの騎馬訓練の師でもある。
後のハンニバル軍の右腕。
ハミルカル・バルカ
ハンニバルの父。
ヒスパニア総督で軍の最高司令官。
ローマへ復讐の執念を滾らせ、幼いハンニバルに「血の誓い」を課す。
ハシュドゥルバル・バルカ
ハンニバルの次弟。
兄を尊敬し、バルカの男として共にローマへの復讐を背負おうとする。
マゴーネ・バルカ
ハンニバルの末弟。
兄を尊敬し、バルカの男として共にローマと戦う
アブディル
バルカ家に仕える若いリビュア人の従僕。
イベリア語フェニキア語にラテン語やギリシア語も操れ、小柄ながら引き締まった体躯、豹のように俊敏、馬術や剣術も一流の腕前を持ち、ハンニバルも一目置く才覚の持ち主。
カルタロ
ハンニバル軍の斥候隊長。規律を重んじ、常に冷静沈着、どんな泥臭い任務も確実に遂行する実直な生粋のカルタゴ武将
ハンノと記載する人物
同姓が多数。
カルタゴ元老院の反バルカの議員。
別にバルカ家と縁戚関係にある父子がいる
ファビウス
ローマ元老院の重鎮。
ローマの盾と呼ばれハンニバルの進撃を食い止めた英雄。
マルケッルス
ローマの将軍。
ローマの剣と呼ばれ、ハンニバルと何度も死闘を演じた英雄。
スキピオ(父と同姓同名)
ローマの若きカリスマ。ハンニバルの最大のライバル
レリウス
スキピオの親友であり副官。
知将であり、実務能力にたける。
マシニッサ
ヌミディアの王子。
後に、ハンニバルとスキピオとの決戦で、勝敗のカギとなる人物。
紀元前二二一年。
地中海の風がいつもより冷たく、イベリア半島の赤茶けた砂塵を巻き上げていた。
カルタゴ・ノウァの総督府は、重苦しい沈黙と、底知れぬ狼狽に包まれていた。
当時のヒスパニア総督府は、実質的にバルカ家の私邸兼政庁である。
その中枢を、最悪の凶報が駆け抜けた。
——総督ハスドルバル暗殺。
ハスドルバルは、イベリア部族との和平交渉の席で、タルトゥッシ族の若者に不意を突かれて刺殺された。
凶行を行った若者はその場で成敗され、個人的な怨恨によるものとされたが、絶対的な大黒柱を失ったカルタゴ陣営の動揺は凄まじかった。
評議の間に集まった宿将や将校たちは、互いに顔を見合わせ、ただ狼狽の声をもらすばかりだった。
そのとき、評議の間の重い扉が音を立てて開いた。
一人の若者が姿を現すと、室内の空気が一瞬で変わる。
体つきは細身ではあるが、無駄な肉のないしなやかな筋肉が 肩から背にかけて走っている。
美しい光を放つ亜麻色の髪、その間から覗く知性を感じさせる精悍な額、鼻筋は通り、普段はイベリアの部族長たちをも一瞬で魅了するカリスマ性のある笑顔を見せる柔らかな口元は、今は固く結ばれている。
そして、強靭な意思を宿した大きな黒い瞳――。
男も女も関係なく、見る者全てを魅了する圧倒的なカリスマ性を備えた若者、ハンニバル・バルカがそこに立っていた。
ハスドルバルの義弟(姉がハスドルバルの妻)であり、副官として実務を熟知している男。
前総督ハミルカル・バルカの遺志を継ぐ後継者に最もふさわしい、ハミルカルの長男である。
彼の瞳は、獲物を狙う豹のように爛々《らんらん》と輝いていた。
育ちの良い貴族でありながら、纏う空気は泥塗れの戦場を生き抜いてきた叩き上げの戦士そのものだ。
兵士たちと同じ衣服をまとい、同じ地面に寝そべり、美味い酒があれば誰とでも豪快に笑い飛ばす。
だが、ひとたび戦場に立てば軍神さながらに勇敢に戦い、時には冷血で恐ろしい侵略者にもなる。
この愛嬌と危険の同居こそが、バルカ家の最高傑作たる所以だった。
ハンニバルは、沈痛な面持ちで居並ぶ将校らを見まわして口を開いた。
「俺もあの場にいた。俺が付いていながら、ハスドルバルを守れなかった。
副官として総督を守れなかったことを、深く詫る」
ハンニバルは、和平交渉の場に副官として同席していながら、イベリアの若者の殺意に気付けず、総督暗殺を阻止出来なかった己の不覚──それを冷徹に認め、居並ぶ将校たちに向けて潔く、深く頭を下げた。
しかし、顔を上げた時のハンニバルの眼は、自らの失態を咎められて裁きを待つ敗者の眼ではなかった。
己の不覚を冷徹に認めた上で、その屈辱を何倍にもして返してやろうという、怒りと雪辱に燃える復讐者の眼であった。
「だが、俺には責任がある。
ハスドルバルが築いたこの地の秩序を守る責任、イベリアを安定させ、カルタゴの力を揺るぎないものにする責任、そして――兵たちの動揺を今すぐ静める責任だ」
若きバルカ家の主の言葉に、百戦錬磨の将校たちが思わず深く頷き、次の言葉を待つ。
「いまこの地は混乱の淵にある。
イベリアの部族の中には我らの弱体を望む者もいるだろう。反旗を翻そうとする者もいるだろう。
何より、海の向こうのローマは、俺たちの隙を虎視眈々《こしたんたん》と狙っているはずだ。
だからこそ、今、俺たちは一枚岩になる必要がある」
ハンニバルは一度言葉を切り、将校たちの様子をうかがった。
発言する者はいなかった。
不満や異論があるからではない。
ただ、二十六歳の若き獅子が放つ静かな覇気に、誰もが自然と、その次の言葉を待ち受けていた。
「ハスドルバルの死を無駄にしてはならない」
ハンニバルの声が再び響く。
「彼が築いた秩序を守り、彼が目指した未来を継ぐ者が必要だ。
その責務は、ハスドルバルの義弟であり、ハミルカル・バルカの息子であるこの俺が負う。
――ハンニバル・バルカがイベリアをまとめ上げ、この地を守るカルタゴの不落の盾となろう」
ハンニバルは、この私邸と政庁が一体化した、古代的権力構造の象徴でもある荘厳な邸宅の主にふさわしい、威厳に満ちた言葉を諸将へと投げかけた。
張り詰めた沈黙が、評議の間を支配していた。
その静寂を破ったのは── 椅子を引く、乾いた音だった。
立ち上がったのは、父ハミルカルの時代から軍を支え続けてきた、最古参の宿将ボミルカルである。
老将は深く刻まれた眉間のシワを寄せ、ハンニバルを射抜くように見つめると、その胸に重々しく拳を当てた。
「……ハミルカル様の血と、その志を継ぐ者は……あなたしかいない。ハンニバル、私はあなたに従う」
その一言が引き金だった。言葉を飲み込んでいた若い将たちが、堰を切ったように次々と立ち上がり、拳を突き上げて叫ぶ。
「ハンニバルを総督に推す!」
「バルカ家の炎を継ぐ者に、我らの命を捧げる!」
その声を聴きながら、ハンニバルは静かに一歩前へ進み出た。
そして、衣服の擦れる音さえ聞こえるほどに諸将が再び静まり返るのを待って、静かに、しかし確固たる声で宣言した。
「諸将よ── 我らは今日より、新たな時代を刻む。父ハミルカルが遺した炎を再び掲げ、カルタゴの未来を、我らの手で切り拓く」
その声は、重く、揺るぎなかった。
その瞬間、その場にいた全員が悟った。
──言葉だけでなく、その背負う宿命の重さによって。
ハンニバル・バルカの時代が、いま始まったのだ、と。
歴史書では見えてこない、ハンニバルという人物の内面を描くこと。
それが本作の主題です。
史実の流れを踏まえつつ、彼の心に宿る影火、葛藤、誓いの重さを
一話ごとに丁寧に追っていきます。
皆さまの感想やご意見は、物語をさらに深める大きな力となります。




