第7話 涙には応えません
カタリナが訪ねてきたのは、レオン主催の夜会の三日前のことだった。
「ソフィア嬢、少しお時間をいただけますか」
カタリナの声は丁寧だった。以前、リーリアに対して使っていた「リーリアさん」という格下扱いの呼び方とは違う。「ソフィア嬢」。侯爵家の令嬢に対する正式な敬称だ。
ソフィアは応接間に通した。カタリナの目の下にうっすらと影がある。縁談の件で眠れていないのだろうか。
「弟のことで伺いました。弟は、以前の奥様を亡くしてから、ずっと後悔しています。あなたにお会いしてから、その後悔がさらに深くなっているようです。弟の気持ちを、どうか」
ソフィアはカタリナの目を見た。
「カタリナ様」
「はい」
「カタリナ様。ヴェルトハイム家で長く仕えていた使用人から聞きました。前の奥様のことを、ご家族は退屈な方だと評しておいでだったそうですね」
カタリナの顔から表情が消えた。
ハンナから聞いた話だ。ヴェルトハイム家に仕えていた頃のハンナは、カタリナが弟嫁を「退屈な人」と呼んでいたことを覚えていた。使用人の耳は、主人が思っている以上に多くのことを拾っている。
カタリナは自分が言ったことを覚えている。覚えていて、今になってその言葉の重さに気づき始めている。
「退屈な方がいなくなった後、お屋敷がどうなったか、カタリナ様はもうご存知でしょう」
カタリナは唇を引き結んだ。何も言えない。言い返す言葉がない。退屈な嫁がいなくなった結果を、自分の目で見てきた。蝋燭が獣脂に変わり、薔薇が枯れ、自分の縁談が揺らいだ。
「弟は反省しています。本当に」
「お気持ちはありがたく存じます。けれど、これ以上お話しすることはございません」
カタリナは立ち上がった。足元が少しふらついている。来たときよりも小さく見えた。
三日後、レオン主催の夜会。
広間は蜜蝋の蝋燭で明るく照らされ、招待状は丁寧に整えられ、座席は計画通りに配置されている。この夜会の招待状の文面を手がけたのはソフィアだ。レオンから依頼され、正当な報酬を受けて仕事をした。
アルベルトが来た。近隣の貴族には慣例として招待が出される。レオンもそれを止めなかった。
広間の入り口に立った彼を見て、ソフィアは前世の記憶を重ねた。最初の夜会で壁際に立っていた男。涙の跡があった男。今夜の彼は壁際ではなく、真っ直ぐにこちらに向かってきている。目に決意がある。
「クレスティン嬢、お話しさせてください」
周囲に人がいる。カタリナが少し離れた場所で見ている。マティアスもいる。レオンは卓の向こうで、グラスを手にしたまま視線をこちらに向けている。
「あの時の自分が間違っていた」
アルベルトの声は低く、震えている。感情を言葉にする訓練を受けていない人間の、不器用な告白。
「妻がしてくれたことのすべてを、当然だと思っていた。感謝を言わなかった。愛していないと言いながら、すべてを受け取っていた。それがどれほど残酷なことだったか、今は分かっている。やり直したい」
ソフィアは一瞬、足を止めた。アルベルトの目を見た。
その目に嘘はない。後悔は本物だ。何年も泣き続けた人間の、本物の痛みがそこにある。
けれど、それは愛ではない。
ソフィアは知っている。あの涙の正体を。リーリアを失った悲しみではなく、リーリアがいなくなって回らなくなった日常への恐怖。蜂蜜壺の蓋が閉まったまま。献立表が白紙のまま。庭の薔薇が枯れたまま。それらを元に戻したいという欲求。それは、愛ではない。
「伯爵のお言葉はありがたく存じます。ですが、私が整えるべき食卓は、もう別の場所にございます」
静かな声だった。怒りはない。恨みもない。すべてが終わった後の静けさ。
アルベルトの顔から血の気が引いた。
レオンが歩み寄った。アルベルトの横に立ち、低い声で言った。
「あの人が毎朝何をしていたか、あなたは一度でも見たのか」
アルベルトは答えられなかった。見なかった。一度も。パンが切り分けられていることも、蜂蜜壺の蓋が開いていることも、献立が毎日変わることも、招待状の文面が完璧に整えられていることも、見なかった。見る必要がないと思っていた。すべてが当然に回っていたから。
カタリナが目をそらした。マティアスは黙ったまま立っている。
ソフィアは会場を出た。廊下に出て、一つ深く息をついた。
それは解放の息だった。
前世で二年間、閉じ込めていたものが、今夜、すべて終わった。愛していないと言われた夜。蜂蜜壺の蓋を毎朝開けた朝。倒れる前日まで仕事をした日。それらすべてが、今夜の一言で終わった。
「大丈夫か」
レオンが廊下に出てきた。
「大丈夫です」
ソフィアは微笑んだ。社交用の笑顔ではなかった。
愛していなかった人が泣いた理由を、私はもう知っている。あの涙は愛ではない。だから、応えない。




