第8話 ありがとう、と言える食卓
レオンの辺境領に移ったのは、夜会から三ヶ月後のことだ。
交易路整備事業の実務担当として正式に契約し、月ごとの報酬を受け取り、北方の領地に拠点を構えた。侯爵家の次女としてではなく、仕事の対価を得る一人の人間として。
朝、目が覚めると、食卓にパンが切り分けられていた。
ソフィアは一瞬、前世の記憶と混同しかけた。自分が切ったのだと思った。けれど違う。台所に降りる前に、すでにパンは切り分けられていた。蜂蜜壺の蓋も開いている。銀の匙が壺の横に添えてある。
レオンが台所から出てきた。エプロンはしていないが、袖が少しまくれている。
「早かったな」
「レオン、これは」
「君が毎朝やっていたことを、俺もやりたかった」
ソフィアは食卓を見た。パンの切り方は不格好だ。厚さが均一ではない。蜂蜜壺の蓋は開いているが、匙の向きが逆だ。献立表はない。料理は台所のハンナに任せてあるらしく、鍋から漂う匂いだけが朝食の内容を告げている。
完璧ではない。前世のリーリアがやっていたような、すべてが整った食卓ではない。けれど、ここには一つだけ、前世の食卓になかったものがある。
食卓を整えた人間が、向かいの席に座っているということ。
レオンが椅子に座った。パンを取り、蜂蜜をつけて食べ始める。ソフィアも座った。向かい合って、パンを食べる。蜂蜜壺を交互に使う。前世では、蜂蜜壺を使うのはアルベルトだけだった。リーリアは自分の分のパンに蜂蜜をつけることはなかった。自分のことは後回しにする癖があった。
「ソフィア、今日の会議は午後からだ。午前中は書類の整理を頼みたい」
「承知しました」
「ありがとう」
ありがとう。
その言葉が、今朝も、当たり前に聞こえる。
最初に聞いたときは泣いた。二度目も、目頭が熱くなった。三度目から少しずつ慣れ始めた。十度目あたりで、ようやく「ありがとう」を聞いても泣かなくなった。今では、空気のように聞こえる。空気のように在る。
それが愛なのだと、ソフィアは思う。
失う前に見ること。対価を払うこと。感謝を言うこと。それらはすべて、大きな行為ではない。パンを切る。蓋を開ける。ありがとうと言う。小さなことだ。けれどその小さなことを毎朝繰り返すことが、食卓を食卓にする。
午前の仕事を終えて台所に戻ると、ハンナがいた。
老使用人は前世のヴェルトハイム家にも仕えていた女だ。リーリアの死後、最後までヴェルトハイム家に残り、やがて辞めて別の家に移った。ソフィアがレオンの辺境領に拠点を構えるとき、腕の良い使用人を探していて、ハンナを見つけた。ソフィアが自分で選んで雇った。前世の記憶はない。けれどソフィアの仕事ぶりを見るたびに「かつてのお方に似ておいでです」と呟くことがある。
ハンナはソフィアの食卓を見た。パンが切り分けられ、蜂蜜壺の蓋が開いている。向かいの席にはレオンが使った皿が残っている。二人分の皿。二人分のパン屑。二人分の蜂蜜の跡。
ハンナは静かに一礼した。
深い、長い、一礼。
何に対する礼なのか、ソフィアには分かる。ハンナは前世の記憶を持っていない。けれど、かつて仕えた主人が一人で整えていた食卓を知っている。感謝されないまま整え続け、最後まで一人だった食卓を。その食卓が、今、二人のものになっている。向かいの席に誰かがいて、「ありがとう」が聞こえる食卓になっている。
それを見届けた一礼だ。前世の主人への弔いが、ここで終わる。
ソフィアは頷いた。
午後の会議はいつも通りだ。書類を広げ、数字を確認し、レオンと議論し、修正案をまとめる。仕事に対して報酬が支払われ、能力に対して敬意が払われる。当たり前のことだ。当たり前のことが、当たり前に回っている。
夕方、食卓に座る。今度はソフィアが先に起きて食卓を整えた。パンを切り分け、蜂蜜壺の蓋を開け、匙を添えた。レオンが席につくと、すべてが整っている。
「ありがとう」
レオンが言う。
「いいえ」
ソフィアが微笑む。
前世では、この「ありがとう」がなかった。ただそれだけのことだ。ただそれだけのことが、人の人生を壊すこともあれば、人の人生を作ることもある。
窓の外に、夕日が沈んでいく。北方の領地の空は広い。交易路の向こうに、街道沿いの灌木が風に揺れている。
ソフィアは献立表を取り出した。白い紙に、明日の献立を書き込む。前世ではアルベルトの家のために書いていた献立表。今は、自分の食卓のために書く。自分が選んだ食卓のために。
失う前に見ること。それだけのことを、この食卓は毎朝教えてくれる。
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