第5話 対価
交易路の書類は、回を重ねるごとに増えていた。
ソフィアが三度目の実務会議に出席した日、レオンの執務室の卓には前回の倍の量の書類が積まれていた。通行税の見直し案、橋の修繕の見積もり、灌木伐採の進捗報告。北方領地と王都を結ぶ街道は長く、管理すべき区間は多い。
「クレスティン嬢、この区間の税率表を見てほしい」
レオンは書類を差し出しながら、視線を上げた。三度目の会議で、彼の態度は初回とは違う。初回は代理出席の令嬢への礼儀だった。二度目は能力への驚きが混じっていた。三度目の今日、彼の目には明確な期待がある。こちらの能力を前提にした、実務者の目だ。
ソフィアは税率表を受け取り、数字を追った。前世の記憶が自然に動く。リーリアとして領地の経営に関わった二年間で、数字の矛盾を見抜く目が養われた。通行税の仕組みは領地によって異なるが、根底にある論理は同じだ。入ってくる金と出ていく金。そのバランスを崩す要因は、大抵、誰かが見ていない場所にある。
「この区間、税率が去年から据え置きになっていますが、橋の修繕費が倍になっています。修繕費の増加分を通行税に転嫁していないなら、この区間だけ赤字になるはずです。けれど報告書には赤字の記載がありません。つまり、別の区間の税収で補填しているか、修繕費の見積もりが実態と合っていないかの、どちらかです」
レオンは書類を見返す。石工を手配した商会の名前を指で辿り、別の書類と照合する。
「後者だ。修繕費の見積もりが水増しされている。商会の担当者が変わってから単価が上がっている。気づかなかった」
「確認の方法があります。同じ石材を使っている他の区間の単価と比較すれば、水増し分が分かります」
ソフィアは卓の上の地図に手を伸ばし、三つの区間を指で示した。レオンがその指の動きを目で追い、地図に書き込みをする。赤い線の上に数字が加わっていく。二人の間に、書類と数字を介した効率のいい共同作業の流れができ始めている。前世ではこういう作業を一人でやっていた。誰にも見せず、誰にも手伝ってもらわず。
二件目の書類は街道沿いの灌木伐採の進捗に関するもので、三件目は各領主への通行税の改定通知の文面だった。ソフィアは文面の一箇所を指し、「この表現では南の領地の領主が反発します。以前の通達で使われていた言い回しに揃えたほうがいい」と伝えた。レオンは即座に修正案を書き入れる。指摘を素直に受け入れるだけでなく、修正の根拠を余白に記録する人だ。前世の夫は、指摘されること自体を不快に感じていた。
会議が一段落したとき、レオンが椅子の背にもたれた。
「クレスティン嬢。君に提案がある」
ソフィアは顔を上げた。
「この事業の実務担当として、正式に契約したい。報酬は月ごとに支払う。金額はこちらで提示する。君の能力に見合う額だ」
報酬。
その言葉を、ソフィアは一瞬、処理できなかった。前世では、自分の仕事に対価が支払われたことは一度もない。屋敷経営のすべてを一人で担い、それは「妻の務め」として消費された。対価どころか、感謝もない。毎朝の食卓も、献立も、招待状も、蜂蜜壺の蓋も、すべて無償で提供し、無償で受け取られた。
「当然のことですから、報酬などは」
言いかけて、止められた。
「当然のことに対価を払わなかった人間を、君はもう知っているだろう」
レオンの声は静かだ。目が真っ直ぐにこちらを向いている。彼はソフィアの過去を知らない。前世のことも、アルベルトのことも、蜂蜜壺のことも。けれどソフィアが「当然のことです」と繰り返すたびに、その言葉の裏にあるものを読んでいた。三度の会議で、三度同じ言葉を聞いた。そして三度目に、踏み込んできた。
感謝されなかった人間の習慣。対価をもらったことがない人間の口癖。当然だから価値がない、と自分で自分を値引きする癖。その癖がどこで身についたのか、レオンは聞かない。聞かないが、見ている。
ソフィアは黙った。何も言えなかった。
「君の能力には対価を払うべきだ。それが敬意というものだ。契約書を作る。条件に不満があれば交渉してくれ」
レオンは書類の束から白い紙を一枚取り出し、金額を書き込んだ。具体的な数字。月ごとの支払い額と、成果に応じた追加報酬。数字を見せるということは、交渉の余地を残しているということだ。曖昧な好意ではなく、明確な契約。ソフィアの仕事を正確に測った上での提示。
「承知しました」
声が少し震えた。自分でも驚くほど。
会議の書類を片付け終えた夕方、レオンが執務室の窓を開けた。北方の冷たい風が入ってくる。交易路の向こうに夕日が沈みかけている。街道沿いの灌木がオレンジ色に染まり、石橋の影が長く伸びている。
「今日の仕事、助かった。ありがとう」
ありがとう。
その言葉が、ソフィアの胸を貫いた。
前世で二年間、毎朝食卓を整えた。献立を書き、招待状を手配し、領民の対応をし、蜂蜜壺の蓋を開け続けた。来客の座席を配置し、蝋燭の在庫を管理し、庭師の給金を調整した。その間、一度も聞けなかった言葉。ありがとう。当たり前の言葉。当たり前すぎて、言わなくても済んでしまう言葉。言わなくても済むと思われていた言葉。
涙がこぼれた。
止められなかった。止める理由もなかった。この涙は痛みの涙ではない。長い間、閉まっていた蓋が開いた音のような涙だ。蜂蜜壺の蓋を毎朝一人で開けていた指が、ようやく誰かに気づかれた。その安堵に似た感覚。
レオンは何も聞かなかった。なぜ泣いているのか、問い詰めない。ただ窓の外を見たまま、少し間を置いて言った。
「礼を言われて泣く人間を、俺は放っておけない」
その声には、感情がにじんでいる。普段の率直さとは違う、言葉を選んだ後の、少し不器用な温度。けれどそれ以上は言わない。手も伸ばさない。ソフィアの涙が止まるのを、ただ待っている。
ソフィアは涙を拭った。袖で、不格好に。前世のリーリアなら人前で涙を見せることはなかった。けれど今世のソフィアは、拭った後に顔を上げることができる。
「失礼しました」
「謝らなくていい」
レオンは窓を閉めた。風が止まる。夕日の最後の光が、卓の上の書類を照らしている。
「次の会議は来週だ。契約書はそれまでに用意する」
仕事の話に戻る。その切り替えの速さが不思議と心地いい。感情を仕事で踏み荒らさない人だとソフィアは思う。踏み込むべきところで踏み込み、引くべきところで引く。その判断が、仕事でも感情でも正確な人。
帰りの馬車の中で、ソフィアは自分の手を見た。涙の跡が袖に残っている。
ありがとう、とその人は言った。たったそれだけの言葉を、前の人生では一度も聞けなかった。




