第4話 退屈な嫁の正体
弟の屋敷を訪ねたのは、自分の縁談のためだった。
カタリナは馬車を降り、伯爵邸の正面扉をくぐった。最初に気づいたのは匂いだ。廊下に獣脂の煤の匂いが染みついている。以前はこんな匂いはしなかった。見上げると、壁の燭台に刺さっている蝋燭が蜜蝋ではなく獣脂に変わっていた。黄色い焔が揺れ、天井に薄い煤の膜ができている。
リーリアさんがいた頃は、客間と廊下には必ず蜜蝋の蝋燭が使われていた。獣脂は使用人の居室と台所だけに限られる。その配分を管理していたのが誰だったか、カタリナは考えたことがなかった。考える必要がなかった。管理されていたから。
玄関を入ってすぐの花瓶に花がない。以前は季節の花が活けられていた。白い陶器の花瓶だけが、空のまま棚に置かれている。庭に回ると薔薇が枯れかけていた。剪定されていない枝が伸び放題で、棘が通路にまではみ出している。庭師が辞めたと聞いていたが、こうして目で見るのは初めてだ。枯れた花弁が地面に散っている。誰も掃いていない。踏むと乾いた音がした。
応接間でアルベルトと向き合う。弟の顔色は良いとは言えないが、目の下に影がある。長年の疲労が少しずつ顔の輪郭を変え始めている。以前はもっと端正に見えた。
「アルベルト、縁談の話を聞いたわ。ライナー子爵家からの打診、どうなっているの」
「先方が様子を見ると言っている」
「様子を見る、というのは体のいい保留よ。この家の評判を気にしているということ」
アルベルトは黙った。黙るときの目の動きが、以前と変わっている。以前は沈黙に自信があった。今の沈黙には、答えを持っていない人間の空白がある。
カタリナの縁談相手であるライナー子爵家は、伯爵家の評判を基準に縁談の可否を判断する。ヴェルトハイム伯爵家の社交での孤立は、ここ一年で急速に広まっている。招待状の文面が変わったこと。封蝋の押し方が以前と違うこと。夜会で伯爵に話しかける人間が減ったこと。それらが積み重なって「あの家は何かあった」という噂になる。
噂の出所は招待状だ。リーリアが書いていた招待状は、文面の格式、紙の質、封蝋の角度まで完璧に整えられていた。今は誰が書いているのか。おそらく使用人が見様見真似で書いているのだろう。それが分かる人間には分かる。社交界とはそういう残酷な場所だ。
「ハンナ」
カタリナは応接間に控えていた老使用人に声をかけた。
「この屋敷は、いつからこうなったの」
「奥様がお亡くなりになってから、少しずつでございます」
「少しずつ、というのは」
「最初に庭師のマルクスが辞めました。次に洗濯女のエルザ。それから台所のベルタ」
ハンナは一人ずつ名前を挙げた。どの名前も、カタリナには聞き覚えがない。
「皆、奥様に直接指示を受けていた者たちです。奥様がいなくなって、指示を出す人間がいなくなりました。旦那様は指示の出し方をご存じなかった。仕事の内容をご存じなかったから。何をどの順番でやればいいか、奥様だけが把握しておいでだったのです」
カタリナは黙った。
リーリアさん。弟の嫁。結婚して二年で亡くなった女。カタリナは彼女を「気が利くけれど退屈な人」と評していた。社交の場で隣に座ると話題が実務の話ばかりで、華やかさがない。もっと明るい令嬢のほうが弟には似合うと思っていた。他の令嬢を弟に紹介しようとしたこともある。
退屈、と呼んだ。あの女のことを。
「ハンナ、リーリアさんは毎日こんなことをしていたの」
カタリナは廊下の蝋燭を指し、台所の壁に掛かった白紙の献立表を指し、窓の外の枯れかけた庭を指す。蝋燭の配分。献立の管理。庭の手入れの監督。使用人の配置と給金の調整。来客の座席順と招待状の文面。
「はい。奥様がおひとりで」
ハンナの声は平坦だ。責めてはいない。事実を述べているだけだ。それが余計に胸に刺さる。感情のない事実ほど痛いものはない。
退屈だと思っていた理由を、今なら言える。リーリアの話は具体的すぎたのだ。「今月の蝋燭の在庫が減っている」「庭のバラの東側の株に虫がついている」「来月の夜会には北の領地から客が来るから、寒い地方の料理を用意したほうがいい」。そういう話を、カタリナは「退屈」と切り捨てた。華やかな社交の話題ではなかったから。ドレスや宝石や、誰が誰と踊ったかという話のほうが楽しかったから。
けれど蝋燭の在庫を管理する人がいなくなれば、客間に獣脂の煤の匂いが充満する。庭のバラの虫を駆除する人がいなくなれば、薔薇は枯れる。北の領地の客に合う料理を考える人がいなくなれば、来客は二度と来なくなる。それが社交の現実だ。
退屈な話の一つひとつが、この屋敷を支える柱だった。柱を退屈と呼んで蔑ろにした結果が、この獣脂の匂いだ。
退屈な嫁だと思っていた。華やかさがない。話がつまらない。けれどその退屈な嫁がこの屋敷のすべてを回していた。蝋燭の配分から庭の管理まで。使用人の給金の調整から来客の座席順まで。退屈に見えたのは、裏方の仕事が完璧に回っていたからだ。完璧に回っているものは目に入らない。目に入らないものは、ないのと同じに扱われる。
「カタリナ様」
ハンナが言った。
「ライナー子爵家のご令嬢が先日この屋敷をお訪ねになりました。お帰りの際、廊下の匂いを気にされていた様子でした」
獣脂の煤の匂い。来客がそれに気づいたということは、この屋敷の格が外部に伝わっている。
カタリナの縁談は兄の家の信用の上に成り立っている。兄の家の信用は、あの退屈な嫁が一人で築いたものだ。嫁がいなくなり、信用は崩れている。そして崩れた信用の上に立つカタリナの足元も、揺らぎ始めている。
帰りの馬車で、カタリナは窓の外を見た。街道沿いの木々が風に揺れている。獣脂の匂いが、まだ服に残っている気がした。いや、気のせいではない。長く居すぎた。あの屋敷の空気が、服の繊維に入り込んでいる。
ライナー子爵家の縁談が壊れたら、次はどこに話を持っていけるだろう。伯爵家の姉という肩書きは、伯爵家が機能していて初めて価値がある。弟の屋敷が崩壊すれば、カタリナの肩書きも崩壊する。
あの退屈な嫁を見下していたとき、自分がその嫁の裏方の仕事の恩恵を受けて暮らしているとは、考えたこともなかった。思う必要がなかった。すべてが回っていたから。
退屈な嫁と呼んだ女は、この屋敷のすべてを回していた。そしてカタリナの縁談は、その屋敷の信用の上に立っていた。




