第3話 この家には嫁げない
ヴェルトハイム伯爵家からの縁談の書状は、父の書斎に届いた。
ソフィアが呼ばれたのは、書状が届いた翌朝のことだ。父エルンストは窓際の椅子に座り、封を開いた書状を膝の上に置いていた。封蝋が割れている。伯爵家の紋章を押した封蝋。リーリアが管理していた、あの家の封蝋だ。押す角度、蝋の色、紋章の深さ。封蝋ひとつに家の格が出る。その細部のすべてを整えていたのはリーリアで、今は誰がやっているのだろう。おそらく、誰もやっていない。
「ソフィア、ヴェルトハイム伯爵家からお申し出があった」
穏やかな声だった。父はいつもこの調子で話す。声を荒げることがない。けれど穏やかさの奥に、侯爵としての判断がすでに出来上がっていることを、ソフィアは知っている。
「家格としては申し分ない。伯爵は若く、領地も安定している。君にとって悪い話ではないと思う」
領地が安定している、と父は言う。安定していない。リーリアが死んでから、あの領地は崩壊し始めている。使用人は去り、招待状の文面は乱れ、領民との信頼も揺らいでいる。けれどそれは外からは見えにくい。リーリアが築いたものの残骸が、まだかろうじて形を保っているからだ。外側だけが。
「お父様」
ソフィアは椅子に座ったまま、背筋を伸ばした。前世で何度もやった姿勢だ。来客に対応するとき、使用人に指示を出すとき、夫に何か伝えなければならないとき。伝えたことが受け取られたことは少なかったが。
「あの家には嫁げない理由がございます。お許しください」
声は穏やかで、震えもない。前世の記憶を持って生まれ直した人間の利点があるとすれば、同じ過ちを繰り返さないための判断力が最初からあることだ。あの家に嫁げば同じことが起きる。同じ食卓で、同じ蜂蜜壺の蓋を、同じように毎朝開けることになる。感謝されないまま。今度は、命が尽きるまで。前の人生で二年かかった崩壊が、今度は何年続くか分からない。分かっているのは、結末だけだ。
父は少し間を置いた。
「理由を聞いてもいいか」
「申し訳ございません。言葉にできる理由ではないのです」
前世の記憶がある、とは言えない。誰にも言えない。言ったところで信じてもらえないし、信じてもらう必要もない。必要なのは結論だけだ。この家に嫁がないという、自分で選んだ結論。
「ただ、ひとつだけ申し上げるなら」
ソフィアは父の目を見た。
「私の人生は、私が選びます」
長い沈黙があった。窓から入る朝の光が書斎の本棚を照らしている。埃が光の中で舞っている。父の手元に、割れた封蝋の欠片が落ちている。侯爵の書斎は静かで、時計の音だけが規則正しく刻みを打っている。
「分かった」
父はそれだけ言って、書状を畳んだ。畳み方が丁寧だった。断るにしても、相手の家への礼儀を崩さない人だ。ソフィアはこの父のもとに生まれ直したことに、小さな感謝を覚える。前世では、自分の意思を聞いてくれる人はいなかった。
その日の午後、交易路整備事業の実務会議が侯爵邸の応接間で開かれた。父が体調を崩し、ソフィアが代理で出席する。
応接間に入ると、長い卓の向こうに一人の男が座っていた。
レオン・アシュフォード辺境伯。三十歳。北方領地と王都を結ぶ交易路の整備を主導している実務家の貴族だと聞いている。広い肩幅と、日に焼けた手。書類を読む目は鋭いが、顔に威圧感はない。卓の上に地図が広げてあり、街道沿いの灌木伐採の区間が赤い線で引かれている。地図の端に、通行量の数字が几帳面な字で書き込まれている。実地を歩いた人間の字だ。
「クレスティン侯爵のご令嬢ですか。本日はお父上の代理と伺いました」
率直な声だった。社交辞令を省く話し方で、語尾に余分な敬語をつけない。商人と話す時の口調に近い。ソフィアの席まで目を動かし、それ以上の品定めはしない。
会議は交易路の通行税に関する書類の確認から始まった。卓の上に積まれた書類の束は厚い。複数の領地をまたぐ街道の整備には、各領主との調整が要る。灌木の伐採で見通しを確保し、橋の修繕に石工と木材を手配する。通行税の税率は荷物の種類と量で異なり、書類には各領地の税率表が添えられている。
ソフィアは書類に目を通した。数字の列が並んでいる。税率表、修繕費の見積もり、木材の調達先と単価。前世の記憶が動く。リーリアとして領民や商人との交渉を何度もこなした経験が、数字の並びから矛盾を拾い上げる。
「辺境伯、この第三橋の修繕費ですが、石工の単価が隣の領地と異なっています。同じ石材を同じ河岸から運ぶなら、単価の差は通行税の二重課税を前提にしているのではないでしょうか」
レオンの手が止まった。書類を見直す。数秒の沈黙の後、顔を上げる。
「その通りだ。見落としていた。なぜ気づいた」
「当然のことです。書類を読めば分かります」
当然のことです。
その言葉を口にした瞬間、ソフィアは自分の中の古い癖を感じた。前世でもそう言っていた。献立を整えるのは当然のこと。蜂蜜壺の蓋を開けるのは当然のこと。当然だから感謝はいらない。当然だから対価も要らない。そう思い込んでいた。思い込まされていた。
レオンはソフィアを見た。何かを考えている目だ。けれど、その場では何も言わなかった。会議は続き、ソフィアは三件の書類の不備を指摘し、レオンはそのすべてを即座に修正案に反映した。指摘を素直に受け入れる人だとソフィアは思う。書き直した部分に赤い線を引き、修正の根拠を余白に書き込んでいる。根拠を残す人だ。前世の夫は、指摘されること自体を嫌った。理由を問われると沈黙し、沈黙を権威で埋めた。
会議が終わり、レオンが書類を片付けながら言った。
「クレスティン嬢、また会議に出てもらえるか。侯爵にもお伝え願いたい」
「父にお伝えします」
レオンは頷く。それだけだ。社交辞令も追従もない。用が済めば終わる、という簡潔さ。不思議と不快ではなかった。
応接間を出た後、廊下を歩きながらソフィアは自分の手を見た。前世では、この手で蜂蜜壺の蓋を毎朝開けていた。今世では、交易路の書類の不備を指摘する手になっている。同じ実務能力。けれど、この能力に対して「なぜ気づいた」と問い返す人間がいる。それが前世との決定的な違いだ。
レオンは「なぜ気づいた」と問う。前世の夫は、気づいたことすら気づかない人だった。
当然のことです、とソフィアは言った。その言葉を、レオンはなぜか引っかかったまま持ち帰った。




